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【本日「勝手のっけマグロ丼・定食」にて社長食堂】



<クリックでYouTube動画〜市場で仕入れ篇>

本日で12月も二ケタ目に突入。
あと残りも少なくなってきましたが、本日は元気注入「社長食堂」。
ごくごく庶民的・家庭的なメニューで展開してきましたが、
前回「けんちんうどん」開催時にリクエストを受けたら
出てきたのが「マグロ食いてえ!」のひとこと。
本州関西出身スタッフからは「寒ブリ!」の声もあったのですが、
わたしの行きつけの「札幌中央市場場外店」の魚屋さんで聞いたら
「寒ブリは、ちょっと時期が終わったかな・・・」という情報。
京都付近ではサケ以上に「ブリ」人気。なんですが、
最近はブリも北陸沿海というよりも北海道近海が主な漁場だそうです。
で、マグロ料理法について札幌市内の「マグロ専門」料理店に取材。
煮たり焼いたりというのはあくまで「変わりメニュー」扱いで、
基本的には「切り身・生食」が醍醐味、という教授。
豪快に「マグロ丼」というのが、楽しくていいっしょ、というアドバイス。
ということで、マグロに決定してその仕入に行ってきた。
参加スタッフは17人程度。
男女比はやや女性が多いけれど、ほぼ同数。
男性は20代の若い人も多い。
ということなので、ひとり100gというのが目安ですが、
一応、マグロは3kg購入してきました。

マグロさんの「ナカミ」はこんな感じだそうで、
仕入については、中骨と血合を除去して
赤身〜中トロ〜大トロ気味までを切り取ってもらった。
これをせっせと切り分けて刺身状にしますが、大皿に盛り付けて
勝手にごはんに乗っける、勝手丼風のマグロ丼作戦であります。
まぁ、1人あたり2人前までは仕入れていないけれど、
ほかにカミさん手作り「マリネ」とひじき主体の煮物サイドメニュー。
もちろんごはんも、酢飯とふつうご飯を用意するので、
まぁなんとか満腹以上は大丈夫だろうという算段。
バックアップ的に「タコ足」も切り分ける予定。
マグロ丼、一部にタコもあるでよ、丼であります(笑)。
薬味はわさびと、山わさびを用意する予定。
昼ご飯なので、ニンニクは避けることにしました。

本日はわたし14時からは別件で外出予定。
なので、やや早め11:30ころオープンの予定であります。
・・・きのうもセールスに来られた外部の方から
「ご飯を作ってくれる社長さんですよね(笑)」とごあいさつ。
勝手に面白がってくれるひともいるみたいです。
う〜む、一所懸命やらなくっちゃ。

【20世紀初頭まで利用の竪穴住居 in 樺太】

写真は金曜日開催の「古代集落遺跡」セミナーで配布されたパンフから。
この写真は第2次世界大戦直前の1937年に樺太で撮影されたもので、
「20世紀初頭まで使われていた」という「廃屋」の様子。
網走市の「道立北方民族博物館」に所蔵されている。
人物がふたり写っているけれど、この人たちが「住んでいた」のではない。
しかし、周辺の状況なども含めてリアリティに満ちていて驚かされる。
いま北海道住宅始原の旅をこのブログで書き続けているけれど、
北海道で「洋造」建築がさかんに建設された一方で樺太では
こういった住宅が現役で利用されていたということ。

竪穴住居というのは人類に普遍的な住居ですが、
さすがにそこに現実に住んでいる様子というのは見たことがない。
人体と住居が対照されると想像力が強く刺激される。
11世紀頃には北海道アイヌ住居は「チセ」と呼ばれる平地住居に移行していて
同系統とされる樺太アイヌも同様なはずなのだけれど、
なぜこのような竪穴が使われていたのか。
「方形で屋根は土で覆われ、東側(写真右手)に出入り口とかまどがあり、
南側(写真手前側)に窓が開けられている」という説明。
20世紀初頭まで使われていたので創建年代もその時期だろうから
出入り口や窓の「枠」には製材された木材が利用されているようです。
しかしそれにしても、窓が付けられているので、
雨水はどのように遮断していたのかと驚く。
屋根は土で葺かれているけれど、たとえば萱のような繊維質で
被覆して「板戸」を造作設置していたものだろうか。
その場合、防水水密をどのように確保させていたのか、疑問。
竪穴住居の最大の問題は、防水・湿気対策が破綻して、
地盤面が泥状になって居住に適さなくなる、というように言われる。
地中の安定した温度環境を利用することが竪穴の普遍的メリット。
半地下として掘り下げるので、その掘った土を周囲に盛り上げて
雨水などの流入を防ぐという基本構造だけれど、
しかし入口などの「開口部」からの浸入をどう遮断するか、
いろいろ工夫があったように思うのです。
オホーツク文化の場合には、入口が高くしつらえられていた。・・・
このように窓があれば、確かに囲炉裏からの排煙には便利ではある。
やや小型でもあり竪穴をそのように「進化」させたものかもしれない。

