きのう、幕末に北海道オホーツク斜里での海岸線防備に配置された
津軽藩の越冬防備が、1発の銃弾を放つこともなく
無惨に寒冷気候に敗北して、実に28%という越冬生存率だった
事件について書きました。
この事件、わたし的にはすごく重たく受け止め続けていた事件です。
司馬遼太郎さんの紀行文で初めて知ってから
ずっと北海道と日本の関わり方の基本にある事件だと思い続けていました。
しかし、書いてみて、
このいかにも犬死にのような惨たらしい死も、
日本人の北海道防衛という大きな戦いの中の1つなのではないかと
そんなふうに思えるようになって来ました。
江戸幕府は、この事件の存在を隠し続けたようですが、
それは、対外的に自国の弱点をさらけ出すことになると考えたのかも知れません。
司馬遼太郎さんは、そのままストレートに
寒冷な気候に対する日本家屋の鈍感さ、
科学的姿勢の欠如に、その本質を見たのだろうと思います。
わたしもその点はまったくその通りだと思いますが、
しかし一方で、そのような遅れた日本家屋の性能的劣悪さは
南下膨張を続けるロシア側からすると、
冬期間の大きな日本の弱点として明確に戦略に組み込まれるに違いない、
そんな危機意識があったに相違ないのだと思います。
この国家的屈辱経験から、その後継国家である明治国家が
必死に北米・アメリカの進化した住宅性能を取り入れようという
国家意志に反映されていったのではないか。
そして、さらに北海道開拓使から北海道庁に至る支配機構が
永続的な意志として、住宅性能向上を持ち続けていることに
つながっているように思えるようになったのです。
そういうひとつの起点として、この幕末の津軽藩の惨事は
重大な意味を持ち続けてきたと思えるのです。
国防という重大なテーマがあり、
その上で植民政策の大きな条件整備として、
住宅への、質的な向上努力が必須となっていった。
そんなことを、考え続けております。
いずれにせよ、無惨に死んだ、津軽藩の先人たちに
深く、リスペクトの思いを持つものであります。
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