北陸行脚以来、すっかり「禅宗」についてハマっております。
どうしようかな、わたし真言宗なんですけど(笑)
っていっても、家の宗旨であって、自ら選択したものでもないし、
たまたまお世話になっている、親もその宗旨のお寺で弔ってもらっている
というご縁があるということですが、
まぁ、個人的に興味を持つというのは、お許し願えるものと勝手に解釈。
ただ、宗教と日本人というのは、たいへん長い付き合いであって、
いろいろに生きた、あるいは死後も契約し続けてきたという意味で
日本人の死生観に大きな部分を占めていることがらでしょう。
歳を重ねて、こういうことに興味が深まるのはムリからぬものがあります。
で、そういった宗教において、建築が占める領域も広く深い。
建築の発展に置いて、宗教が関与した部分はきわめて重要だったのでしょうし、
今後とも、そうであることは間違いがなさそうです。
そんな前置きで、この建物であります。
江戸期の大名の中で、特異的な大名として生き延びた
前田家は、一向一揆の大根拠地を支配するのに
いちばん都合が良かったと目される禅宗を積極的に導入し、
民衆支配の武器に使ったことは理解出来る。
一向宗、浄土真宗が、たいへん権力志向的な反抗的な宗教であったのに対して
武家政権、鎌倉幕府開設以来、その教義において内省的な禅は、
武家権力にとって都合の良い宗教だったのだろうと思います。
そして民衆の側でも、それを受け入れてきた歴史があるのだろうと思います。
わたしは学生運動とか経験した世代なので
「加賀は百姓の持ちたる国」というフレーズにしびれていた(笑)。
そして当時、バイブルであった「忍者武芸帳・影丸伝」の
「われらは、遠くより来た。そして遠くまで行くのだ」
というような、政治的反抗者・影丸のことばが胸に生き続けてきた。
そういった人間からすると、北陸はその発祥地という理解があったけれど、
その後、この地を支配した前田家は、
このような戦闘的な民衆を、長い時間を掛けて温和な民に変えた。
少なくとも、今日のこの地方には、
禅の総本山がふたつとも存在し続けた。
総持寺と永平寺(明治以降、総持寺は鶴見に移転したけれど)があり、
そして、前田家の菩提を弔うこの瑞龍寺など、
まさに国を挙げて、禅に帰依しつづけてきたのだと思う。
写真は仏殿の内部であります。
形だけ見ると、これはキリスト教の祭壇に酷似している。
この創建の時代は、まさにキリスト教の布教活動も活発だったので
どうも、そういった影響もあったものかも知れませんね。
ちょっと、内省的精神性重視の禅には不似合いな印象を持った次第です。
そういったことには、インターネット上では触れられていない
解説が多かったのですが、どうなんでしょうか?
永平寺にしろ、総持寺にしろ、こういった祭壇的な宗教建築志向はない。
すこし異質な感じがしませんか?
ちょっと謎めいていて、好きになった建築であります。
Posted on 7月 28th, 2014 by 三木 奎吾
Filed under: 日本社会・文化研究
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