函館は、小さいときから好きだった街であります。
伯父が永く住んでいて、こどもができなかったことから、
姉であるわたしの母に、わたしを養子としてもらい受けたいと念願していた。
なんども言われ続けて、母も一度わたしに話したことがある。
わたしが頑強に「イヤだ、絶対に」と抵抗して沙汰止みになった。
伯父に申し訳ない気持ちもあったのか、
母はときどきわたしを連れて、函館に来ていた記憶がある。
そういう経緯であったか、前後はあるいは逆だったかも知れない。
見合いのようなかたちでわたしを伯父夫婦に会わせて、
その様子から、伯父が正式に「養子に・・・」と切りだしたのかも知れない。
まぁ、こういったケースは昔は多かったようだけれど、
いまとなっては、みんな亡くなっていて、確かめる術もない。
はるかな後年、母を連れて函館に来ていたりもした。
そんなことが記憶の底に沈殿しているのか、
不思議と函館のことが、好きになっている。
札幌が北海道の首府として開拓が進む前、
函館は、北海道の旧都であった歴史を持つ。
この函館八幡宮も、来歴を文安2年(1445年)、
亀田郡の領主であった河野政通が函館・元町に城を築く際、
城の鎮守として城域東南隅に八幡神を勧請したのに始まると伝えられる。
室町の世にまでさかのぼる来歴になる。
その直後にアイヌからの攻撃で河野氏が敗退したりしたそうで、
武神として八幡神が勧請されたというのも、さもありなんと思わせる。
そういえば、河野氏というのは、わが家の家系伝承にも名前が出てくる。
その後、寛政11年(1799年)東蝦夷を公議御料(幕府直轄領)とした
江戸幕府が社地に箱館奉行所を置くことになったため、
文化元年(1804年)、幕府の費用で会所町(現函館市元町北東部)に
社殿を造営して遷座、以後箱館奉行所は当宮を祈願所とし、
蝦夷地総社として崇敬した、とされている。
そういう意味合いでは、北海道神宮が造営された札幌に先んじて、
この地が北海道の中心であったというのは、歴史事実なのだろうと。
こういった来歴からか、外観風貌はまことに古格そのもの。
屋根のデザインが見るものを惹き付ける。
こういった趣味傾向は、北海道的なデザイン傾向ではなく、内地的。
北海道では積雪荷重を考えて、水平方向にはあんまり伸ばさないのが
一般的だと思うのですが、これでもかと水平が強調されている。
正面から見る破風も、やたらヨコに長い。
北海道はほかの日本の「◎◎国」という概念で言えば
6カ国くらいに相当する面積なので
この神社は、道南国一の宮というようにみなしてもいいでしょうね。
社格、雰囲気とも、ちょっと北海道離れしていて
そういう意味でも、いかにも函館らしくて
ちょっと好きなスポットになりました。
Posted on 9月 16th, 2015 by 三木 奎吾
Filed under: 歴史探訪
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