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総持寺・朝の勤行(朝課)拝観

1769

すっかり仏門づいております。
来年あたり、頭を丸めておるやも知れません(笑)。
っていうのは、まぁ戯れ言ですが、
出張に出ての楽しみのひとつに、お寺さんでの朝の勤行拝観があります。
昨年は川崎大師に参詣したときに、朝の時間帯で
護摩法会にめぐり会うことが出来たりしました。
けっこう、こういう朝の宗教行為を公開している寺は多いようです。
早朝だと、いわゆる観光客はほとんどいなくて
みんなホテルで寛いでいて、日中にならないとお寺参りをしない。
いわば、早起きは三文の得が、こうして体験できることがある(笑)。
きのうは、横浜鶴見で宿泊しておりまして
もうちょっと天気が良くなっていると期待していたのですが
あいにくの梅雨模様。
それでも近くに曹洞宗大本山・総持寺を地図で発見して
先般の禅寺・永平寺参拝に続いて行ってみた次第。
考えてみれば、こうした短期間にふたつの大本山を参拝するのも縁がある。
広い境内に、ありがたい声明〜しょうみょう〜が響いている。
その声音に導かれながら、一番大きな建物の「祖堂」に向かうと
朝の勤行が行われていました。
曹洞宗では朝課と言うのだそうです。

先般の北陸紀行では、この総持寺の移転前の「祖院」もあったのですが、
明治晩年になって、本山はこちら横浜市鶴見に移転したそうです。
寺域は、なんと八万坪という広大な大寺院。
そのなかに各種の宗教建築伽藍が配置されている。
曹洞宗では、永平寺とこの総持寺でふたつの大本山があるそうです。
ちょうど朝課が始まってちょっとの時間だったようで、
般若心経を唱えたあと、たくさんの経典を広げたりたたんだりという
面白い動作を修行僧さんみんながやっていた。
衆生にしてみると、体動作そのものがキビキビとしていて
ひとつひとつにムダがなく、ピンと背筋が通ってくるように感じます。
そして、全員の修行僧による和讃のような声色が響き
それにリズムを与える鐘や太鼓の一種などとの集団音楽世界が広がる。
そのなかを勤行の動作が繰り広げられている。
まさに宗教的法悦感が寺域に充満してくる感覚があります。
平清盛が厳島神社で「千僧供養」というのを行ったそうですが、
夜の海面上にゆらめく蝋燭の照明のなか、千人の僧侶の和讃が
回廊舞台に響き渡った様は、まさに地上の黄金郷を感じたことでしょう。
あるいは、日本にはじめて仏教がもたらされた頃、
夜ごとに各寺院で行われたに違いない宗教儀式のなかで
それまでの日本の社会が経験したこともない
焚き込められた強烈なドラッグのような香のニオイと
こうした僧侶による和讃の響きは、
相当強烈な「文明」を未開の社会の人々に感じさせたに違いありません。
こうした朝の勤行風景はそんな宗教体験の一端が感じられる瞬間であります。
俗物そのものの自分ではありますが、
つい、引き込まれてしまう強い誘引力を持っていますね。
思わず、両手を合わせ、合掌させていただいておりました。
南無南無・・・・。

ひとのゆく裏に道あり、花の山

1765

東京に来ておりますが、「都内の地方」探訪シリーズ?であります。
日本の地方がどこにいっても吉野家やマクドナルドや
コンビニショップだらけになって、
軒並み没個性の全国共通化が進んでいる中で
その「地方性」の最後の砦は、わたし、都内の「地方」だと思っています。
って、ちょっとヘンなんですが(笑)。
でもこれは実感であります。
東京都内には、ふと見たときに面白いものが残っていたりする。
で、そういうものを存続させようとするパワーが現実に存在する。
本当の「地方」では、もはやそういったパワーが消滅の危機に瀕している。
そんな風に感じています。

で、一昨日、都内世田谷区だと思うのですが、豪徳寺を歩いていたら、
写真のようなオアシス的な緑道を発見しました。
一昨年には玉川上水の周辺緑道をウォッチしましたが、
もっともっとかわいらしい規模ですが、
そこを好んで歩かれている様が、なかなか楽しげであります。

