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【658年阿倍比羅夫遠征で江別古墳勢力と接触?】


さて北海道住宅始原の旅シリーズ・古代史続篇です。
いろいろなみなさんから情報のご支援などもいただけますので、
やる気倍増で、たいへんウレシク思っております。

やはり北海道住宅は、明治の開拓初期開始された本格的な移住促進、
そのプロセスで建てられた住宅が中心軸になります。
そうなのですが、しかしそれ以前の「前史」もまた、
6000年前の古地形の時代まで含め、奥行きと深さがあると思います。
そして7−9世紀にかけて造営された現地民の痕跡が江別地域に遺っている。
「江別古墳群」であります。
この時代、日本書紀に「阿倍比羅夫の遠征記録」がある(658-660年)。
阿倍比羅夫はその2年後663年には国際戦争・白村江の戦いにも参陣する。
この当時のヤマト政権中枢の国家意志を体現した存在であることは間違いない。
660年の条では「比羅夫は大河(石狩川あるいは後志利別川と考えられる)
のほとりで粛慎に攻められた渡島の蝦夷に助けを求められる」という記述。
一方でこの江別古墳群の創始は7世紀・600年代とされる。
当時の航海技術として難所である積丹半島を回り込めたかどうか微妙だけれど、
この記述の「大河」が石狩川だとすれば、この江別古墳の造営者たちと
阿倍比羅夫が接触し対粛慎(オホーツク文化人と目される)同盟を結んだと、
日本書紀の記録、この条を読むことができる。
古墳なので有力者の死後造営されると考えれば、年代的にも符合する。
この江別古墳群は古地形を踏まえれば「江別半島突端部」であって
石狩川・古豊平川の合流地点の高台に立地する。
古地形としての古石狩湾にも照応する立地と言うことがいえるでしょう。
現代でもこの水系との段丘状の高低差は目視で10m以上はある。
古代においての交通路である河川水運には最高適地で、石狩川の河口までは
指呼の間と言うことができる。
阿倍比羅夫はこの北海道での活動の前には秋田能代や津軽で蝦夷勢力と
平和的外交も行っている記述がある。
一方、この江別古墳群の造営者はその古墳スタイルが
青森県東部・八戸周辺地域の古墳と酷似しているとされている。
古代の勢力分布として考えれば、北東北-北海道一帯に同系統の
勢力が存在し、かれらが阿倍比羅夫・ヤマト政権と協和したとも思える。

どうもこのあたり、日本の中央政権と北海道地域との
歴史的な最初の接触だったという推測を強く持っています。
日本中央国家社会との「交易」の開始も、この接触時に
「生きているヒグマ2匹とヒグマの皮70枚を献上」との658年日本書紀記録。
その後、日本中央国家社会は北方交易に強い興味を持ち始める。
北方からもたらされる毛皮やタカの羽根といった「威信材」などに、
深く魅了されて、東北地域への権力拡大を強く志向するようになる。
一方、北方には日本社会から鉄器などが旺盛に交易移出されたと推測。
<しかし実は最重要なものは日本の酒だっただろうけれど。>
その後、こうした日本からの物資を基礎的に受容したアイヌ文化が成立する。
アイヌ文化の住居チセは、鉄鍋を自在鉤で囲炉裏に下げる食文化に変化する。
そしてその「台所革命」の結果、古来の竪穴から平地住居に変わっていく。
この北方の住居革命は、鉄鍋の日本からの移入受容がもたらしたものではないかと。
このような日本と北海道の異文化接触の最初の対象として
この「江別古墳群」という文化勢力に強く興味を惹かれております。

【出張時のFacebookトラブル遭遇】

今週は東北に出張してきておりました。
本日は故あって函館で1泊してクルマごと本日帰還予定。
「三木さん、若いですね(笑)」と冷やかされながらであります。
そういうときに限って、WEB環境でトラブルが発生する。
ということで「北海道住宅始原の旅」シリーズは明日以降に順延。

