写真は、ここのところご紹介している播州姫路林田の三木家住宅。
江戸期を通じて「大庄屋」をやっていた家系伝承につらなる家。
徳川政権というのは、経済的な基盤を農業支配においた重農主義政権。
士農工商という「身分制度」で社会を縛り上げていた。
その支配の基本は、基本的生産細胞といえる「ムラ」の庄屋を単位にしていた。
「農」の支配方法として上級農業者を庄屋にして、
いわば自治的に、別の見方では武家の代理人機能を持たせていた。
そういった上級農民には苗字帯刀を許したりもして、
かれらの支配構造に組み込んだりしていた。
この家を見ると、そういった支配と被支配の関係構図が明瞭にうかがえる。
写真はこの大庄屋の塀で区切られた広大な「中庭」。
この中庭は、その年に生産された米を中心とする農業生産物を、
この場所で貢納させて「検見」する場として機能していた。
中庭からすぐの場所には下の写真のような集積倉庫も併設された。
庄屋というのは農業者の代表、まとめ役であり、
同時に支配者の代理人としても機能した存在だったのでしょう。
まさに武家政権側としては、その存立に直接関わる経済の中核主体。
収奪する米について、生産量の5割にしてほしい、その代わり
現金で数十両支払う、といった武家側との交渉記録文書も確認できた。
武家側で現金の必要が生じたことがあって、
そのような支配ー被支配両者での「手打ち」もあったとされていた。
大庄屋という存在は、こうした農業生産物の「流通」を通して
水運・海運に関わることが大きい商家との関係が深まる。
さらにそこに、こうした農業生産物を「担保」にしての商取引も生まれてくる。
いわば自然発生的に信用取引が生まれてくるのですね。
こうした物流経済の現場では、さまざまな「商品」がビジネスチャンスも生む。
たとえば江戸中期以降、活発化した北前船交易などでは、
蝦夷地で生産されるサケが大きな取引商品になるけれど、
瀬戸内海地域ではその塩蔵のために製塩業が盛んになっていて、
わが家系の消息でもこの時期、製塩業も営んでいた事実があったりする。
さらにその製塩ビジネスでも初期の大儲け段階と末期の投げ売り状況など
まるで現代のビジネス状況と同様のことも見えていた(笑)。
これら庄屋と商家、北前船交易主体などとの間で、こうした商品を巡っての
資本取引・信用取引がさかんになっていくという構図はわかりやすい。
この播州姫路は、北前船の大阪への最終停泊地であり、
情報のやり取りもしやすく、さもありなんといった状況に想像が膨らむ。
はるかに後年になるけれど、こうした商ビジネスを理解していたわたしの父は
遠く北海道岩見沢の農家でありながら「ユリ根」を集積して大阪に送り、
市場で取引をしていたという事実がある。血がつながっている感覚(笑)。
その結果で儲けたり、損を出したりしそうになったという。
情報によってモノの価格が大きく変動する情報社会の萌芽も見えてくる。
秀吉の政権下で確立した「天下の台所・大阪」という流通ビジネスの基本は
江戸の重農主義政権下でもウラで大きく動いていたのだと思う。
江戸期からの経済の連続性のような光景が
こういった住宅を見学することで、パノラマのように望見されてきます(笑)。
Posted on 10月 13th, 2017 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング, 歴史探訪
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