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阿津賀志山の戦い

東北道は何度も通る道なのですが、
そのたびに気になっていた、国見峠のPA。
宮城県と福島県の県境に位置していて、
北側が小高い山岳地域になっており、
南側斜面が広々と視界が開けています。
現代でも高速道路と、一般道路、新幹線のすべてが
合流するような位置関係になっていて、
「交通の要衝」という言葉がピッタリであります。
こういう要衝地は、歴史年代でもきっと同様であり、
調べてみたら、やはりこの場所が、
関東から北上してきた、頼朝を大将とする征服軍と、
奥州藤原氏・軍事担当の藤原国衡軍との大会戦場のようです。
この戦争のために築かれた防護環濠が現在も残されているそうであります。

関東の征服軍は、大きく3つのルートから
攻め込んできたそうで、ここにきたのが本軍。
あとふたつは、勿来の関を超える太平洋側北上軍であり、
新潟側から日本海側を北上した軍だったようです。
この戦争には、朝廷・院政の側からの
追討の正規的な認証は得られていなくて、
この戦争の時点では、まったくの頼朝と関東軍の暴発。
後の世の、家康による大阪攻めと似たような
全国動員令が出されていて、
あんまり正当な戦争ではない分、
全部の軍事勢力に「共同正犯」的な一味同心を迫っていた。
その総動員勢力は、20万とも言われているわけですが、
まぁ、実数はわかりませんね。
しかし、この戦いに先行する源氏と平家の戦いには
本格的に民衆が借り出されていて、
戦争土木などに従事させられていたという資料も多いので、
たしかに相当の規模の人数が参加していたことでしょう。
この当時は、全国的に飢饉であり、戦争は
そういう民衆に対して、経済で見れば、いわば「公共事業」的な
臨時収入を可能にはしていたと思われます。
藤原氏側でも、長大な防護環濠を築くのに
大量の土木作業員を動員したでしょうから、
そういったすべてを含んでいけば、延べ人数は相当にはなる。

戦争自体は、
この動乱期にはじめて大型戦争に参戦した藤原氏の側の
経験不足と、逆に平家との度重なる戦いで実戦で鍛えられている
関東軍の差が如実に表れたようで、
迂回軍が藤原軍の背後を急襲したことで
藤原軍は、これだけ長大な陣地線を用意したにもかかわらず、
あっという間に総崩れになり、大将・藤原国衡も敗死している。
戦争戦術で言えば、藤原側はあまりにも負けるべくして負けている。
そういう技術上の問題点について
勝つための方法を考えていなかったと言うしかない。
この直前に歴戦の指揮官、義経を殺して
少ない、勝つチャンスを自ら放棄していたのですね。
まぁしかし、義経という人物は、
騎馬軍団に集団的突進力を与えて、戦機を開くというような
突撃型・攻撃型の戦術家だったようですから、
こういった大会戦型の戦争指揮は得意ではなかったと思われます。
対平家戦で、士卒に対して何度も危険きわまりない戦術で引き回して
軍艦である鎌倉軍団内部から批判を受けていたのですから、
こういう戦争指揮はまぁ無理だったでしょう。

高速道路パーキングから、
しばし、
「夏草や、つわものどもが夢のあと」というような
心持ちを抱いた次第であります。

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