写真はヨコハマで先日見学した「三渓園」の様子です。
ここは開国して世界との「貿易」が始まった時期にいち早くその趨勢に投資して、
絹の貿易で財を形成したという原富太郎さんの趣味のコレクション建築群。
Wikipediaによると以下のような経歴。
略歴〜青木久衛の長男として生まれる。生まれは、岐阜市柳津町佐波。
小学校卒業後、儒学者の野村藤陰や草場船山に学ぶ。その後上京し、
東京専門学校(現・早稲田大学)で政治学・経済学を学び、跡見女学校の教師を務める。
1892年、横浜の豪商・原善三郎の孫・原 屋寿(はら やす)と結婚し、
原家に入る。横浜市を本拠地とし、絹の貿易により富を築いた。
また富岡製糸場を中心とした製糸工場を各地に持ち、製糸家としても知られていた。
1915年に帝国蚕糸の社長、1920年に横浜興信銀行(現在の横浜銀行)の頭取となる。
1923年の関東大震災後には、横浜市復興会、横浜貿易復興会の会長を務め、
私財を投じ復興に尽くした。
美術品の収集家として知られ、小林古径、前田青邨らを援助した。
横浜本牧に三溪園を作り、全国の古建築の建物を移築した。
三溪園は戦前より一部公開されていたが、戦後原家より横浜市に譲られ、
現在は財団法人三溪園保勝会により保存され、一般公開されている。
〜という黎明期・日本資本主義の代表的な存在のようですね。
で、そういう財をなした人物が、ではなにを後世に残すべきか。
結局、その人間の本質が現れざるをえない部分だろうと思います。
この方は、古建築を移築保存するという活動に取り組まれた。
たぶん民族としての共通財産という建築に文化性を見られたのだろうと。
今日でこそ、全国各地に古建築の保存公園みたいなものは多くありますが、
その嚆矢ともいえるような設立理念だったようです。
まぁあまりに広大な敷地と多数の古建築なので、
歩きまわってさすがに、足と腰に強いハリを感じてしまって、
見学の同行者のみなさんとははぐれて、茶屋で沈殿しておりましたが(笑)
でもまぁ、その素晴らしさには圧倒されておりました。
こういう人物の元には全国から売り込みが殺到していたらしい。
ボランティア説明員の方の説明からも察せられました。
多少、玉石混淆で混乱した感じも見られますが、鷹揚に受け入れたらしい。
貿易に携わって、海外のみなさんと接することでむしろ日本の価値感に
深く思いを深められたのだろうと推測いたしました。
それにしても明治初期の時代の沸騰ぶりが彷彿としてきます。
日本全体は農業主体で貧しさに沈殿していた時代、はるかに先見性を持って
日本が世界に輸出するものとして、絹製品に着目して大いに投資して
財を築いた眼力というものの巨大さを
疲労感とともに思いっきりカラダに知らされた見学でした。ふ〜〜。
Posted on 10月 1st, 2017 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅取材&ウラ話
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