いつも竪穴を見ると、その土を掘る作業の労苦を思う。
竪穴と「土器」というのはワンセットではないかとも思う。
土地を選んで竪穴を造作するとき、粘土質の土壌を目利きして、
慎重に掘る場所を選択することが多かったのではないか。
スコップ状に木材を加工して穴を掘ったのだろうけれど、
男たちはその穴を掘った後、木材で柱を建て屋根を造作していった一方、
女たちは、その土をこねて土器を造形したという光景を想像する。
その作業それぞれで、自分自身の出自のアイデンティティが存在して
固有の「建て方」「土器の製造法」が伝承されていったのではないか。
さらに囲炉裏やかまどで使う「火」にはその人物の固有性が込められていて、
祖先や一族からの伝承性が文化としてあったとされる。
その文化性から家の主人が死ぬと家自体を放火焼却する例も知られている。
人間と住居というものの精神的不離一体感を強く感じさせられます。

【明治4年・札幌の建築業者自邸〜中川源左衛門邸】


本日はふたたび「北海道住宅始原の旅」です。
このブログで明治初年の開拓使の「建築工事」の受注業者として
「中川組」のことについて触れました。
この建設業者は江戸に本拠のあった建築業者で、江戸時代末期建設の
「函館奉行所」の受注業者であり、札幌での「新府建設」についても
積極的に関与し、はじめは現地発注側に建築専門家がいなかったことから
その設計などについてもあわせて受注していた、とされる。
「洋造」以前の日本在来の建築工法で対応していたと思われる。
この写真は、明治4年5月撮影のものということなので、
かれらが考える建築の基本形式が表現されているのでしょう。
ちなみに明治3年に2代目判官として札幌開発責任者になった岩村通俊は
それ以前開拓使本拠が置かれていた函館にいた。
この岩村と函館奉行所の元請け事業者で函館がほぼ本拠になっていた
中川組は縁が強まったのか、岩村の札幌移転後、開拓使の御用請負人になった。

基本的には和風そのものの建てられようです。
縁が大きく取られ陽だまりに家族が参集したポーズで写真に収まっている。
白黒写真なのでハッキリしないけれど、手前側には草地に
ところどころ雪とも思われる白い部分が見えているので、まだ早春なのか。
縁と室内との間には障子が造作されている。
外部には「戸袋」が見られるので、縁の外端部で板引き戸が使われたのでしょう。
左側にも窓があり、戸袋付きともみえる。
外壁は押し縁が施されているので塗り壁ではなく板張りを押さえている。
屋根は石置き屋根となっている。
石置き屋根は、日本海側気候地域で伝統的に用いられた「防風」屋根。
多雪寒冷という気候条件では「萱葺き」の方がまだしも合理的と思えるが、
あえて「防風」重視という考えにしたのか。
あるいは明治初年の開拓使の「家作」方針として屋根は柾葺きとする
そういう方針があったようにも思われます。
この明治3−4年段階の「官舎」建築では萱葺きは一切採用されない。
寒冷地住宅として直火を扱う囲炉裏暖房を考えれば、防火管理上、
燃え広がりやすい萱葺きでは不都合という考え方か。
そういえば江戸幕府は度重なる火災に対して江戸市中の屋根を
「瓦葺き」にせよ、という建築法令を出している。それからすると、
幕府を引き継いだ政権の「官営」工事の考えに、
絶対に防火最優先という考え方があったと思える。
しかしこの写真のような和風住宅の「畳敷き」では囲炉裏は設置できないから
ひたすら「火鉢」を抱きかかえていたのだろうと思われます。
移築されて明治初年の生活を再現した「屯田兵住宅」では大量の火鉢が
実際に家の中に置かれていました。
しかし炭は製造にも輸送にもものすごく手間が掛かり高価なハズ。・・・
防寒住宅にまだ手が付けられていなかった様子が明らかですね。