1766

こんな説明文も立て看板になっていて
周辺のみなさんがこの緑道に愛着を持っている様子が見て取れた。
こういうコミュニティの様子に「地方性」を感じるのであります。
おかしいかなぁ(笑)。
このような動きは、地域保全の基本的な部分だと思うのですが、
いま、日本の「地方」では、こういった部分の存続が危ぶまれるのです。
なにより、地域に愛着を持って暮らす人々の共有感が壊れている。
都会的な「無関心」が広がっていて
そういった無機質感こそが「現代的」という受け止めすら存在する。
「地域的」であることが、ダサく感じられる風潮が強い。
それに対して、東京都内の地域では
こうした緑道保護に声を上げるひとびとの存在感がある。
仕事で都内を歩くときにはなかなか目に入ってこないのですが
こういう場所、空間をそれでも発見すると楽しくなる。
時間があれば、この小径がどんなふうに風景を紡いでいるのか
そぞろ歩きしたくなるのですが、
時間に追われるように,後ろ髪引かれながら
駅方向に歩いて行っていました(笑)。
ひとのゆく裏に道あり、花の山
っていう心境であります。いいなぁ・・・こういうの好きです。

水郷に覆われていた国ニッポン

1763

日本の古い時代の風景は、
今日の海水面の状況からはまったく違う様相だった。
というように言われている。
実際に浮世絵などで、たとえば常州(常陸国とくに南部)などでは
水上生活者の様子が描かれたりしていて、
現代の風景との相違に気付かされる。
写真は、利根川河口周辺の様子なんですが、
関東というのは、このような常陸国の風景と、
江戸湾内部でのリアス状の海岸線状況が特徴的な
いわば「水郷」的な状況が一面に広がっていたというように言われる。
現代からは、想像も出来ないんだけれど。
列島社会に成立した古代の本格的な律令国家は、
中国的なあくまでもまっすぐな陸の道路を「国土」の隅々まで貫徹させることを
基本に置いて国家建設を強行したけれど、
実態にまったくそぐわず、結局破綻に次ぐ破綻の結果、「伝統的」な
海上交通、舟運ネットワークによって、実質的に運営されていった。
そこがまた、葦原の中つ国といわれる農業水利にも適した地域だった。
基本的には小麦生産に依拠した中国的古代律令制と
コメ生産に立脚した列島社会では、
国の風景そのものがまったく違ったのだろうと思われます。
そういえば古代国家で関東の中心は下野、上野の国であって、
この写真のような風景の地域は汽水地域でもあり開発も遅れていたのだろう。
それが農業土木の進歩で、むしろ水利の良い地域とみなされ
大開発領主が歴史に出現するようになる。
いわゆる「板東平氏」というような連中が出てくるのは
大規模な農業地帯化が出来てきたということを表しているのだと思います。
鹿島神宮の例大祭に竜頭の船を使う祭礼があるそうですが、
その由来は、水郷地帯のなかの「島」で
しかもたくさんの「シカ」が住んでいた「鹿島」が
上古からの神聖空間になっていたことを伝えてくれているのだと思う。
たぶん、古代にはまるで瀬戸内海の弥山のような
厳島神社のような自然崇拝の対象だったに違いないと思います。
その背景に、こうした水郷風景が広がっていた。

列島社会の歴史の中で
こういった風景感覚が不可欠な背景条件であることが
どうしても抜け落ちているらしい。
わたしの住む北海道でも、札幌を含んだ石狩低地帯という地域は
このような水郷地帯であって、
太平洋側と日本海側とが、水郷と河川交通で繋がっていて
往来には、陸の中の「港」のような施設があって
船が使われていたということ。
歴史を考えるとき、そもそも風景、背景が違うということに
もっと想像力を働かせなければなりませんね。

立花隆さん講演

1762

タイトルがすごいことになっている(笑)
「知の巨人が読み解く 出版の現在 過去 未来」であります。
で、立花隆というビッグネーム。
出版に関わる人間としては、これは捨てておけなくなるのは当然。
ということで、朝早くに家を出て、久しぶりの全日空朝1便で羽田へ。
羽田から国際展示場東京ビッグサイトへはバスで移動。
なんとか、10時の開場に間に合って入場したら、
指定された「VIP」という面はゆい名前の席は、なんと一番最前列。
ということなので、申し訳ありません、画面がゆがんでおります(笑)。

