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北海道と中国王朝の関係

写真は、北海道上ノ国町の夷王山の中世遺跡復元ジオラマです。
長年のテーマ領域で、調査を進めているのですが、
中国側の王朝記録に、「蝦夷千島王」という朝貢記録があり、
その人物に、どうもこの中世遺跡の主である勢力・人物が
どうも擬せられてきている、ということなんですね。

この中世遺跡は、登ってみるとわかるのですが、
その位置からは、北方の日本海に対して眺望の利く位置にあたっている。
上ノ国の南側の松前では、ひたすら
南方の日本社会との交流という側面だけに考えが集約されている
そういった意識を感じますが、
ここでは、むしろ、北方との交流、交易というものを考えている。
アムール川河口地域とサハリン島は、
一衣帯水であり、活発な交流が中国王朝側資料からも明白。
サハリンは、希少な野生動物・クロテンが獲得できる
狩猟採集社会でも、最上級の交易品を手に入れることが出来る地域だった。
というように認識されていたのですね。
元の時代には、直接支配あるいは間接的な支配が行われてもいる。
で、北海道島は、もちろん日本本州社会との関係が強いのだけれど、
一方で、日本社会に対しての交易品は
むしろより北方の、サハリンやアムール川河口地域との「交易」品が
日本社会側への最大のものになっている。
歴史年代を通して、日本社会側が求めたものは変化したようですが、
基本的にはこういった構図が続いていた時代が長い。
この遺跡の主は、十三湊などでの「北方交易」で
栄えていた安藤氏ではないかと思われるのですが、
このような北方ルートで、中国王朝側と接触を図っていた可能性が高い。

こういった北方交易は、
自然動植物への狩猟採集獲得品が主体であり、
近代経済社会では、その価値観が低下している存在なので、
なかなかその実像をありありと想起することが出来ないけれど、
一貫して、日本社会側でもその交易産品に対する希求心は
根強く存在し続けてきた。
狩猟採集の経済、というものを学ばなければ
もうすこし、リアルな歴史感覚にはならない部分があると思います。
この写真のジオラマをじっとみていると、
そんな思いがわき上がってきます。

しかし、最近の中国側の膨張意識を見ていると、
琉球奪還、とかまで言い始めているようなので、
こういう朝貢記録をタテに、
「北海道も・・・」とまで、言い始めるかも、
っていうように思われて、ちょっと不安な気持ちもしてきます。
まぁ、そんなことを言い始めたら、
朝鮮半島全域まで中国である、ということのほうが
歴史的事実としてはたくさんありますが・・・。
東アジアの世界、なかなか難しい歴史が繰り返されてきたと思います。

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