「洋造」という家作方針は、防寒住宅への官の側の号砲一発だったのでしょう。
この方針決定こそが「高断熱高気密」の最初の一歩だった。

【北海道の古代「集落」遺跡群セミナー】


住宅のジャーナリズムとして、現代生活の暮らしの器を考える、
それに特化するばかりではなく、その由来にかかわる
人間居住の本質をみつめたい、というのは基本的スタンス。
北海道島の場合、明治以降の「開拓」は現代に直接つながるテーマですが、
しかし人間居住の探究という根源的テーマでは
北海道には縄文からアイヌ期まで強く連関する痕跡が多く残されている。
この「遺産」で世界遺産登録を目指す動きも近年盛んになってきている。
知床の「自然遺産」はあるけれど、人為的な遺産登録はまだない。
遺跡としての「価値」は認定されているのだけれど、
「どこに普遍的な価値があるか」というポイントでまだ決め手がない。

そういった北海道島の古代人間居住痕跡について
きのう、北海道大学学術交流会館でセミナーが開かれました。
図は北海道東部の竪穴住居群の遺跡マップ。
写真は「北海道指定遺跡」の道東・湧別町の「シブノツナイ」竪穴住居群。
北海道の場合、歴史年代的に日本側の平安までの「古代」に
非常に多くの「竪穴住居群」が営まれてきている。
写真のような、集住というレベルを超えたような「都市的」な集落がある。
白く彩色されたような部分すべてが「竪穴」住居跡なのです。
たぶん「普遍的な価値」という意味ではこのような
「非農耕社会としての集住」のありようと社会の生成について
突っ込んだ明晰な検証が突破口になり得るのではとヒントは浮かんだ。
「海での生業の人類痕跡」というテーマがふさわしいのではないか。
いかにもこれは地域としての北海道の存立基盤にふさわしい。
北海道島の在来民族、最終的にはアイヌの人々の文化に結実した
民族的流れとはやや違う異民族的な「オホーツク文化人」に特徴的な
海生生物への漁撈を生業とした地域社会が、はたしてどのようであったか、
そういった強い興味を持って発表を聞いていました。
オホーツク文化人社会というのは、200年くらい定住痕跡があり
一説では道南の奥尻島で648-650年の阿倍比羅夫遠征軍で掃討された。
その後、本拠地であるオホーツク海岸側に撤退し最終的には既存の
地域民族社会と同化していった存在。
かれらは鯨などの大型海生動物漁撈技術に即した生活形態を保持した。
かれらの住居は大型で⒌−6家族が同居するもの。
それはたぶん、ひとつの船を共同する生業の関係ではなかったか、
生活を共にすることで強い連帯感を育み、命掛けの共同漁撈にあたった。
その後のアイヌ期までの民族社会もその流れを受け継いだ可能性がある。
オホーツク文化人がかつて暮らした居住域に重なるように遺跡がある。

わたしとしては、この非農耕「社会」がどのような実態であったか
興味を持っています。人間は単独「家族」だけでは生存基盤を維持しにくい。
最低限の集落「人口」は生き残りの基本だと思うのです。
この社会がどのように「有機的に結合していたか」が知りたい。
そういう問いに対して、かれら社会の特徴把握に迫っている発表もみられた。
整理整頓して、考えていく基本資料にしたいと思っています。

【昼はアメリカ建築・夜はススキノの札チョン文化初源】


開拓使本庁舎「建前」式の様子。

<ススキノで営業していた「遊郭」店イラスト>

北海道住宅始原期への旅、やはり独特の文化風土の根源にも触れたい(笑)。
ススキノというのは、日本の風俗文化史のなかでも特異な存在。
いわゆる「繁華街」というもの、風俗というものを
北海道開拓という目的のための有益な「手段」として
意図して作り出したという意味で、驚くべきことだったのだろうなと思います。

明治5年という年は黒田清隆による新都市「洋造」方針が基本方針として
決定され旺盛に建築事業が興された年とされている。象徴的建築として
「開拓使本庁舎」の建設が開始され、翌年6年に完工することになる。
同時進行で各種建築工事が行われ建築工事「人足」が大量に札幌に投入されていた。
「開拓使事業報告」ではこの本庁舎工事のためだけの分として5年7月に
東京で「大工木挽鍛冶などの諸職工1,225名東京より招募す」とあります。
その他も考えれば当時の札幌定住者を上回るような規模で
「札チョン族」が始原し大量にこの地に集中していたことが自明ですね。
〜共通語になっていると思うけど念のため「札幌単身赴任生活」=札チョン〜
そもそも幕末の最終期まで積丹半島の突端から以北は
「婦人」の定住を認めていなかったというほどなので、
そもそも女性の数自体が圧倒的に少ない地域だったことも背景にある。
こうした工事人足さんたちは、遠く故郷を離れ家族の温もりから遠ざかり
その上、札幌の夜の過酷な「なにもない」さみしい状況では
帰心矢のごとしとなることがあきらかで、夜になると
人数がひとりふたりと消えていく、そういった状況のようだった。
そして市中では婦女暴行などの事件も頻発していたという。
このような社会状況を考えれば当たり前だが、なにより「治安維持」が重要になる。
5年9月には「札幌邏卒屯所」という警察官駐在所も全20名体制で作られた。
同年4月には2代判官の岩村通俊の「御用火事」も起こされているけれど、
こういう社会状況を考えれば、この火事自体、
一種の権力による暴力示威、治安維持のための方策・見せしめと
了解することが可能なのではないかと思えてくる。