講演では、11年前にも講演されたことを引き合いに、
電子書籍への流れが不可逆的であることを話されていましたが、
中高年オオカミ少年的であったことは、認められていました。
こういう正直な態度は、ジャーナリスト、というこだわった肩書きにふさわしい。
必ずしも現実がそのように進まなかったことに
正直に向き合う姿勢にこそ、ジャーナリスト精神は似合っている。
わたしは、読者として立花さんの読者ではありますが、
講演のような機会ははじめて。
テレビなどで見るよりも,失礼ながら、ずっと老けられた印象でした。
立花さんと言えば、田中金脈研究で歴史的な役割を
ジャーナリズムが果たした事例として、記憶に残っていくでしょうが、
しかし一方で、こうした人もすでに高齢化している現実も
強烈に見せつけられたような気がしました。
しかし、あいかわらず冷静沈着な事象への分析力はすばらしい。
とくに小学校へのiPad端末の実験導入の動きと
その有為な効果についての知見が得られていることなどから
「日本の社会では、これがきっかけになって、一気に進む可能性が高い」
と、ふたたびのオオカミ少年役のそしりを怖れずに語っていた。
そういったある種の清々しさが立花さんからは感じられる。
その上で、一方のものとしての書物の持つ価値について
これもまた、きわめて冷静沈着な分析を行って、
あるひらめきをもたらせてくれていました。

講演後は恒例の東京ブックフェアであります。
その会場を出入りしていると、ふたたび三度と立花さんと出くわした。
こんなに顔を見るというのは、あいさつをした方がいいものかどうか
と一瞬考える間もなく、風のように神出鬼没で消えて行かれました。
人生はタイミングであります(笑)。
もし縁があるのなら、また機会があると思うことにしております。
立花さんの講演の内容については、
折に触れて書いていくかも知れません。
ということで、ではでは。

黒米たっぷり炭水化物の快感

1761

けさは朝1番、5時45分自宅出発で東京出張。
ということで、さすがに朝、食事を用意して、というわけにはいかなかった。
で、やむなく「おにぎり」朝食を行きの自家用クルマの中で摂ることにした。
運転中、副食を同時に摂るのはムリなので、これオンリーという「ばっかり食」。
で、そうすると主食のこの「赤メシ」の旨みが感受性に強調される。
赤いのですが、メインの白米は知人の宮城の農家の自作米。
これはうまい。友人に分けてあげたら、病みつきになったという保証付き。
で、それに黒米と十勝産の黒豆、さらに玄米風の穀類
~カミさんがいつも入手してくれるヒエ・アワ類~をブレンドしてあります。

いま、わが家は単独生活者2名状態でして(笑)
食事で共有しているのは、温野菜たっぷりの鶏肉入りスープ、
味噌汁もしくはけんちん汁の味付けの献立と野菜サラダなどのみ。
そのほかは、この写真のような、主食炭水化物もわたしだけでして、
カミさんは、流行の脱炭水化物ダイエットを実践中に付き、
主食炭水化物抜きなのであります。
かわいそう・・・。わたしは半年くらいで劇的効果がありましたが、彼女はまだ。
なので彼女は、鶏肉ソテーなどを温野菜スープとともに食している。
わたしは、この主食と一汁、それに野菜サラダや納豆や長いも、もずくなどの海藻類
さらにはカボチャ・サツマイモ・小豆餡ブレンドのデザートなどを
くりかえし食べ続けてきている。
ところが本日はさすがに時間がなくて、副食・一汁などを食べられない。
やむなくきのうの残りの主食ご飯をおにぎりにして食べた次第。
カミさんのダイエット食を考えると犯罪的な背信感をもつのですが(笑)
しかし、久しぶりのこの炭水化物徹底食は無上にたのしい(笑)。
やや大ぶりのおにぎりだったのですが、
白米・黒米・黒豆・小粒穀類の食材バランスが口中で弾けるような食感をもたらす。
見た目や色合いはすっかり慣れてしまったのですが、
やはり赤メシという感じでたのしく感じられる。
そして食間・食後に口の中にひろがる自然な甘い味わいがたまらない。
それを、苦いまでの風味をたっぷり利かせた煮出しの麦茶で流し込む。
どうも自分のような年代の人間って、
結局、小さい頃にはじめて口にしたいろいろの食感を
もう一回追体験したいと思い続けるものなのではないかと思う次第。
母親の実家の農家で、季節ごとに食した食べ物類の
その持っていた風合い・味わいが懐かしくて仕方がない。
ノスタルジーの中の少年の日々に憧れを持っているのかも知れない。
シンプルだけれど、なにか、豊穣を感じられるような食。
そんなものに帰っていきたいと思っているのでしょうね。

