能登・上時国家その2であります。
通常通用口の「大戸口」を入ると広大な「庭」と呼ばれる土間空間。
見上げると豪放そのものの太い構造材が力強く組み上げられた天井空間。
そしてその座敷側入口上部には、なんと駕籠が4機も吊り下げられている。
上時国家当主が外出するときには、この駕籠を降ろして
用向き先まで移動させたものでしょうか?
っていうか、駕籠の収納方法が太い梁に吊り下げるというのがすごい。
イマドキ住宅で、豪華な高級車を室内インテリアとして
住まい手の自慢のタネとして「どうだ」と見せることがありますが、
インテリア的な意図としては江戸期にもそのようなことだったのか、オモシロい。
そうではなく、実用性としてあったのだとしたら、
それはそれですごいものがある。
というのは、駕籠に乗って移動するのには当然「担ぎ手」が不可欠。
短距離であれば1台2人でしょうが、長距離移動ならば4人くらい必要。
能登の「代官所」まで、輪島としてもそこそこの距離を
こういう移動手段で移動した、それが常態化していたとすれば、
その財力はハンパないレベルなのでしょう。
きのうも触れましたが、この建物の建築それ自体が大納言格式。
北前船交易での「信用装置」と考えて、28年もの時間を掛けて
地元有数の宮大工に思う存分に腕を振るわせていた。
江戸時代の経済活動は日本海側の方が活発だったとされるけれど、
その中継点として、この上時国家の重要性、比重がしのばれます。
北前船交易では船が着岸すれば、活発なビジネスが展開した。
この場所ばかりではなかっただろうけれど、この土間空間、庭は
その中心スペースとして交易活動が行われたでしょう。
また、高級客人、たとえば高田屋嘉兵衛などには、駕籠が差し向けられて
丁重にこの屋敷まで案内されたかも知れない。
そして間取り的には大茶の間という自由空間から、王侯貴族クラスの接遇として
「上段の間」まで、どんな階層にも対応可能な接遇空間。
江戸期の流通経済中心の輝きがはるかに残照しているように思われる。
Posted on 12月 1st, 2020 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅マーケティング, 歴史探訪
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