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禅宗寺院の庭園

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写真は、鎌倉期の北条一族が武家の都・鎌倉に招聘した禅宗寺院・建長寺の庭園。
日本の権力というのは、その権力の示威として
宗教的建築に力を傾注する、というのが一般的。
それは圧伏させるためのひとつの重要な要素なのでしょうか?
なぜなんでしょうね?
権力というのは、握るまでは暴力装置の強弱が決定的。
ただ、それが強ければ持つのか、といえば、
やはり安定的に権力を維持するためには世界観の提示が欠かせないのか。
人々の暮らしが、その権力に追随していくためには
そういう価値観の共有が必要とされるようになるのか。
仏教が日本に導入されるようになった時代的な背景はよく見える。
当時はアジア世界で、中国に強大なスーパー超大国が出現して、
その成立を可能にしたシステムとしての官僚制や
支配思想としての仏教という現実があって、
それを早くから取り入れた新羅国家の成功、という事例が存在した。
朝鮮半島と日本列島の社会は
分かちがたく関係の強い社会だったので、
そうした衝撃は強烈で、強い権力基盤に天皇制を押し上げたいと考えた勢力が
積極的に仏教システムを導入した。
それが東大寺を造り、全国に国分寺を造り、
というかたちで、暴力的強制力と同時に、宗教的権威もあわせて追求してきた。
で、この建長寺造営の目的は、
王朝国家から権力を奪った武家権力の宗教施設だということ。
建長という寺号自体、その年号をそのまま使ったそうですから、
まさに国家としての事業であったのですね。
で、庭園であります。
前時代の宗教的施設といえば、たぶん、関白家藤原氏の造営した宇治の平等院鳳凰堂
もしくは、別国家ともいえる平泉の宗教施設群になるでしょう。
そういう施設の庭園は、浄土庭園が一般的。
それへの対抗心からか、
中国でも隆盛を極めていた禅宗の僧侶を輸入して、
いわば「最高の禅宗寺院」を造営しようと考えたと思います。
なんですが、この庭園、どうも迫力がいまひとつのような気がします。
この寺の開山の和尚さん、蘭渓道隆さんという方ですが、
中国人で、ほかでは甲府に一時いたことがあって
そこでは、山の斜面に龍門漠の枯れ岩滝組をもつ池泉観賞式の
素晴らしい庭園を造作したということなのだそうですが、
どうもこの庭園は、前時代の臨池式の優美さを意識したような
ちょっと中間的な印象を持ちました。
禅宗の庭園って、後の時代になると龍安寺石庭というような展開になって、
まさにわれわれが抱く、強烈な精神性にいたるのですが、
まだ、そういうところまでは表現が至っていない時代性を表しているのでしょうか。
どうも、そんな印象を持った次第でした。
北のくらしデザインセンター
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