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奥州藤原氏館方向から束稲山を見る

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平泉の周辺はことし、世界遺産の登録審査を迎えると言うこと。
今回初めて、中尊寺以外の平泉地区を訪れてみて、
その中世都市としての広がりを少しイメージすることができました。
写真は都市としての平泉が持った最大の交通手段、北上川と、
その東方対岸に見える束稲山の様子です。
撮影したのは、柳の御所と呼ばれた奥州藤原氏の主要居館方向。
北上川は南下すると石巻あたりで太平洋に出て
太平洋岸の湊・伊勢などから京都へ、はるかに連なっています。
この物資の大動脈を通って、黄金をはじめとする
東北地域の物産が都へ運ばれ、同時に都を通して
世界中のものがこの平泉の地にもたらされてきたのでしょう。
マルコポーロが書いた「黄金の国・ジパング」というイメージも
この平泉の繁栄ぶりを誇張した表現であったのではないかと思われます。
中世都市の場合、そこにひとびとを引きつける魅力って、
宗教的な「極楽浄土」にもっとも近い、という要素があったでしょう。
日本の権力争奪者たちが折り重なるように宗教施設を建ててきた
京都や奈良の街を見れば明白。
その意味で、権力と宗教的魅力とは一体的なものであり、
主要な寺だけでも、毛越寺・中尊寺・立石寺という巨大伽藍を配していた
この平泉は、まさに独立王国的な存在を誇示していたに違いない。
対面している束稲山は、西行によって桜の名所として謳われましたが、
その後、藤原氏滅亡後は桜はほとんど維持できなかったそうです。
藤原氏がこの山に桜を大量に植えたという記録があり、
大切に保護し続けていたのが、自然林に戻ってしまった。
桜というのは、そのように人間による手間暇がかかる森なのですね。
現在は一部に桜が植えられているようですが、
奥州藤原氏全盛の当時は、全山桜色に染まるような光景だったに違いありません。
桜に異常なまでの好き心を見せた歌人・西行が
都から遙かにこの地を訪れたというのもむべなるかな、です。
中世都市・平泉を再現復興するようなプロジェクトが
世界遺産登録によって促進されることと思います。
平成の大合併に当たっても、平泉が合併を避けたのは
きっとそのような思惑が強く働いた結果なのではないかと思われます。
北上川河岸に沿って国道4号線と合流するバイパスが造られ、
太平洋岸方向へ、新しい道路も建設されています。
こうした開発行為に対して批判的な声もあると聞きました。
こうやってみてくると、
やはり東北地域の固有性の中心って、やはり仙台と言うよりも
この平泉を中心とする一帯の方がふさわしいと思われます。
そういう地域文化の再生という意味では
世界遺産登録という機会をうまく生かしていくのが賢いでしょう。
地域の誇りを作り出す、という側面から考えたら、
よい税金の使い方のような気がしてきます。いかがでしょうか。

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