きのう朝いつものように年寄りの「日課」、
ブログを書き上げてアップさせた。
わたしはWordpressというブログを書くソフトで書いておりまして
それがfacebookに「連携」する設定にしてあるのです。
年寄りながら、情報関連でやってきたのでなんとか、
今の時代の環境にも対応したいと考えている次第です。
でもまぁそこは詳細な知識とか、スタッフに保守して支えてもらっている。
で、書き上げてアップしたけれど、Facebook上に反映されない。
もう一度試してもダメ。
・・・ということで思い出したのが以前もこういうことがあったこと。
だいたい年に1回くらい発生している。
それはWordpress側で「連携機能」が勝手に切断されていたのです。
頻繁にバージョンアップグレードのアナウンスがされて
そういうのには従順な方なのですぐにアップするのですが、
たまにそのなかに不適合なものがあるようで、症状が出る。
で、その場合には「いったん接続設定を解除して、再度接続させる」
というパソコンの「再起動」のような動作をさせると復活する。
それで、今回もそうやって試してみた。
無言絶句。・・・ダメでした。
これはもうわたしには知識がないし、それときのう朝から多数の訪問を
こなしす予定だったので時間がない。
スタッフに朝1番の依頼で申し訳なかったけれどヘルプを発信して出掛けた。
で、昼頃にいったん出先でWEB接続したけれど、復活していない。
スタッフと連絡して現状の症状を伝え再度チェックを頼む。
移動の時間もあるのでわたしはタッチできないのです。
というようなWEB環境の1日を過ごしておりました。
受けるだけでなく発信する側の環境というのはやはりなかなかメンドイ。
で、青森からフェリーに乗船してようやくスタッフと応答が出来た。
結局は、Facebookの「法人向けページ」でだけ発生の不具合だという
原因特定がようやくできた次第です。
その旨Facebookには連絡したけれど、さてどうなるかは不明。
夕方7時過ぎに、ちょっとした「ウラ技」でアップは出来たけれど、
しかしサムネ画像は張り付かない(泣)という状況。
GAFAとか言われるWEBの基盤事業者たちでありますが、
やはり政府組織並みに環境を維持していくというのはどうなのか。
こういう「不具合」によるトラブル・損失について政府組織のようには
担保保全の「義務」がないと思います。

さて本日、復旧するのかしないのか、と思案投げ首状況であります。
う〜〜〜む。
おお、復活しているみたいです、やった!よく頑張ったFacebook。
<画像は大津波で流される人々の図。>

【石狩平野・古地形と開拓使の開発戦略】

北海道住宅始原の旅シリーズ、いろいろなご意見・反響が。
とくにわたし的にビッグスパンとしての古地形が心に強くあったので、
6000年前は広大な運河的な海が石狩平野を覆っていた事実について
絶対に抑える必要があると考え、掘り起こして触れてみた次第です。
図示したのは江戸期に描かれた「蝦夷地山川地理取調図江別付近」。
明治の開拓使の活動に先行して、江戸幕府もさまざまな活動をこの地では
先駆けて行ってきていたし、測量など基礎的な調査は行われている。
とくに「場所請負制」も最後期になると、閉鎖的独占に凝り固まった
支配形態の弊害が大きくなってきていて、
その弊害を打破するために「イシカリ改革」というような施政転換もあった。
その結果、多くの新規参入がこの地域を中心に図られて
祝津などでの底引き網漁などで大成功を収める青山家などがあらわれる。
こういった幕府時代からの改革が北海道の開拓期の経済基盤を支えもした。
明治大正昭和と、開拓の基盤になった沿岸漁業の発展の存在は大きい。

