札幌の「真駒内霊園」というと、
札幌に住んでいる人にとっては、まことに微妙なイメージの場所。
なぜか、入り口近くにはモアイ像が林立していたり、
石造りのシカがそこにミスマッチにたたずんでいたりする。
どうも奈良の大仏のパクリで、シカも動員されたものと推測できる。
そういうなんでもありの混沌状況がキッチュで楽しいとも言えるのですが、
まぁ、なんとも微妙な、というのが偽らざる心境。
そもそも霊園墓地で、そういったキッチュさは必要なのか、
人類の定住が始まってから15,000年として、たぶん墓地というのは
それと同じか以上くらいの歳月、人類の歩みとともに存在してきたと思う。
死者への敬意は人類とともに存続し続けるものと思うけれど、
どう考えても、自然や物質に戻るのがイキモノとしての輪廻。
そういう悠久性で考えると、あまり仰々しくしたくはないのではないかと。
わたしとしては、ここに墓地を求めたいかと言われれば、避けたい気持ちも強い(笑)。
ただ、そういう墓地に商業主義がありうるのも現代資本主義社会。
話題を提供してという、売らんが為の作為が働くのも、理解出来る。
そういった雑感を抱く施設に、
これまで普通に建てられていた大仏があって、
その再活用を、墓園管理の企業から依頼を受けて、
そこにこれでもかの、安藤忠雄作品が「頭を出しつつ」ある。
<画像は、周辺に建てられている看板その他を撮影したものです>
安藤さんの札幌での講演会で、この「作品」のことを聞いて
一度は見てみたいと思っていたのですが、きのう、近隣に要件があって
訪問することが出来ました。
その制作意図はまことにわかりやすく、
プレゼンテーション・表現能力については、まことに強いメッセージ。
キッチュに建てられ、素裸にさらされていた大仏を
周辺から土を盛り上げて、頭部だけ残して埋めてしまう。
しかし、大仏の仏体自体には土は被覆させずに、
盛り土小山にトンネルを掘って、中心部に端座する大仏に向かって、
その明るさに向かって、人々を歩ませていく。
やがて徐々に高まる予感の末に、
いきなり明るい空間の中で、この神々しい大仏を仰ぎ見させる。
その劇的な体験感を味わわせようという、建築者としての構想力はすごい。
こういう回遊性と、出会いの衝撃性の演出は、茶室などに
一般的に使われ続けてきた技法だろうし、
人類社会に普遍的だったのではないかと思います。
たぶん、歴史的に「宗教施設」に対して建築がリクエストされてきたことが、
こういうわかりやすさであったであろうことも、想像するに難くない。
さてこの施設・頭大仏は、間違いなく
札幌の新名所になっていくことだろうと思います。
たしかにメッチャ面白い、しかし・・・。
この頭大仏が、はたしてどんな評価になっていくのか、
わたしとしては、むしろ、そのことの方に興味が湧いてきています。
Posted on 9月 20th, 2015 by 三木 奎吾
Filed under: 日本社会・文化研究
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