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娘という存在

カミさんの母親が入院している。
ちょっとしたきっかけでケガをして、その後、バイ菌が悪さをして
炎症を起こしたので、入院した。
しかし、年齢も重ねていま、86歳。
これを機会に、いろいろと病院でチェックしてくれているところ。
やはり年齢なりにいろいろなことが出てくる。

わたし自身も見舞ったりはするけれど、
しかし、カミさんはやはり娘として、
肉親、親の体の健康についてはごく自然に、その管理者的な立場に立っている。
付いていられる時間はなるべく近くにいてあげようとしている。
母親にとって見れば、やはり娘の言葉に最後は従う、ということになる。
頼もしいなと、わがカミさんながら思う。
父親が亡くなったときにも、やはりそう感じていたけれど、
そのときにはやはり連れ合いとしての母親が近侍していて、
そうはその存在は大きくはなかったように思う。
生きていれば、こういった役回りは必ずついて回る。
こういうときには、夫として、
カミさんが娘としての役割を果たすことをなるべくサポートしなければと思う。

そんなときもとき、
わが家の娘がこの週末、久しぶりに帰省する。
いまはまだ、父母として娘のことをあれこれと心配するのが役割だけれど、
やがてわが娘が、いまのカミさんのような役割を果たすこともあるのだ、
と考えが及ぶ。
今回は孫娘として、祖母を見舞うことになるだろうけれど、
カミさんは身をもって、娘としての役割と言うことを
自分の娘に伝えるようなことになるかも知れない。
親として、その本然の心の持ちようのようなものを子に伝えるということ。
伝えていく、ということにはたくさんのことがあると思うけれど、
こういうことが、ある大切な部分なのだと、つくづく思い至らされる。

一方で、わたしたち男性というのは
こういう部分では、あんまり役に立たないなぁと(笑)実感させられる。
わたしの父が死んだときのことを思い起こしても、
やはり母と、娘としての姉が
父親の本当の近くで、その死んでいく人間の近くに寄り添っていた。
息子たちはたくさんいても、大して役には立たない。
姉のことを、本当にすごい力を持っているのだと尊敬していた記憶がある。
ひとは、いくつもの役割をそのときに
坦々とこなしていけるように、こころを整えて準備していなければならない。
そんな思いを感じている昨今であります。

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