多くの人が、ITという道具を使いこなすようになった現代。
わたしたち年代は、以前のアナログな手段と現代のデジタルな情報手段と
両方を同時並行的に生きてきた年代だと思います。
下の写真は、就学前から中学校まで見続けていた
その当時のわが家の位置からの、まっすぐ東向こうの札幌植物園の景色。
札幌に引っ越してきた3才から15才くらいまでこの景色を見続けていた。
上の写真の三越の箱は、わたしが札幌を離れて過ごしていた
18才からの9年間以上、母親が大切に保管していたわたし自身の「情報の箱」。
なかには、わたしの小学校から高校時代の写真とか、
学校の成績通知であるとか、はてはラブレターの類とかまで(笑)、
取って置いてくれたものでした。
よくもまぁ、母親はこんなものまで丹念に「保管」していたものだと
半ば冷や汗を掻きながら(笑)、そのありがたさを噛みしめさせられる。
いろいろな人間との交友の記録が手紙など書類記録として残されている。
その「もの」となって残されている記録物から、
さまざまな情報が一気に堰を切ったように周辺記憶が生々しく蘇ってくる。
ときどき折に触れて、その「重たい」情報と向き合う時もありますが、
いろいろなひとの思いが今更ながらに想起させられて、
さすがに正面から向き合うのはためらわれて、放置しつづけてきた。
とくにわたしは、アナログからデジタルへという大きな転換の時代に
情報・出版の世界で生きてきたので、
こういった「原石」を情報に転換させるのが仕事でもある。
まぁ仕事としては住宅に関連する領域に基本的には限定ですが、
その手段や方法論は、同じように利活用できる。
わたしは普段、住宅のルポルタージュの方法やスタイルなどを
スタッフといっしょに考えたり、実験的な方法を試したりするのですが、
そのやり方を応用、援用していくことで、
いろいろなカタチで「情報の手掘り」が可能だと思われるのです。
自分自身のことであれば、即座に「取材・ヒアリング」することも可能。
古層に眠っている、いまは潜在意識に下りている情報にアクセスし、
その生々しさにおののきながらも、表現物にピンナップしていくことはできるでしょう。
写真とリアルなアナログ表現物・手紙などと照合させながら、
その生きた時代感覚の復元作業ということになる。
しかし、たぶん得られるゲインは、自分自身の罪業の重さの再確認(笑)。
「重たい」というのは、自分自身の生きた痕跡それ自体に
まっすぐ向き合わされる恐怖かも知れないと、そんな気分です(笑)。
逆に言えば、こういう手堀りでの「自分史」作成が誰にでも「手軽に」可能になる、
そんな時代がやってきているということです。
こういうことが、どんな「文化」に昇華していくのか、興味深いですね。
Posted on 6月 11th, 2017 by 三木 奎吾
Filed under: 歴史探訪
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