こういった背景を踏まえて、風雲覚めやらぬ幕末を
かいくぐってきた武人である岩村通俊は、建築政策で思い切った手を打つ。
それが、官製の「遊郭ススキノ」であったということができる。
<開拓使「営繕報告書」明治5年「家屋表」に、
・薄野「仮旅店」建坪139坪余。7月着工10月完成。経費2,239円余の記載>
こういった遊郭建設と御用火事というような、荒っぽい「男性的」施策は
開発地域行政という独特の、平時には考えにくい発想の飛躍であり、
いかにも戦陣をくぐってきた武人にして思い浮かぶ策のように思われる。
いかにも「アメとムチ」という振り幅の大きさ。
この官製の遊郭施設は土塁でもって市中と隔壁していたということですが、
「東京楼」という店名をもって開業していたということ。
いかにも、蜃気楼のように出現した「歓楽街」の店の名前として
まだ新奇性のある首都名を冠して、ひとの温もりに飢えていた札チョン族の
旺盛な「盛り場希求」需要を満たしたのだろうとリアルに想像できる。
苦しくきびしい建設作業に耐えれば、女性のやさしさにススキノで触れられる。
まことにわかりやすい「開発地域」独特の「文化」といえるのでしょう。
こういった経緯で出現してきた「ススキノ文化」。
北海道・札幌を代表する「文化」にまでなっていった始原なのだと思います。

<上の写真は開拓使本庁の工事。下はススキノ遊郭イラスト類。
資料を探しているけれど「洋造」だったとされる遊郭初源写真は不明。>

【島義勇の最初期開拓使本府「金銭出納簿」】


北海道住宅始原期への旅、というシリーズ展開。
すっかり明治初年の北海道探偵団のようなブログになってきた(笑)。
こういうディープラーニングというのも楽しいものだと実感しています。
というのは、その時代の空気感がさまざまに想像されてくる楽しみ。
きのうは明治の「コトバの文化大革命」について書きましたが、
総体としてのこの時代の状況が、断片的にスピンアウトして迫ってくる。
知識としてアタマに入っていることにリアリティが湧いてくる、
そんなような感覚に包まれるようになります。
こういう作業を進めるほど、明治の北海道開拓と寒地住宅創造との
強い相関関係が明瞭に浮かび上がってきます。
北海道人、それも住宅に関わっている人間として知っておくべき原点ですね。

島義勇は「開拓使判官」という高級官僚ではありますが、口述記録資料では
雑魚寝の寝床で、誰かの足が判官のお腹に乗っていたような既述もある。
馬上から指示していたのではなく自分もまさにカラダを張っていた・・・。
札幌市公文書館・榎本洋介さんの平成30年5.28「講演」の
記録文書を読み進めていて、表題のような資料を確認しました。
公文書というのは無味乾燥な役所言葉の羅列で、
あんまり詳細に目を通すという習慣はないのですが、
さすがに北海道公文書の最初期、小樽銭函の民家を借り上げての「仮役所」
茫漠たる札幌のそれも降雪時期に突貫工事で完成の「役宅」で
なんとか機能を果たせるようになった時期の役所記録です。オモシロい。
金額自体の既述は省略されているのですが、
用途分野、日付、内容、関係者などの既述から生々しい現実がうかぶ。
「御金遣払帖」という名前ですが、金銭出納であります。
島義勇は、この十数人とされる役人集団のトップとして
日々の「決済」事項をこなしていたのでしょうが、
その具体的な指示内容が記録から見えてきます。
まずはじめには数カ所「縄」という既述がある。
いわゆる「縄張り」という土地区画作業がありますが、
まさにその通りに「ここはこういう場所」というように縄を張って区画整理した。
まったく人跡の乏しいこの時期の札幌、縄は当然本州からの移出品。
本州地域とは「場所請負制」と経済構造の違いもあって物価についても
万事、輸送費が上乗せになっていたとされています。当然。
また当然ながら「建設」の用途支出が圧倒的に多い。
雑木伐り出、細工料・鍛冶、小屋懸けなど常識的な支出に混じって
「骨折りに付き、ほうび」という項目まであって笑える(笑)。
これで「公文書」として通用して許諾された事実も面白い。
ほうびにさて、なにを配ったのか、妄想が強くなってくる。
建設肉体労働の人足の「足止め」対策には、この当初から官の側は
問題認識を相当強く持っていたと思われます。
ほとんどが単身赴任のかれらは、その環境に疲れて
「朝になっても出てこない」というケースは多かっただろうと思います。
後年、というか明治5年ころには官製の「遊郭」ススキノが
土塁に囲まれた形で忽然と新開地に出現して、夜の赤レンガと言われた、
その事案の初見のような記述ではないかと思われました。
夜の女性たちの笑顔が日々のストレスを和らげる最上のごほうび。
まさに生々しい「開発事業」の断面・側面でしょうね。