おいしかった。炭水化物まみれ、サイコー!!

ということで、いまようやく本日の目的地、東京ビッグサイトの席に着席。
Wifiテザリングで、ブログアップ完了であります。
面倒だけれど、まぁ便利な時代になったものですね。

信長はなぜ朝倉と戦ったのか

1760

「一乗谷」という地名は、日本史のなかでも超ポピュラー。
所在地は越前であり、琵琶湖周辺の近江国の浅井氏と連合して
織田信長の天下布武路線と対立して、戦ったことで有名。
では、なぜ信長はこうした勢力と戦ったのかは、
あんまり知られてはいない。
わたしもあんまり知らなかった(笑)。
というか、近視眼的な政治や軍事の出来事だけを見るのでは
時代背景や、その必然性にまでは発想が至らない。

まず、どうして朝倉と浅井は連合していたのか
について、よくわかっていない。
行ってみて始めてわかったのが、越前の海上交通が
京都が都であった時代には経済的な大動脈であったということ。
そしてそこから物資を京都に運び入れるのに
琵琶湖の湖上運送が不可欠であり、
このふたつの地域は、密接な経済的つながりを持っていたということ。
信長の政権というのは、明確に重商主義政権であり、
貿易・交易の利権に対して敏感な政権であったのでしょう。
日本の政権交代のひとつの原動力は、
重商主義と農本主義との相克だったのだろうと思います。
室町政権末期、戦国の時代は
日本各地域の生産力が飛躍的に向上した時代。
そうした生産力が、より大きな市場形成を促し、
それを政治権力として、楽市楽座政策という明確なスローガンで
実現しようと考えた本格的な軍事・政治勢力が信長だったのでしょう。
かれは京都の支配権力を握るに際して
そのもっとも肝要な政治目的として、当時の物流の大動脈であった
越前ー琵琶湖ルートの掌握を考えた。
たぶん、それまでの物流には朝倉や浅井、比叡山という旧勢力が関与し、
いわば金城湯池としてこれら地域に盤踞していた。
行ってみてはじめて、地政的な意味合いが具体的にイメージできた。
越前の一向一揆と戦って勝ち上がった武将として
朝倉家は実力で権力を掌握し、越前の港湾の支配権を握った。
この写真の「一乗谷」朝倉氏城館周辺には、「唐人町」も形成されていた
という国際交易ネットワークが大きく存在した。
そして、南下して琵琶湖の湖上輸送を使って
大消費地の京都に交易物資を運び入れていた。
その途次には、浅井氏があり、琵琶湖の大津のすぐとなりには比叡山がある。
宗教権力としての比叡山は、同時に計数管理に明るい僧侶たちが
日本の交易の実態を担ってきた伝統のままに
交易についての既得権益を持っていて、けっして手放そうとはしなかった。
こうした既得権力・アンシャンレジュームに対して
新興の重商主義国家建設志向権力である信長は正面から挑んでいった。
戦争後、琵琶湖の湖上輸送基地を管理するのに
秀吉や光秀を置き、越前には織田家筆頭の重臣である柴田勝家を据え
さらに琵琶湖を睥睨する位置に安土城を建設したのは
信長の政治経済目的を端的に表している。

