いま読み進めている「東京大学建築学専攻」編の
「もがく建築家、理論を考える」という「建築理論」的な本の中に
西洋には建築を都市環境形成のオペレーティングシステム(OS)とする考えがある、
というように書かれていて、ある種納得させられていた。
ただ、そういう考え方は西洋に限られた伝統とも言えないのでは、
あるいは、秀吉の大阪城とか京都都市の再編とか、
東アジアでの都市造りにもそういった考え方は広範にあるように思います。
またそもそも都市というのは、旧石器時代にもあったとされていて、
その形成の過程では、人々が集まるための建築は中心的な役割を果たしてきた。
都市というのは、その中心施設がシンボリックに印象を占有する。
そういうものなのだろうと思います。
釧路の街を想起するときに、
この写真のように、「幣舞橋」から複合型商業施設MOOを見る視点は
毎朝のローカルテレビ局の定型パターン。
たぶん、そういう「ランドマーク」的な意味合いが都市の個性に
非常に大きな影響力があることは誰しも自明だろうと思われます。
この建物は、釧路出身の建築家・毛綱毅曠の設計として有名。
地元出身で当時前衛的建築家として華々しく活躍を見せていたかれに
地域の都市として、釧路市は大きな希望を見出したことは間違いない。
釧路市にはかれの生家である「反住器」という建物をはじめ、
その設計になる建築は多く遺されている。
毛綱毅曠(1941年-2001年)。日本建築学会賞作品賞など多数受賞。
釧路に取材ではじめて訪問したとき、この「反住器」に伺って
急な申し入れにもかかわらず毛綱さんのお母さんからOKいただいたりした。
毛綱という名字は、長州藩士として代々「馬廻り役」だった家系伝承をあらわし、
「毛利家の手綱を持つもの」という由来だと聞いた。
北海道で旧長州藩士の家がどのように暮らしていたのかまでは聞き漏らした。
ただ、そういう家系意識が毛綱さんにまるで維新期の高杉晋作のように
自分自身を社会の「前衛的存在」たらんとさせた部分が
あったであろうことは、十分に推測させられた。
結局未発表に終わったその写真はいまも、ストックとして保存してある。
一度だけ電話でお話ししたけれど、屈託のなさそうな話しぶりに好印象も持った。
それ以来、自分としては好きな建築家だったのだけれど、
今の時代で言えば、あまりにも若くして毛綱さんは亡くなった。
残されたMOOは決して順風とは言えない経緯をたどりながら、
いまも、この街の象徴的存在としてあり続けている。
いまでもきわめて個性的なその外観は若々しく、挑戦的に立っている。
この建物を見てたたずむとき、
幸多き建築であれと、願い続けてきている。そこから先はわからない。
Posted on 7月 16th, 2017 by 三木 奎吾
Filed under: 「都市の快適」研究, 住宅マーケティング
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