どうもわたしは、料理系、食事のことに興味が強い(笑)。
今週は2日間、ひたすらにぎり寿司テーマが続いていましたが、
本日もその余韻醒めがたく、またまた食事ネタであります。
わたしのような傾向の人は多いようで、各地の遺跡などの博物館施設では
その建物での暮らしよう・食生活についての展示が多い。
昔の建物でひとはどんな食生活を営んでいたのか、根源的知識欲。
上の写真は、多賀城に次いで古代東北のヤマト政権統治拠点になった
「胆沢城」に常勤勤務していた上級官人たちの「日常食」。
800年代より以前、多賀城の前身の郡山官衙が開設(724年頃)されてから
政庁であり、同時に対蝦夷の軍事拠点としてこうした施設が運営されてきた。
胆沢城の建設は802年とされる。
メニューを見ると、これが1200年前の食事とは信じられない。
白米の主食はこの当時の社会でどこまで浸透していたのか、
たぶん米だけを食べられた階級はごく少数だったと思われます。
米は永く日本社会では交換のための貨幣の役割も果たしていた食料であり
権力構造の建築施設・備蓄施設に集約されて保存されていた。
2000年前ほどの吉野ヶ里ですでに倉庫建築が復元されている。
税の基本納入用途として、全国に都を起点・終点とする街道も整備された。
それほどに重要な物資であり農民はよくて他のヒエ・アワ・麦などとの混合食。
悪ければ、自分たちには食べることのできない食品だった。
ちなみに上の写真は「下級官人食」だけれど、
ひたすら、コメを食べるというメニューになっている。
官人であれば「腹一杯」米の飯が食べられるというのがステータスだった。
上級官人ならば白米だが、米の色もややくすんでいるのはモミからの
脱穀がやや粗めの精米ぶりなのだとわかる。
いわゆる「玄米食」で5分つき程度なのだろうか。
しかしこの玄米食でも庶民の食生活とは隔絶したぜいたく食だったのでしょう。
ひじきの煮物だけの副菜でも腹一杯に米を食べられるシアワセ。
日本社会の「隣人」であったアイヌの風習で結婚式に新郎新婦が
「ひたすら米を食う」という「儀礼」があるけれど、一般庶民の食生活は
米が主食とはとても言えない食生活だったのだろうと思う。
しかしそれは必ずしも不健康食だったとはいえない。一汁一菜という
質素な食生活だけれど、自然のめぐみを活かした健康食。
むしろ平安貴族たちはさまざまな健康不良が資料から推察できるとされる。
その後の武士の時代はこういう部分が与っていたのかも。
で、上級官人というのがどのくらいかはわからない。
けれど、上の写真のようなメニュー構成は専門の料理人が作ったことが想像できる。
なので、陸奥守や鎮守府将軍など将軍クラス、いわゆる宮廷官位を有する者か。
副食類の豊富さには現代人も驚かされる。
1汁1菜どころではなく、デザートとして柑橘類までが提供されている。
胆沢は北上川の河川流通で物流ルートは確保されてはいただろうけれど、
海産物のワカメはそういったルートでしか確保できなかっただろう。
またメインディッシュとして「アワビのウニ和え」。
主食のコメに対しての「ご飯がすすむ」メニューとして贅沢そのもの。
これも日常的な物流ルートがなければ考えられない。
考えてみれば、日本史の発展とはこうした現代人も食べているような
日常的食生活が、一般人レベルまで「ダウンサイズ」されてきた時間経過ともいえる。
贅沢食がどんどん一般に普及してきたのが現代であり、
一部「上級」民が先進して和の食文化を涵養してきたともいえるのでしょう。
こういった贅沢食品がどのように生産から物流されていたのか、興味深い。
見るとおり「物流」の価値が非常に高かった、カネが掛かったとはいえる。
Posted on 12月 19th, 2020 by 三木 奎吾
Filed under: おとこの料理&食
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