出張時の楽しみに、各地の神社拝観があります。
とくに「一の宮」には、その地の祖霊が宿る感があって、
背筋の伸びる思いがいたします。
しかし、そのなかでも、各神社によって、あるいは土地によって、
自ずと違いがあって、地域性の基盤を形成している、
地域文化性のなにものかを表現していると思っています。
この「津軽国一の宮」である岩木山神社は、
神体が岩木山本体であることが明瞭で、日本国家神道というよりも
より、地域性を強く感じさせられる神社です。
2枚目の写真は中門の掲額を仰ぎ見たのですが、
「北門鎮護」と明瞭に墨書されて、この神さまが、
江戸期まで日本国家の北辺にあって、ながく国家を守ってきた故事を
自ずと想起させられるし、北海道から訪れると、
どこか、親近感も感じられます。
で、その中門などがきわめて特徴的ですが、
日光と同時代性を感じる極彩色のキッチュさで、
まことににぎやかな装飾性を身にまとわれている。
で、縁起を調べてみると、開基は780年ころという説もある。
「陸奧動乱」とされる時期で、多賀城国府への反乱記録もある。
その後、800年にいたって、奥羽地域征服戦争を仕掛けた
坂上田村麻呂が戦勝にあたって、岩木山山頂に社殿を再建し、
その後、下居宮(おりいのみや=麓宮、現在の厳鬼山神社)が建立され、
山頂の社は奥宮とされたとのこと。
日本国家としての戦勝記念メモリアルとして創建されたのでしょう。
しかし、その地の神々へのリスペクトを持って占領担当官・田村麻呂は
あたったに相違なく、「地神」としての崇敬を集めたものでしょう。
「おいわきさん」という地域の尊敬を込めた呼び方が、
山自体とこの神社に集まり続けたことが、それを証している。
そういった長い歴史の積み重ねが、社殿建築に表れている。
戦国末、当時は神仏習合で「百沢寺」であった社殿は、
天正17年(1589年)岩木山の噴火により、消失したそうです。
この当時は津軽為信による南部藩からの独立の時期にも相当する。
まことに、地の神さまらしい有為転変ぶりとも思われます。
再建されたのが、こういった時期からなので、
現在残っている社殿は、抜けがたく戦国末期〜江戸初期の
絢爛豪華さが意匠に全面展開しているのでしょう。
まことに、にぎやかで津軽らしい華やぎが感じられる神さまでした。
Posted on 4月 8th, 2016 by 三木 奎吾
Filed under: 日本社会・文化研究, 歴史探訪
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