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え、物部神社?

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島根県の神社といえば、出雲大社が当然名前が出てきますが、
それは古代の地名で言えば、出雲のことであり、
それの西隣には、「石見」の国があったことは知っていた。
でも、その石見国の「一宮」に、「物部神社」がある、ということまではまったく知らなかった。
物部氏というのは、蘇我氏との抗争で滅亡した古代氏族というような
ほとんど考古学的な存在だと思っていたのが、
石見銀山を見学しての帰り道で、ふと、道路サインにその名を見掛けて
「なに、物部だぁ? なんじゃそりゃぁ」と
つい、きびすを返して探訪してみた次第であります。
社歴を尋ねると、以下のようであります。

物部神社(もののべじんじゃ)は、島根県大田市にある神社。式内社、石見国一宮。旧社格は国幣小社で、現在は神社本庁の別表神社。
宮中でも行われる鎮魂祭を行うことで、石上神宮および彌彦神社と共に有名である。
ただし宮中が行う11月22日でなく、11月24日に行われる。
祭神の宇摩志麻遅命が石見国に鶴に乗って降臨したとも伝えることから、
当社の神紋は赤い太陽を背負った鶴の「日負鶴(ひおいづる)」となっている。
また、宇摩志麻遅命は大日本帝国海軍の戦艦石見の守護神とされ、神像が艦内に祀られていた。
この神像は後に当社へ奉納されている。
社伝によれば、饒速日命の御子の宇摩志麻遅命は、神武天皇の大和平定を助けた後、
一族を率いて美濃国・越国を平定した後に石見国で歿したという。
宇摩志麻遅命は現在の社殿の背後にある八百山に葬られ、
継体天皇8年(514年?)、天皇の命によって八百山の南麓に社殿が創建されたと伝えられる。
神階は貞観11年(869年)に正五位下に叙され、同17年(875年)に正五位上に、
元慶元年(879年)に従4位下に[1]、天慶4年(941年)に従四位上に[2]昇叙した。
延喜式神名帳では小社に列し、石見国一宮として歴代領主の崇敬を受けた。
社家については、景行天皇の時代に物部竹子連が石見国造に任ぜられ、
その子孫は川合長田公を名乗り代々祭祀を行っていたというが、
文治4年(1184年)金子家忠が安濃郡の地頭として赴いたときに
子の道美が取って代わって当社の神主となり、以降金子氏が代々の祭祀を行うようになったという。
戦前に金子氏は出雲大社の千家・北島両家や、
日御碕神社社家(島根県出雲市大社町)の「小野家」と並び、
全国14社家の社家華族(男爵)の一つに列する格式を有していた。

建築も社格を感じさせる造りでして
やはり創建の古さは十分に感じられました。
北海道からこういう日本神話がそのまま残るような風土性に触れると
まさに文化の古さを思い異国の感じが立ち上って参りますね。
物部が、いま今日の時代にも生き続けているとは、
まったく意表を突かれるような思いでありました。

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