きのうは、朝から山形にある東北芸術工科大学キャンパスで
「中世への胎動」と題した歴史考古のコラボのシンポジウムに参加。
歴史というのは、残された文献記録を発掘し、
それを論拠にして解釈を展開していくスタイルが一般的。
それに対して考古学は、あくまでも遺跡などから発掘されるモノを
徹底的に調査し、いわば「物証」をもとに推論展開していく。
個人的には、どちらかといえば、考古的なスタイルの方に
親近感を隠せないのですが、
今回のシンポジウムは、たいへん企画意図も面白く、
広がりが大変深く、大きい領域にまたがる。
入間田先生というこの大学で歴史を教えられている先生から、
基調講演的に、1日目に発表があり、
そこでは氏から、鎌倉武家政権の端緒が奥六郡世界での
安倍氏・清原氏・藤原氏と連なる武権にそのルーツが存在する、
という見方・見解が表明されていました。
とくに、清原真衡と、ときの「陸奥守」との連合軍によって開始され
その後、清原真衡の単独軍によって制圧された延久戦争が、
あらたな「征服地域の拡大」という新展開の中で、
「日本国」に支配構造の転換がもたらされ、
その結果、清原真衡の発案になると見られる
日本の貴種を再編成した支配権力構造、
自らの後継者として、血のつながりのない海道平氏と、
その妻にこれも血のつながりのない源氏の血筋の娘を夫婦で持ってきて
そういうオープンな「日本」支配構造を確立しようと考えた。
というように論証されていました。
この考え方の延長線上に、貴種としての源氏を頂点に据えた
関東武家政権という構想が着想され、
その支配原理構造として、同時に仏教も導入されていった、
という展開でした。
久しぶりに爽快な歴史家の主張を聞いた思いで、喝采です。
これまで、後三年戦争の内部矛盾の事案としか想定されていなかった、
清原真衡の政権構想というものが
こういう照射のされ方をしたのは、初めてです。
まぁ、この論拠がごく少数の文献記録に依ることなので、
今後、歴史学会でいろいろに議論が闘わされるのだろうなと思われますね。
しかし、歴史への新たな挑戦的議論で、
同時に平泉に成立した武家政権に、より大きな意味が見いだされ、
そしてそのことは、北方日本の歴史のとらえ方に
さらに大きな可能性を見いださせることになるものと思います。
で、セミナー途中で
NHKの取材を受けてしまいました(笑)。
まぁ、興味深いテーマではありますが、
今のところマイナーなテーマなので参加者は40名程度と少なかったので、
参加者インタビューのお鉢が回ってきた次第。
NHKさんとしては、平泉の世界遺産登録を踏まえて
この周辺の歴史を再度、
スポットを当てていきたいと考えているのだと思います。
趣旨は大賛成なので、積極的に協力しましたが、
さてどんな番組でどういう扱いになるモノか、
そういう興味も津々であります。
会場の空調についてきのうのブログで書いたら、
一転して強力な冷房が効かせてありまして、
やや、寒いほどであったこと、付記いたします(笑)。
Posted on 9月 4th, 2011 by replanmin
Filed under: 歴史探訪
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