ひとつひとつの「支出項目」を仔細に見ていると
この当時の札幌の地でのひとびとの息づかいが伝わってきます。

【明治ニッポンの「東アジア言語」文化大革命】

わたしは高校生時代に新左翼系学生運動に没入経験があります。
その後、その思考の呪縛から逃れられたのは、
政治での「革命」よりも人間の生き方を変革することの方が
はるかに意味がある、政治権力闘争で解決できる事なんてたいしたことはない、
っていうように思うようになったからです。
左翼運動政治って突き詰めれば本質は「ヤツは敵である。敵を殺せ」となる。
<埴谷雄高さん言。もちろん政治的抹殺であって肉体的殺人行為ではない>
なんかおかしい。人を変えるという本来の意味がない。
で、革命っていうことのホントの意味合いを考え始めて、
共産主義を理想とする思想からは中途半端な「改革」とされた
明治維新について深く学び、知るようになっていった。
司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」読書なんかもきっかけでしょうか。
そして「北海道住宅始原期への旅」で掘り起こし体験をいま継続中。

この時期の日本人ってすごい。
なんといってもコトバまで改革している。
まぁ日本は何回もこういう「徹底受容」を歴史的に経験してはいる。
弥生の農耕社会文化、漢字文化、律令国家体制、鉄砲文明など・・・。
あらたな「受容」対象を深く学び、それを血肉化させるプロセスです。
コトバって、自分自身の基盤である脳みそを直接「改革」することになる。
明治のニッポンにとって民族の独立と尊厳を守り近代化するには
巨大な文明総体、西洋文明を徹底解析して咀嚼しなければならなかった。
そういう「自己改革」に明治の先人たちは勇敢に立ち向かった。
そもそも共通語が芝居コトバくらいしかなかったのを、東京山手地区で話された
言語をベースにして創造していった。言文一致が叫ばれたとき、
落語などの口語表現が最先進的で多くの文化人たちが寄席に日参した。
二葉亭四迷が『浮雲』を書く際に三遊亭圓朝の落語口演筆記を参考にしたとされ、
明治の言文一致運動にも大きな影響を及ぼした、まさに日本語の祖。
旺盛な欧米文明受容意欲なのでしょうが、既存の「漢字+かな」を駆使して
論理で構成された科学的な西洋文明全体を翻訳コンニャクしている。
よく言われるけれど「中華人民共和国」という国名のうち、
もともとの「漢字熟語」は「中華」しかなくてあとは、
明治のニッポン文化が開発した和製漢字熟語なんだとか。
かつてのわたしのような子供じみた観念だけの左翼かぶれ人間が陥りやすい
政治的レッテル貼り攻撃みたいな無意味な心性からはるかに隔絶している。
<わたしがとくに好きなのは英語の「tic」という接尾語に「的」という
絶妙の翻訳語を考えたヤツ(笑)、ダジャレ感もあるすごいセンスだなぁと。
現代中国でもこの「的」はものすごく頻用されていますね。>
そういう集団的努力があって東アジア漢字圏は西洋世界をまるごと咀嚼できた。
そう、ひとり日本民族だけでなく、漢字文化圏に深甚な変化をもたらした。
中国社会の孫文さんはそういうことに深く気付いていたのでしょう。
その後戦争で日本が敗戦したことでこのことの文明的意義はやむなく
矮小化されていると思いますが・・・まぁ仕方ない。
やはりその基本は漢字+かなという複雑極まりない言語を駆使してきた
民族的「資産」なんだと思います。
難解な英単語もカタカナ表記すれば、単語として憶えてしまえる。便利。
他のアジアや世界の国の人々から日本社会について
ほとんどの西洋的概念を翻訳し自国語で理解していることに驚かれるという。
日本は漢字かな混淆文という複雑な論理思考言語だけれど、
これがもし「かな」だけになったらどうなるかと考えると怖ろしい。
たぶん論理思考が衰退し単純化に流されやすくなるのではと思います。
<ろんりしこうがすいたいしたんじゅんかにながされる>って、よくわかんない(笑)。
残念ながら隣国・韓国は戦後、日本をディスることを「国体」とした。
積弊一掃・反日のため漢字を廃止しカナ文化であるハングルだけにしたことで、
必ずしも論理的ではない国民社会状況があるのではと懸念されます。
読書率が劇的に低いというように言われたりしている。
しかし、別の見方では隣国の漢字廃止は漢字文化圏世界での
壮大な文化的「社会実験」ともいえるので、行く末がどうなっていくのか、
漢字文化圏の広い意味の同胞として注意深く見ていく必要があるでしょう。

