一昨日の投稿、【空き家と廃屋に見る未来〜「終家」問題】への関心が
たいへん大きかったようです。
建築を考える人たちばかりでなく、多くのみなさんが気付きはじめている。
分散的な家族形態、都会では家族数が2人を切って、1人台に近づいている
そういうなかで、家の総数だけはまだ増え続けている現実に対して
いったいどういう未来形があるのかと、想像を巡らしはじめている。
そのきっかけに、崩壊する家屋、廃屋の風景は
シンボリックに入ってくるものがあるのだと思います。
朝日新聞が流行らせはじめたと言われている「終活」というコトバ。
規格大量生産社会は、現代のわれわれの住宅に大量にその痕跡を残している。
家の中には、絶対に業者が値を付けないようなモノたちがひしめいている。
まずそのようなモノたちの処分問題が大きく押し寄せる。
少子化社会では、現役世代の夫婦にそれぞれの親が住む遠隔地の家の
処分責任がのしかかり、場合によっては自分の家も含めて
3軒の住宅の片付けに忙殺されることになる。
ただでさえ、女性も貴重な労働力として社会進出が期待されている中で、
一方で、こういう「親片〜親の片付け」という新たな家族のための仕事が増える。
そのために、たとえば北海道内で考えても
子世帯が札幌に住んでいて、夫婦それぞれの親が道東と、道北に家がある、
というようなケースでは、子世代はたいへんな労力提供を余儀なくされる。
1軒の家は、その家財道具を含め、使い続けたままに
その利用者に死が訪れ、その片付けには肉親だけしか責任を負えない。
残された家財道具に対する相続問題すら対応しなければならないし、
モノの仕分けだけでも遠距離を何往復もしなければならない。
その交通費も、労働もすべて無償の持ち出しになる。
しかも仕事に従事しながら、こういう作業を休日だけにするとすれば、
期間は相当長期にわたらざるを得ない。
残置されたモノには人間としての尊厳もかかっているから、おいそれとはいかない。
ようやく片付けた後、今度は家屋をどう処分するかを決める必要がある。
売れたり、賃貸にまわせればいいとして、
そうでない場合、大量の廃棄物の処分と、建築の処分費用まで
残された子どもの責任にならざるを得ない。
今の時代、解体するにも「分別解体」が必要とされ、木造1軒でも
100万円は下らない金額が必要とされている。
本当に近未来、こういった作業をせっせと日本人はこなすのだろうか?
否、やはりこういった社会構造の見通しの中で、
合理的な処分方法を、わたしたちは生み出すことになるのだろうと思う。
もっといえば、いまある「資産」としての住宅に、
早急に価値判断の「分別作業」を行っておくべきではないのか。
手に負えなくなってからでは、対応のしようが無いと思われる。
Posted on 5月 3rd, 2016 by 三木 奎吾
Filed under: 住宅取材&ウラ話
コメントを投稿
「※誹謗中傷や、悪意のある書き込み、営利目的などのコメントを防ぐために、投稿された全てのコメントは一時的に保留されますのでご了承ください。」
You must be logged in to post a comment.