さて越後妻有トリエンナーレで大量の野外芸術に触れてきたわけですが
アートによる「地域おこし」の成功事例として
繰り返し語られてきているのだそうです。
芸術というのは、いわば顕教的な約束事が支配している
覚醒している真昼の世界の論理で考えても仕方がないところがあって、
正しいでもないし、間違っているということでもない。
そこで表現されるものには、一般解はない世界だと思います。
しかし、こういう芸術表現物が、現実世界のなかで共存することで、
人間の創造行為一般の姿の方が、おぼろげに見えてくる。
わたしには、芸術の無用性を見続けることで、
むしろ、人間社会の「有用性」営為の巨大さのほうが浮き立って見えてきた。
アートの旅が終わったとき、ボランティアでガイドをしていただいた方に、
そんな率直な感想を申し上げたら、
「そうなんです、総合ディレクターの北川フラムさんも同じ事を言っていました」
というお答えが返って来ました。
人間の止むにやまれぬ営為、食料生産であったり、
生きていくためのものづくりの営為の巨大さの方にこそ、圧倒的に打たれる。
千年も続いてきた棚田の自然改造努力には、
まことに、人間営為の崇高さが込められていると思いました。
そういう営為の中で無用性が点在することの意味って、
やはりそういうものではないかと思ったのです。
その無用性にも、しかし、作品としてのレベルというものは存在する。
で、きのうはある映画の上映会に。
「ありがとう農法」というのを実践している方のドキュメンタリー映画。
農薬を一切使わず、雑草まで元気いっぱいに伸ばしている農地で
個性豊かな野菜を作ってきているということ。
子どもさんを不慮に失い、そこから生命の力強さに打たれ、
こうした自然農法にチャレンジをはじめたということ。
そのことは理解出来るし、まことに人としての共感も持ちました。
ただ、それを映画作品としての「表現」としてみたとき、
誰でも感じるであろう、「なぜおいしいのか」「どうして可能なのか」
ということについての当然の「疑問」に対して、
作家・監督に、そういった部分の探求姿勢が、驚くほどに感じられなかった。
ただただ、生産者の談話をつなぎ合わせて作品構成している。
「氷室」を使って出荷管理しているそうだけれど、
その「氷室」の構造についてすら、まったく触れられていない。
お伽噺・ファンタジーとしてはいいかもしれないけれど、
それがひとびとの口に入る食品である以上、
最低限の科学的態度は、欠かせないのではないか、
そこを飛ばして自然のままが素晴らしい、と論理解析を抜きにしてしまっては、
せっかくの農法開発努力に対しても、誤解を与えてしまうのではないか。
作品制作者は、ひとにものごとを伝える立場である以上、
そのような配慮、興味を基本に持っているべきではないか、
そんなちょっと残念感にとらわれておりました。
<写真は現代芸術家・川俣正さんの作品と、新潟空港の硝子絵>
Posted on 8月 23rd, 2015 by 三木 奎吾
Filed under: 日本社会・文化研究
コメントを投稿
「※誹謗中傷や、悪意のある書き込み、営利目的などのコメントを防ぐために、投稿された全てのコメントは一時的に保留されますのでご了承ください。」
You must be logged in to post a comment.