越前の軍事都市・一乗谷の廃都を歩いていて
そんな強い実感を持った次第です。
面白かった。

日本女性の座り方

1752

先日の北陸の旅の時、
ふと訪れた復元竪穴住居にはマネキンが置かれていました。
まるでそこでそのまま暮らしているかのようで
たいへんほほえましたかったのですが、
でも暗いなかでみたら、ちょっと不気味だったかも(笑)、という印象。
で、歴史家の網野善彦さんの著作で書いてあった
日本女性の伝統的な座り方として、立て膝が一般的だった、
という記述通りの様子が再現されていたのです。
「おお、ついに」というような驚きの出会いでした(笑)。
なかなか考証がしっかりされている遺跡だなと感心もさせられた。

そうなんです、この座り方が伝統的なんだそうです。
なんとも不思議というか、お行儀が悪い感じがします。
そして実は、朝鮮女性も同じような座り方をしていた、とされているのです。
一汁一菜が基本であるという食習慣とあわせて
半島社会と列島社会は、基本的な文化を共有していたに相違ない
ひとつの証のように書かれていた。
男性は、朝鮮も日本も胡座が基本であったようです。
食事は、基本的に火のある場所を囲むようになされ、
車座のようになって、座ってしていたのですね。
で、女性はどうして立て膝だったのか?
これの理由はよくわからない。
インターネットで調べてみましたが、韓国での例で以下のような記述くらい。

女性は片膝を立てるのが韓国式です。
女性の立て膝はチマチョゴリを着ている際に
きれいなシルエットに見えるという理由なので、
最近は減っているとも聞きますが、ある人が韓国に行った時のこと、
目の前の若い女性がミニスカートで立て膝をしたので
びっくりしたという話を読んだことがあります。
その人は意を決して「パンツが見えてますよ」と注意したそうなのですが、
女性の返答は「2枚はいているから大丈夫」とのことだったそうです。

というような、あぶない(笑)記述があったのですが、
たぶん衣類との相関関係があるに違いないようですね。
半島と列島、高松塚古墳の女性衣装を見ても
これは間違いなく文化共通性を持っている。
でも日本の縄文文化でも、このような衣類が一般的だったでしょうから
どのように考えるべきなのか、迷うところです。
いまでいえば、ミニスカートに近い意匠ですよね。
一方で体動作的に考えると、いろいろな食器や食材やらの用意など、
すぐに立ち上がったりしなければならないので
機能的に考えて、合理性を優先させていたのかも。
こういう文章として残りにくいことがらや
あまりにも基本的なことがらには、証明がむずかしいものがある。
このこと、実は長年、考え続けているのですが
だれに聞いても、腑に落ちる答を聞いたことがありません。
なにか、ヒントでもご存知の方、いませんか?

読書傾向と人間性

1759

きのう、わたしの読書体験履歴というか、
よく読んだ作家履歴をふり返って見ましたが、
おおむね「作家」としては、大江健三郎・埴谷雄高・司馬遼太郎、という
この3人だったことは事実だと認識しています。
時間的に言えば、高校〜大学までで前記のふたりは卒業しましたが、
短かったとはいえ、青春期に沈み込むように読んでいたし、
影響を受けていた、という意味では長く心に残り続けている。
そんな高校時代からの読書傾向を抱え続けて学生生活を過ごし
その後、東京で就職すると同時に、そういった世界から離脱したように
思えてなりません。
明るい顕教の支配する仕事の世界では、大江健三郎・埴谷雄高的な
密教的世界観ではまだるっこく、精神を支えきれなかった。
というか、現実感覚との乖離がすさまじすぎたと感じていました。
わたし自身は商家の末裔であり、基本体質として違うのかも知れません。
その後の長い年月は、司馬遼太郎さんの歴史文学、エッセイを耽読してきた。
それは司馬さんの生い立ちを知るにつれて、
体質的にも親しいと感じ始めた部分も大きかったように思う。
一時期は思惟の袋小路にハマったけれど、結局
歴史が大好きだった少年の日のこころに戻ったような、
そしてそれが深い人間洞察に繋がっていく、
大きな部分だと認識できたのだと思っています。
司馬さんの描き出す歴史のなかのひとびとは、
市井と現実感のなかで生き生きと呼吸していると感じた。
密教的に人間の不条理を見て批判的な内面分析に耽溺するよりも、
もうすこし人間肯定的な、理性的な知性のなかにいたいと思った。
そのように思い至ったとき、歴史を生きた人びと、
先人たちの生き様を、深く知っていきたいと思ったのだと思います。
それは、現実のビジネスの世界で、
いま現実にドラマを紡いでいる実感を感じていたことも大きい。
ひとと話すとき、やはり顕教的な普遍性にこそ
人間世界の真実の大部分はあると思えたのですね。
そしてその流れから、現在では歴史書を耽読するようになり、
網野善彦さんなどの歴史家の本を読むことが多くなっている。
網野さんも左派系のひとであり、埴谷雄高さんとも関わるような
そういった知の系統ではないかと思うのですが、
わたし自身は、そういった人から多くの影響を受けてきたことは間違いない。
歴史分析の手段として、やはり史的唯物論的な見方は正解だと思う次第。
ただわたしは、日本および日本人、そして人間そのものが好きなのであって、
そこから、明晰に歴史を知っていくことが必要だと思っているのです。
そんななか、最近大江健三郎さんが「9条の会」などで、
左派系・人権派の砦のような役回りになっていることについては
大きな違和感を感じております。
いや、あなたは生まれ故郷の四国の森の番人として、
空海以来の日本的密教世界に盤踞していることがふさわしい。

