戦後70年の首相の声明がアジア近隣諸国から注目されている。
その原案とも言うべき、答申案が首相に提出されたという。
そこには、幕末・明治から戦前に至る国際情勢も触れられているそうです。
この時期は、まことに苛烈な欧米列強による植民地獲得競争の時代であり、
明治の開国前後、いま、わたしが住んでいる北海道は
ロシアに併合される可能性も非常に高い地域と、少なくとも日本側では
そういった認識が、危機意識として高まっていた。
現にいまも、北方領土はロシアによる実効支配という現実がある。
幕末、こうしたロシアによる膨張政策の最前線として
江戸幕府は、諸藩に蝦夷地防備の命令を発した。
日本海側地域や、太平洋側地域は、
松前藩支配の時代から、海岸地域に「場所」という
漁業権益領域が設定されて、日本の実効的支配が密に点在していたけれど、
オホーツク海側は、もっとも国防的に弱い地域だった。
1807年に幕府は、それまで「宗谷」警備に配属されていた津軽藩に対して
オホーツク海側の「斜里」場所への転身を命じた。
津軽藩からは百人が派遣されたという。
現地に到着したのは、7月29日。これは旧暦なので、いまでいえば、
9月1日に相当する時期だったようです。
到着後、すぐに冬になり、想像を絶する寒さに見舞われた。
Wikipediaで「過去の気温変化」と検索すると、
以下のような推定グラフがあった。
もちろん、観測データはないので、
さまざまな手法を使った推定でしょうが、江戸期を通じて
世界的にも寒冷気候にあたっているようです。
1800年代初期はいったん大きく下がっている様子もあり、
この年、1807年の冬は相当に厳しい寒冷が
想像以上に早くやってきたものかも知れない。
たぶん、藩士たちはロシアがすぐにでも上陸作戦を展開するかもと
強い緊張感を持って現地に赴任したに違いない。
かれらは数軒の木造家屋に宿営することになったが、
その家屋は、寒冷に対して無防備そのものの小屋がけだった。
秋がないままの急な冬の到来で、食料の確保も十分ではなかったのか、
寒冷な中で、野菜不足による「壊血病」が蔓延した。
壊血病とは出血性の障害が体内の各器官で生じる病気。
ビタミンCの欠乏によって生じる。
ビタミンCは体内のタンパク質を構成するアミノ酸の1つである
ヒドロキシプロリンの合成に必須であるため、これが欠乏すると
組織間をつなぐコラーゲンや象牙質、骨の間充組織の
生成と保持に障害を受ける。
これがさらに血管等への損傷につながることが原因である。
ロシアによる銃弾以上の恐怖である「無断熱・栄養不足」が
かれらに容赦なく襲いかかった。
翌年の春になるまでに100人の内、徒歩で宗谷に向かって
消息を絶ってしまったものも含めて、実に72人が命を落としたのだという。
実に生存率、28%。
藩士・斉藤勝利が「松前詰合一条」という書物を記録として残した。
しかし、幕府はこうした事実を公開せず、
また、原因の究明も行われなかったのだという。
「松前詰合一条」を戦後、東大前の古書店で北海道の学者さんが、
入手して、はじめてこういう事件が明るみに出た。
この事件、当時の情勢も含めて、
まことに深く迫ってくるものがあると思っている次第です。
Posted on 8月 8th, 2015 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅性能・設備
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