本日はまことに情けないことを書きます。
人間はそれぞれに自分が使うカラダを持っている。
そのカラダは生きてきた年齢分、使い続けているので、
自ずとその使用法、外界との臨界認識は自然に備わっているものです。
ごく当たり前のことですね。
ところが、最近、ごく些細なことで右手の小指を傷めてしまった。
出張に出るためにその準備として、旅行バッグに荷物を入れるべく
いろいろなことを考えながら、作業していて、
使い慣れているはずのその旅行バッグのファスナー部分に
この右手小指を衝突させてしまった。
ファスナー部分なので、その下にはポケット状の収納スペースがある。
体技的訓練、日常動作として、普通にモノをもって、
「滑り込ませる」可能限界認識からは、「十分に可能」と判断して
そのように動作したのが、結果として小指が小激突して、
衝撃痛を負ってしまったのであります。
ようするに体動作の限界認識に於いて、
判断基準をすこし変更させる必要が出てきた、高齢化対応が
求められるようになって来たということなのでしょう。
こういうのは、その現実を認識して深く思いを致させられる。
目がなかなか見えずらくなってくるとか、
動作の敏捷性がゆっくりとしてきたとか、いわゆる高齢化が
こういった体動作のこまかな部分にまで及んできているのだと
それこそ「痛感」させられた。
で、人間は他の動物と違って、手型の発展をしてきた生物。
多くの動物は「口型」であるのに対して、人に於いて手は決定的な器官だと。
言い換えれば、手は人間の体動作のなかでも
原始からかなりの「鍛錬」と経験を積み重ねている最重要な器官。
その基本利用に於いて、こういった失策をすることに驚かされた。
なんとも、情けないと加齢を思わされた次第であります。
写真は、10月20日前後の写真(左)といま現在11月10日の状態。
事件があった日が10月4日でした。
まぁかなりの衝撃ではあったけれど、外観的には出血などはごくわずかで、
小指の右側、爪の右側境界部分が一番衝撃を受けたようで、
事件後2週間程度の時点(写真左側)ではやや膿を持った状態。
このころは、炎症感も強く持っていて、外科にでも行くべきか、
と思案しておりましたが、体感的には「そこまでは必要ない」と思い、
そのまま放置して今日まで来て、いまはほとんど痛みはない状態。
わたしは、まだまだ爪の伸び方は早いほうで
やや爪が浮き上がった状態でもあるようでしたが、
内出血の状態も徐々に緩和してくるにつれて、爪の浮き上がりも
落ち着いてきているようであります。
ということで、全治1カ月以上ということのようで、
病院のお世話にならずに、自然治癒ということになってきていますが、
体の使い方、より注意深くしていかねばと、情けない決意をしている次第。
小事は大事と肝に銘じております。
Posted on 11月 11th, 2016 by 三木 奎吾
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