結局人間は、なにを読んできたかで大体のことはわかるのだろうと思います。
それは、なにを食べてきたかが肉体だ、というのに近い。
そのことをしっかり認識して、
より冷静に現実を見ていきたいと思う次第。

<写真は青森で食べた薩摩揚げの逸品料理>

わたしの読書経験について

1744

きのうは生煮えのままの思いを書いてしまったかと反省しています。
実は最近、大江健三郎さんや埴谷雄高さん、司馬遼太郎さんとかの
自分が愛読者であった時期のある作家について
いろいろと考えることがあるからです。
わたしは小学校から高校と、ずっと出版文化周辺に強い興味を持っていて
それで、同時代性の感じられる作家として
華々しく取り上げられていた大江さんに、処女航海的に強い興味を持ちました。
まぁ、はじめて「文学」に触れたのが大江さんだった。
「万延元年のフットボール」という当時の話題作で、
まるで「密教」的な世界だと、強く目を開かせられるような思いを持ちました。
読後、つよい酒を飲みたくて仕方なかった。高校生なのに(笑)。
そんなふうなことは、ひとに言ったこともないし
書いたこともないのですが、自分の肌で感じていた実感です。
それまで読んだ文章は、「顕教」的な、
理性的な無味乾燥な道具としての文章であり、
そういった文章に対して、新しい表現手法ではないかと
まだ高校生なのに、すっかりそうした表現手法にハマってしまった。
見よう見まねというか、その文体で自分も考えるようになってしまった。
若者はやはり影響されやすいのは事実だと思います。
そして当然のように、「沖縄ノート」や、「持続する志」「厳粛な綱渡り」
といった時事的なエッセイ集も読むようになり、
社会へのスタンスとしても、ある共有感をもっていた。
ただ、沖縄ノートで書かれた内容について
極悪非道のように書かれた方から大江さんは訴えられて、
3年前に最高裁まで争われた末に結審したという事実を最近知りました。
裁判は大江さんが勝利したそうですが、最高裁まで争ったという方の
「持続する志」の所在も、心して読み取らねばならない。