やはり論理的・理性的思考の基盤の言語こそがその国民の最大の財産。
明治の先人たちの苦闘に、深く感謝の気持ちが湧いてくる次第。

<写真はNASAの画像で東アジア地域の「夜景」>

【明治国家の「ホワイトハウス」 開拓使本庁舎】


江戸から明治へ、局地的な戦闘はあったけれど、権力の中心
首府江戸は無血で開城されその主人が徳川将軍から天皇に代わった。
政変に伴う大破壊は回避され、あらたな権力意志表現の建築機会はなかった。
それは消滅の危機にあった都市江戸の再生延命につながったので
民族史的には喜ぶべき事だったように思えるけれど、
では明治という新政府は、どういう「概念思想」で国民に臨むのかは
必ずしも明確な意志を表明する建築機会がなかったともいえる。
明治の変革は貨幣制度・暦・欧米との「外交」など
信じられないほどの「革命」を社会にもたらしたと思います。
令和のいま、振り返る機会を作ってこのブログで追体験しているけれど、
その「青年国家」ぶりが非常に清々しい思いを抱かせてくれる。
そういうなかで明治国家は北辺国防も兼ねた北海道開拓・札幌都市建設をもって
新国家思想を「建築」的に表現したのではないか、と思えてきた。

きのう掲載した「開拓使仮庁舎」写真では城郭建築的な「土塁」が築かれている。
しかしそのあとの本庁舎ではそういう「防御的」建築機能は
失われてしまっていることを読者から指摘された。
建築とは、やはりその「性格」が明瞭に表されるものなので、
この「権力意志」の変位とはなにかと考えるきっかけをいただいた。
開拓使の先行建築としての幕府権力の現地中枢施設、五稜郭・函館奉行所は
西洋風とはいえ「城郭建築」であり「城下町」的な街の発展があった。
一方札幌は完全に国防思想からの開拓であったのに、本庁舎建築以降、
堀や土塁といった城郭的防衛建築思想は採用されなかった。
ケプロンやホルトなどアメリカ人が設計アイデアに参与した「開拓使本庁舎」は、
まったく民主主義的な「ホワイトハウス」的な思想イメージと感じられる。
国内内戦を通過して、国民に対してはみな公平平等である国家たらんとする
明治国家の建築的宣言だったようにも受け取れる。
敵将であった榎本武揚の助命嘆願を攻撃軍の総大将・黒田清隆が
坊主アタマになって訴えるというこの時代の空気感・精神性に気付かされる。
専制的に君臨の権力誇示ではなく、国民統合意志を高めるための象徴建築。
その時代的な意志が表現されたのが、この開拓使本庁舎だったと思える。
アメリカ的な民主主義を建築表現したホワイトハウスというのは、
そのシンメトリーな外観構成をみると、なによりも公平平等を訴えている、
そのような思想が建築表現されていると思われるのですね。
アメリカの気候風土とその開拓の歴史から
北海道にもっともふさわしいと自然に考えた結果として受容したのだけれど、
期せずしてかれらアメリカ社会から示された建築デザインはこうであった、
というのが実相ではあるでしょう。しかし結果として
このようなプロポーションの建築をわたしたち日本国家は選択した。
下のイラストはデザインを絵に描いて示した「ホルト」さんの手書きイメージ。
この「デザイン設計者」のことは詳細がまだよくわかっていません。
ホルトという名前は「お雇い外国人」中に「工業」担当者として
そういう名前があるけれど、本来的な建築専門家はいなかったとされている。
推測ではまだしも建築に関連する工業担当者に「お伺い」をして
既述の開拓使建築家・岩瀬隆弘などが、デザインについて諮問した結果、
こういったイメージ図が提示されたものとも思われる。
背景の山々と原札幌の平坦な立地条件が表現されていて
平明で牧歌的な、いわゆるホワイトハウス的なイメージが表現されて微笑ましい。

