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北海道の義経伝説

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北海道には義経伝説がけっこう残されている。
アイヌ語に地形を表す言葉として、「ペンケ」「パンケ」という言葉があり、
ペンケが川上の(上の)パンケが川下の(下の)を意味します。
まぁ、一般名詞というわけなんですね。
この地名に、いちいち「なに、弁慶がここに来たのか?」
「そうそう、ペンケ、ペンケ」
というような和人とアイヌの会話が行き違いながら成立して
「弁慶が、やっぱり。ならば義経も北海道に渡ったんだ・・・」
ということになったのだろうと思われます。
日本の正史側との関連をなんとか付けたい、
というような意識が和人の認識の中に強かったのか、
ちょうど格好だったのでしょうね。
先日訪問した平取町でも、「義経神社」なるものがありました。
周辺には「義経ロード」だかという道も整備されていて、
観光資源として活用したいという願望の強さが見て取れる。
で、正面からの写真です。
ご神木として栗の木があったりしています。
なんでもご神体として鎧甲があるのだそうですが、
よく記述を読んでみると、江戸期に幕府側のはからいでこの神社に寄贈されたものだそうです。
この地域はアイヌとの交易の拠点であったので、
比較的早くから和人が定住していた地域なんですね。
たぶん、そうした和人側から現地幕府機関に誓願があって、
ご神体とされたものだと思われます。
神社の中を見ていたら、禰宜さんがいましたので、
義経と言うことなので源氏の氏神・八幡神社ではないのですか?
という質問に対して、
「いや、義経といえば騎馬武者、ということでお馬さんの神社なんです・・・」
ということなのだそうですね。
ようするに馬産地になってきた近代の歴史の中で、
地元の要請に応えてきているという次第のようなのです。
いちおう「資料館」まであったので見学してきましたが、
外観からしてサイディング張りで、信憑性はいまひとつ・・・。
陳列されているのは、せいぜい江戸期の「錦絵」で義経に関連しているものくらい。
「地元の洞窟には鎧甲も発見されているんですよ・・・」
っていうのが、まぁ、か細いながらも義経との関連を示す根拠。
確かに反逆者になったワケなので、
源氏の素性を追認するような八幡系の神社になるということにはならないでしょうが、
有名人の名前だけを利用しているというのも
なんとも情けない感じもある。
歴史的事実では、平泉藤原氏の頼朝軍への敗退に際して
敗残軍が北海道に渡ったという事実はあるようなので、
そういう軍が、自らを「義経軍」と名乗った可能性はあると思われます。
そういう中の一団が、平取に流れ着いて、洞窟に鎧甲を脱ぎ捨てた可能性は高い。
たぶん、そうしたひとびとはその後、ほとぼりの冷めるのを待って
北東北の故地にすこしずつ帰還しただろうと思われます。
で、当地には伝説のタネだけが残った・・・。
ということのようですが、
現在は競走馬の活躍をひたすらに祈る空間として、
地元のみなさんに活用されているようで、まぁ喜ばしいことと思いました。
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