おっと、つい横道にそれましたが、
北海道開拓と同時に明治初年以来、対ロシアの戦略的要衝としての
石狩平野の開拓殖民こそは、日本の国家戦略のカナメだった。
蝦夷地南部、函館周辺について日本国家の実質もあったけれど、
この石狩の平野部という地域をもし樺太同様にロシアに支配されると
その後の日本国家の基本スタンスが大きく揺らぐことになったのでしょう。
日露雑居状態であった樺太と千島を領土交換して、
蝦夷地北海道は日本領土であるとロシアにも公的に認めさせたことは
非常に大きな明治初年国家の外交選択だったと思います。
こうした交渉も、樺太も管轄した「開拓使」の関与するものだった。
その後、開拓使長官になる黒田清隆は当初は、この樺太専任だった。
こういった経緯で石狩平野部の開拓は精力的に進められた。
で、これはよく言われることなのですが、
明治初期に敷設された「鉄道」の小樽−札幌間の用地選択では、
古地形からの地盤面に注意しながら線路敷設したとされているのですね。
たしかに非常に注意深く「泥炭地盤」地域とのギリギリを選択している。
口伝的な情報で、このことは「都市伝説」かもと思っていたのですが、
古地形との照合から考えてみると蓋然性がある。
この用地選択に当たって、江戸期からの古地形調査結果が
どのように反映されていたのか、非常に興味深いと思っています。
北総研の高倉氏からも、この古地形についての強い反応があった次第。
古地形的に「半島部」ともいえるのが札幌の基本的な特徴であって
しかも、石狩川水系、豊平川・伏古川などの「水運」も持っていた。
その水運強化のために江戸期末期に篤農家の二宮金次郎の教えを受けた
大友亀太郎が豊平川と伏古川との連結のために創成川を開削している。
そのような地盤面での調査結果と、水運の基礎的な強化という
大都市建設の基本的な着目、着眼が札幌開府には大きく資している。
まことに先人たちの慧眼に目を瞠らされる思いが募ります。

【窓・建具を彩る明治の職人の手業】

きのう紹介した野幌屯田兵中隊本部の「ガラス窓」です。
明治17年の建築に装置された窓は、当然のように木製です。
木製窓って、その窓の先の外だけを見ているのか、
あるいは額縁の木枠と一体化した「窓のある風景」としてみているのか、
心象的に微妙なあわいところに立ち至っていると思います・・・。
ある画家から、額縁の存在感に負けないように頑張ると聞いたことがある。
今日とは違って、こうした窓は「建具仕事」として現場で造作された。
しかも、見よう見まねの「洋風建築」の窓であります。
たしかにこの頃には北米などから専門技術を持った「お雇い外国人」が
多数、北海道・札幌に滞在し、働いてくれていた。
そうしたかれらのための住宅として洋風住宅の需要があって、
それがまた反射して日本人のインテリ層を中心に住宅デザインに反映した。
そもそもこの当時建設された開拓使庁舎や時計台、北大のバーン建築などの
ランドマーク建築はまったくここは北米か、という街並みを見せていた。
したがって、見よう見まねとは言っても技術の熟成進化もあったのだろう。
いま、130年近い時間の経過と幾度かの修復を経ているけれど、
さすがに木製の味わいと、手仕事ならではの端部のやわらかさが
そのたたずまい、表情から伝わってくると思えます。
当時はガラスは小さい小片でのみ生産されていたので、必然的に桟がある。
その木の表情が、ガラスの反射ゆがみも加わって目に優しい。

そのような窓ですが、この建物でもいろいろな開け方のタイプがあった。
大きな広間を飾る大窓は今に至るも一般的な「引き違い」タイプを採用。
たぶん日本人的に障子や雨戸の使い勝手がイメージされ、
さらに大開放させるに、この引き違いが最優先されたのだろう。
締める金物としてネジの締め上げタイプが採用されている。
ネジを最後まで締めたときの「気密感」を日本人は初めて感覚したのでは?
明治の人たちの「おお・・・」という吐息も聞こえるかのようです。
続いて「上げ下げ窓」であります。
こちらも日本人には「ハイカラ」そのものだったでしょう。
そもそもガラスの窓というのが驚かれるのに、
その上、上下にスライドして開閉されるとは度肝を抜かれたのではないか。
さらに窓が「回転する」というに至っては、魔術を見ていると(笑)。
こういった建具の仕掛けたちが、いかにも古美た金物で造作されている。
明治になって洋風という建築技術に触れた職人たちが、
この新たな技術体系に対して真摯に立ち向かっている様が伝わってくる。
回転の中心には「ダボ」の木が軸に嵌め込まれていてユーモラス。
回転する範囲を決める枠の段差の仕掛け、計算など手業感が感じられる。
古びた金物も独特の質感で、ノスタルジック。
高々10数年程度の期間の間に、欧米の職人仕事に肩を並べたのではないか。
そしてなお、日本人の感性に似合うように工夫も重ねたに違いない。
明治の職人さんたちの手仕事と対話する時間を過ごしていた。