明治新政府は権力建築は東京では明瞭な表現を持たなかったけれど、
北海道開拓・建設という巨大プロジェクトそれ自体が、
それに相当したのであり、その象徴建築として開拓使本庁舎は
みたこともないモダンデザインとして当時の人々の耳目を集めたのではないか。
今に至る北海道の日本社会での精神的位置、その雰囲気イメージの基層は
このような象徴建築が担い、そして明治が表現した「建築」とは
北海道開拓の総体だった、というような着想を得た次第です。
明治国家は北海道に司馬遼太郎が書いた「坂の上の雲」を描きたかったと。
いかがでしょうか?

【明治3年段階 開拓使札幌建設工事】


<開拓使仮役所〜札幌市北4条東1丁目>

<官員たちの宿泊施設になった「本陣」>

さて引き続き、「北海道住宅始原期への旅」シリーズです。
明治初年のことがらでいろいろ調べながらなので、ブログ記事としては
行きつ戻りつというようになります。
でも、ブログに書くことで「絶対毎日」という強いメンタルが生まれるので
イマドキのテーマ追求にはこういうカタチはいいかもと思っています。
自由さがあって、毎日ワンテーマ的というのは書きやすい。

で、本日は「洋造」以前の開拓使建築。島義勇が札幌開府に猪突猛進し
ほかの上司たちから独断専行のそしりを受け転任させられるのが、
明治2年後半から明治3年3月という短期間。
しかし札幌の基本の「街割り」は決定し都市計画の基盤は確定した。
その後、明治4年には政府側の主導者・黒田清隆の方針が確定して
建築については「洋造」という大方針が固まり、
そのためにお雇い外国人や、開拓使側に建築の専門家スタッフも強化された。
明治4年の9月に建築専門家・岩瀬隆弘も札幌にやって来た。
そして明治5年から6年にかけての「開拓使本庁舎」建設が始動する。
・・・という流れになっていますが、この3年から4年にかけても
島義勇路線なのかどうか、建設工事は継続していた。
上の写真の「開拓使仮役所」や下の宿泊施設「本陣」建設などです。
仮庁舎は明治3年3月着工で4月に完成している。
建坪53坪、経費1,311円あまり。平面図は発見されていない。
前年まで建築と同様に「和風」の様式を持っていたとされている。
「明治2年11月(旧暦)島義勇は従属十有余名を率いて来地し、治所を相し、
仮に庁事を設く。」という記述が随行の高見沢権之丞の記録にある。
10数人が公務をここで執り行ったのだけれど、
史書には寝泊まりしたように受け取れる記述もある。
写真を子細に見るとチョンマゲ・帯刀の人物が見える、いかにも明治初年。
一方、写真下は「本陣」の仮建築から本建築に改修したあとの様子。
用途は江戸期同様の「本陣」という名前が表すとおり宿泊施設。
江戸時代には大名行列の参勤交代セレモニーでの旅宿。
この北海道始原期では、官員の生活居宅として使われたのだろう。
<下の仮本陣費用を見るとかなり安普請で仮本陣が建てられたと思われる>
明治5年に改修着工して7月に完成したと書かれている。
建坪245坪あまりという当時最大の建築とされていた。
その後、お雇い外国人の宿舎として「教師館」と通称された。

以下、最初期の非専門職「営繕」担当官・高見沢権之丞の記録に書かれた
2年から3年にかけての札幌本府建築状況()内は予算規模。
・西側壱番集議所(670両)・弐番小主典邸(880両)・三番小主典邸(854両)
・東壱番使掌長屋(1880両)・西弐番使掌長屋(1880両)・壱番板倉(201両)
・弐番板倉(158両2分)・御本陣(340両)・大主典邸(1360両)
・東壱番小主典邸(875両)・東弐番小主典邸(943両)・仮御宮(91両)
・営繕物置(325両) 以上〆て 10,387両 以て14棟。
他に取りかかり分
・民家 百弐軒 5,400両 ・板倉番所 凡そ2,500両

