先日見学して来た上藻別駅逓には鴻之舞金山の資料が展示されています。
たいへん面白いエピソードをたくさん聞けたのですが、
そのなかでもいちばん面白かったのが、
最初、この地域の鉱脈を発見した「金堀人」さんたちのこと。
写真のみなさんなのですが、
まぁ、普通の「山師」さんたちだと思うのですが、
かれらが、大阪に行って大財閥の住友に売った鉱業権の値段が
90万円だったそうなのです。
で、それは1917年だったそうで、
その年の国家予算を調べてみたら、7億3000万円ほど。
ですから、国家予算の0.1%強の値段だったことになる。
いまの国家予算はおおむね90兆円程度ですから
単純に言えば、1000億円くらいが対照価格になる。
どんなに少なく考えても、現在の購買力平価換算で
数十億円相当にはなったようです。
まぁ、現在価値との換算は置くとしても、
一般の人間が想像できる範囲をはるかに超えた金額だったのでしょう。
交渉が無事にまとまってからのかれらは
大阪で、芸者さんを挙げて大騒ぎしたという逸話を聞かされました。
そういう人生のきらめきを生き得たという意味では
まことに面白いことに遭遇できた稀有なみなさんだと思います。
そんなことから面白くなって
浅田政広さんという方が書いた『北海道金鉱山史研究』という研究資料を発見。
そこには、以下のようなくだりもありました。(一部加筆)
北海道における金の発見は,史料的に見る限り,
1205年(元久2年)まで遡ることができる。
すなわち「知内村大野土佐日記によれば,同年,筑前の船が(道南の)知内に漂着し,
水夫が発見した塊金を甲斐の領主荒木犬学に献上,
荒木はそれを鎌倉幕府二代目将軍源頼家に献上したところ採掘を命じられ,
掘り子800人,家中計約1000人で1217年(建保5年)まで
足掛け13年間に渡って金採掘をおこなったというものである。
どうも、北海道の歴史には
このような鉱物資源、漁業資源の採取にまつわる痕跡が抜けがたくある。
こうした山師的な事跡というのは
かたちとして残ることが少なく、一瞬の光芒を見せたあと、
あとかたもなく消え失せてしまう。
住友財閥も、この鉱山跡については「自然に帰す」方針をとっている。
しかしいまでも、産金の後遺症とも言える
毒水の処理が取り組まれているそうです。
企業の責任のありようとして、ひとつの見識だとも思えます。
一方で、このような稀有な幸運にめぐり会ったみなさん、
しかしその後、末路はけっして幸せとは言えなかったようです。
この写真の中でいまでも家系が紋別などの周辺地域に残られているのは
2軒ほどだそうで、それ以外は、結局あざなえる禍福の
ことわざまんまの浮沈を生きられたそうです。
Posted on 6月 6th, 2014 by 三木 奎吾
Filed under: 歴史探訪
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