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北海道の中世遺跡

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北海道の中世史って、
わたしたちの年代ではまったく解明された事実がない状態でしたが、
近年、盛んに考古発掘が相次いできていて、
いろいろな様子がわかってきています。
写真は、史跡上之国館跡 勝山館跡(国指定史跡)のジオラマの様子です。
推定されている年代は15世紀後半から16世紀一杯ということですから、
ちょうど日本史の側では戦国期に相当する時代。
下克上の風潮に乗って、伝統的な支配者である
安東氏に代わって、蠣崎氏〜のちの松前氏が勃興していたころ。
北海道に和人地を築いて、北方との交易を主な生業とした勢力は
たぶん、北東北に勢力を築いた「安倍氏」の末裔が主流だったと思います。
平泉藤原氏の滅亡後、すぐに鎌倉政権側と外交的に手打ちを行って
北条家の代理人として十三湊に現地支配権を確立した安東氏は
安倍氏の嫡子を始祖とする家系伝説を持っている。
その安東氏が、八戸周辺に勢力を築いた南部氏に勢力を奪われて
本州地域での支配地を失って北海道に渡ったもの。
その家臣であった蠣崎氏が、実力でアイヌの蜂起をかろうじて撃退したことで
主家から禅譲される形で支配権を確立した。
そんな時期に、作られた城郭都市がこの遺跡です。
当時の勢力分布からすれば、この城郭が対アイヌとの境界地域。
夷王山という天然の要害中腹にこの城郭は位置しています。
その位置から眼下には北方の日本海が遠望でき、
日常的には交易の船舶をチェックできたでしょうし、
戦時には、敵対する軍勢の攻撃を予見することが出来ただろうと思います。
アイヌや、より北方の勢力が攻撃してくる場合、
多くは海上を通って攻めてきたものと推測できます。
安倍氏の東北での支配時代でも、蝦夷同士の敵対関係を利用していた節がありますが、
この城郭には、基本的には敵対関係にあると思われるアイヌのひとたちの
生活痕跡もたくさん出てくるのだとか。
たぶん、アイヌ勢力の中に蠣崎氏に取り込まれた勢力もあって
同盟的な関係を持っていたものと推定できます。
この写真はジオラマですが、
海面からはかなり高台に、見張りの望楼も設けたり
あるいはから堀や柵を厳重にしたりと、
かなりの軍事的緊張を感じさせる造作になっています。
でありながら、柵の中には中央に通りを設けて
日常的な「生活感」も見ることができます。
こぢんまりとはしているけれど「中世都市」という感もある遺構です。
いろいろと具体的な交易の関係性であるとか、
位置関係的にも、きわめて興味深い想像が盛り上がってきますね。
さてさて、どんな光景が展開されていたものか?
北のくらしデザインセンター
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