明治の革命というのは暦から貨幣制度、首都移転など、多方面にわたる。
そういうなか国家意志としての北方防衛国防意識からの北海道経営。
本府札幌ではこういった工事が進捗していた。

【なんか似てる 幕末八王子武家住宅と琴似屯田兵屋】



「北海道住宅始原への旅」シリーズ。きのうの【江戸城から開拓使本庁へ
建築技術者のDNA移植】の続篇、スピンアウト篇です。
わたしは住宅取材という仕事をしてきている人間。
年間住宅数は最盛期には200軒くらい「取材」していた。
その経験から住宅を「どう作ったか」という設計思想のようなものは
雰囲気から「つたわってくる」という実感を持っています。

江戸後期下級武士の「公営住宅」ともいえる「八王子千人同心組頭の家」を
江戸東京たてもの園で体感した経験がある。ブログでも書いている。
その後、明治「武人住宅」の琴似・屯田兵屋をあらためて訪れたとき、
「どうも似ているなぁ」という強い感覚を抱いておりました。
八王子千人同心は、下級の武士団であり半農半士的なありようだったことも
琴似屯田兵との類縁性を強く感じさせられる。
住宅全体の中での農事作業のための土間空間の「按分」感覚とか、
平入りの土間入り口と「勝手口」が対面構成になっている、
いわば「通り土間」的な平面構成の感覚。切妻平入りで、間取り的にも
土間と板敷きの間、奥の畳の間、台所の配置関係など、
いかにも「似ている」。設計的なDNAの連続性を感じさせられた次第。
士族の心性を理解した空間構成だという感覚がある。
普通の江戸期農家住宅と比べて「座敷を見る」ことへのこだわり、
格式としての「ハレ」空間へのこだわりがより強く感じさせられる。
コンパクトに作らざるを得ないけれど、わが家は武家である、
というような精神性がその設計から伝わってくると感じるのです。
土間でのふだんの生活シーンから正面には格式を表す
座敷と床の間空間が「いつも見えている」ことが、
農事のなかでも身分を決して忘れるな、みたいなことを諭すように感じる。
屯田兵屋は写真左ですが、床の間には主君たる明治天皇の真影まで飾られている。
開拓と防衛任務の両用目的として、設計的な「下敷き」に
八王子住宅が屯田兵屋にDNA的に「移植」されたように思われるのです。
わたしは遠藤明久先生のような学究者ではないのでエビデンスを探って
実相をあきらかにすることは碩学のみなさんに期待したいところですが、
取材者の感覚として、強い「素性」の類似性を感じた次第。

で、こういう感覚のうえに、遠藤先生の研究を読み進めて
幕臣から開拓使の建築技術者に転身の岩瀬隆弘が発掘されて
この実感という「点」が「線」へと繋がったと思える。
外形的事実としては、かれ岩瀬隆弘が琴似屯田兵屋の設計に
深く関わっていただろうことはあきらか。
琴似の大規模公営住宅「屯田兵村」208戸建設は、明治7年中のこと。
かれは同年3月に札幌を去っているのだけれど、
基本設計は工事着工までには当然済んでいただろうし、
なんといっても208戸の大工事で設計は十分な時間をかけたでしょう。
幕府から明治政府への移行期、屯田兵という兵農一体組織の役宅建設で
その類似先行形態として江戸後期の「八王子同心住宅」の設計が
下敷きとされるのはきわめて自然ではないか。
こういう国家意志・建築目的があって、高齢(推定55歳前後)ではあるが
岩瀬に寒冷の地、札幌勤務が命ぜられたのではないかと思える。
しかもかれは同時進行した開拓使本庁舎のアメリカン「洋造」についても
当時の日本建築界で高レベルの基礎的知見を有していたとする記述があった。
〜幕末期には横浜で「洋館」建設の実経験もあったかもと類推できる。
このあたり幕末の公共事業の研究発掘も期待したい。〜

以上の「実感」はあくまでもスピンアウト的な想像であります。
しかしこういう取材者としての感覚もなにかのきっかけにはなるかもと
書きとどめておきたいと思った次第。
八王子千人同心は幕府末期に蝦夷地開拓に取り組んだりもしている。
困窮の暮らしの中で蝦夷地に夢と希望を抱き、そして挫折している・・・。
幕府機構にいた人間として設計した屯田兵屋に対して、ある思いも
かれ岩瀬の胸に去来することはなかったか、
人間の側から建築を見つめ続けている人間として、想像力がうずく。