大江さんの「思考回路」から紡ぎ出される独特の言語表現、
とくにタイトルネーミングの独創性には強く惹かれていました。
たぶんこういう部分はわたし自身、
良い悪いは別にして、身体化しているところがあると思う次第。
「顕教」と「密教」というのは、もちろん当時そんな仕分けが
出来ていたわけではなく、まぁ後付けでの解釈ではありますが、
その後、「顕教」と「密教」ということの意味を深く知ったとき、
自分自身の問題として、この仕分けがもっともふさわしく感じられたのです。
ただ、こういう密教的世界観は、若者には重たすぎて
あまりにも暗すぎる世界観だと思う部分がありました。
現実世界感覚が徐々に鈍磨していく危機感が大きかった。
一方で、戦前戦中の共産党活動家で獄中で転向し、
戦後、作家活動を開始した埴谷雄高さんの、
いわば明晰な難解さの文体にも強く惹かれていった。
そんな学生時代を過ごし、社会人になるとともに必然的にと言うか、
当たり前の「顕教」的な世界に生きていくことにならざるをえず
こうした文体の世界とは否応なく離れていった。
なにより、時間的にとても付き合っていられない、というのがホンネ。
でも、大江さんは読まなくなったけれど、
埴谷雄高さんが、「死霊」の続編を書いたときには、
さすがに徹夜して読んでしまった記憶がある。
かれの文章は、表現すべきことが明晰であるように感じられた。
というか、作家としてある表現すべき対象が明確だと思っていたのです。
そんなふうに埴谷雄高さんを普通に読んでいて、
ふとしたときに、「戦後文学でもっとも面白い作品は?」という
読書新聞とかの特集記事にふと接したら、
なんと、埴谷雄高の「死霊」が文学評論家たちの一番人気であることを知った。
そのような記事を見たときに、「そういうものか」と頓悟した経験がある。
そしてやがて、読みやすい文体で日本人を考え続ける
司馬遼太郎さんと出会って以降、
大江健三郎作品とはまったく離れ続けてきたのです。

で、いま、こういう自分自身もしっかりと振り返ってみたい
あらかじめ肯定でも批判でもなく、冷静に考えてみたいと
そんなふうに考え始めている次第です。

言語芸術ってなんだろう

1739

なぜか最近、そんなことが頭を離れません。
とくにテキストの芸術、ようするに「文学」というものが見えにくくなっている。
明治までの日本の芸術状況とはどんなものだったのか。
そもそも日本には各地域で話される方言差が大きく、
統一的な言語が存在していなかった。
司馬遼太郎さんの残された逸話に、明治維新の頃、
各藩が京都で政治会合を持っていたとき、
薩摩と津軽とが対話するとき、
演劇の表現を通辞として使った、という一節すらあった。
それでは明治国家が目指した欧米列強に後する「国民国家」創設は難しい。
そこで、さまざまな論理構成や、欧米の科学概念をも表現可能な
「日本語」を生み出すことが緊急課題だった。
まずは擬制的に東京の山の手地域で話されていたことばを基礎にして
概念を厳格に表現可能にする「日本語」が生まれてきたといわれる。

だから、明治期に「文豪」と呼ばれる人々が輩出した。
そして出版活動と報道活動が活発化していった。
とくに出版では、このような新たなジャンル開拓に近かったので、
「こんな内容でも文章で読める」という新鮮な驚きが
多くの読者を獲得していったのだと思う。
やがて「内面世界」的な部分すら、多くの人々の共通の話題に出来るようになり、
作家たちは、競って「私小説」のようなものに向かった。
しかしそれは、ひとびとの読みたいものへの欲求の高まりとともに
作家自身の内面を切り刻むような傾向に傾いていった。
芥川龍之介さんとか、太宰治さんとか
作家と言えば、自殺するものみたいな傾向になっていった。
一方で、出版の発展と言うことでみれば、
このような「言語表現物のマーケット」が出現し、拡大したので
そうしたマーケットを狙って、さまざまな新人発掘が行われた。
芥川賞とか、直木賞とか、
文藝春秋社創業者菊池寛さんって、
日本のメディア事業者として、特筆すべき人物だと思います。
わたし自身は、この菊池寛さんのことが大好きです。

わけなんですが、文学の衰退が言われて久しい。
そもそも言語それ自体の「芸術」というのはよくわからない。
物語ストーリー、その展開の仕方などなどの部分では
やはり今日、映画やテレビの方が優れていて
時間節約的でもある。
また、さまざまなテーマジャンルについての紹介とかは理解出来る。
それらは、確立した日本語の最大の恩恵であると思います。
日本語創出において「文学」は大きな産婆役は果たしたけれど
いま、言語として確立してしまえば、
それ以上の底掘りすべき対象であるのかどうか、
どうも疑わしいと思っています。
どうなんでしょうか?

<写真は中村好文さんの「小屋」in21世紀美術館>