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平泉、世界遺産へ

けさ5月7日の朝日新聞WEB版によると、
平泉の仏教浄土思想に基づく一連の建築群が、世界遺産に指定される見通しということ。
おめでたい話題だと、思います。
今回、前回08年の申請と、そう大差のない
内容であったものが認定された背景には、
未曾有の大震災からの東北地域の復興に対しての配慮があったとは思います。
しかし、それを越えて
これまでの地元のみなさんの粘り強い努力がようやく実を結んだものと思います。
この決定をきっかけにして、
東北の魅力をさらに高めて、国内景気の浮揚にも繋げて欲しい。
不幸を、これでもかと経験してしまった地域が
どれだけ立ち直っていくか、
それが日本の復興にも繋がっていくのだと思います。
今回のユネスコの決定には、そんな世界の希望が託されていると感謝すべきでしょうね。
そうした暖かい思いを、活かせていくことが出来るか。
問題は、これからの展開に掛かっていると思います。

平泉の、日本歴史における位置は
これまで、必ずしも最重要と目されてきたわけではない。
日本歴史は、基本的には畿内地域での権力争闘、
さらに、関東平野の利権を巡っての血みどろの土地争奪戦争が基本の流れ。
「国家」という権力史観が、そういう認識のはじめに存在する。
「日本はひとつである」というイデオロギーであり、
そういう史観から、中央での動向こそがすべてにおいて決定的だと考えるようになる。
まぁ、知らず知らず、誰でも同じような考え方をするものでしょう。
ただし、変化は辺境地域に於いて決定的に起こる。
日本の歴史が、畿内地域中心から、関東平野に移ったとき、
その変化というのは、土地を巡っての剥き出しのリアリズム、
この土地は俺、わが家のものだ、という権利をそのまま保証する体制ができた。
こういう強い「封建制規範」の存在が日本史の特徴だと思う。
そしてそういう律令国家体制とはまったく異質な権力構造を
準備していたのが、平泉の体制であり、
治外法権的に畿内政権とのバランスを取っていた日本とは別個の王権だった。

平泉を、日本国家がユネスコに推薦する論理、というのが
わたしにはよく想像できなかったのですが、
「仏教浄土思想に基づく一連の建築」という整理の仕方をしていました。
まぁ、それ以外にはなかなか論理構成が出来なかったのでしょう。
文化的には、平安王朝文化がそっくり移植されたものであったと思います。
写真は「毛通寺」の臨池庭園ですが、
こういうスタイルは、同時代の平等院鳳凰堂などに似たスタイル。
そしてそれは、確かに末法思想によると言えます。
しかし、平泉の特殊性はむしろ、
日本国家権力中枢に対して、「外交」的に併存した王権が
かつて、日本の一地域にも存在した、という事実の方だと思います。
そのことが、頼朝の権力構想に於いて
大変大きな参考になったという事実の方が、
平泉の、日本歴史に於いての最大の価値なのではないかと思います。
言ってみれば、「地方分権型・分散型国家構想」の選択肢のひとつとして
シンボル的に、位置させるのがふさわしいと個人的に思っています。

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