【明治モダニズム=ガラス窓 野幌屯田兵中隊本部】



北海道住宅始原期への旅です。
きのう触れた江別市の地質的な高台地形、舌状台地に立地する建物。
古地形的に見ても、北海道の石狩低地帯のなかの「要衝地」。
石狩川は上川地方の淵源地から扇状地を作りながら南下して
この周辺になってくると、平地になって蛇行が大きくなる。
古来、氾濫を繰り返してきたことが明らかに見て取れるそうですが、
明治の開拓期の地形測量でもそのように判断して
やや高台になっているこの「野幌丘陵」地域を屯田兵村地域と定めた。
舌状台地の突端が石狩川に対面するような位置関係に相当する。
兵村の展開は波状的に数回にわたって行われ、
旧軍隊組織の「中隊」規模にまで多数の屯田兵屋が配置された。
札幌の琴似、山鼻に続いて3番目に入地が進んだ地域です。
農地という選定基準もさりながら、交通も当然、北海道内内陸地の
戦略地形的な要衝地という認識があったということでしょう。
兵村の展開としては、琴似が「集村」形式で一戸あたりの家屋面積が
150坪と小さめの敷地の都市型であるのに対して、
こちらでは一般的には4,000坪程度の区割りで「散村」形式が取られている。
もちろんこの4,000坪でも「農地」としては小さいので、ほかにも
土地は割り当てられていたということです。
屯田兵村の各戸配置計画はその兵村ごとにいろいろな試みがされている。
また建築工法としても、間取り計画としても変遷が見て取れる。
開拓使の後継組織という性格も強い地方政府組織「北海道」が
全国でも稀有なほどに「住宅政策」について強い関心を持つのは
こういったDNAの作用が大きいと思っています。

この建物は建築年代は明治17年とされています。
翌年18年から「中隊本部建築」として供用されたということ。
面積は1階が42.6坪、2階が36.1坪の総面積78.7坪。
面積が不整合な数字になっていることからわかるように
ツーバイフォー工法の原型である「バルーンフレーム」構造の木造。
時計台と同じ建て方で、洋風建築といえるのですが、
玄関ポーチなどは、日本の神社仏閣の建てられようを採用した
「和洋折衷」というような説明でした。
日本最初期の洋風建築というのは「ガラス窓」という概念が特徴的になる。
北海道開拓使の公邸として岩村判官が住んでいた建物は明治初期、
「ガラス邸」というように呼ばれていたそうで、
このような「ガラス窓」がモダニズムの象徴だったことが偲ばれます。
それまでの日本建築には仏教建築での幾何的デザインの窓などを除いて
窓についての文化伝統は見出しにくい。
ガラスが本格的に導入されて「洋風建築」が作られるようになってはじめて
日本人は、内から外の眺望を楽しむ窓の歓びを知ったのではないか。
もちろん引き戸の建具で閉じられた室内を開放して庭と一体化するという
そういう感覚はあったけれど、身を内側の落ち着いた空気環境に置いたまま、
風景だけが切り取られて額縁付きの「絵画」として認識できたのは、
このような明治の建築がはじめての「体験」を提供した。
その初源の気分をなんとなく感じさせてくれる室内情景です。

【6000年前「古石狩湾」地域の交流痕跡】

北海道住宅始原期への探究です。
明治の新政府による移住政策の推進、民の動向が探究のメインですが、
やはりより古い時代からの「流れ」というものも存在する。
直接の日本国家による「投資」的進出、住宅建築とは別に
先史からのこの地域の動向というものも押さえておきたいと思います。

図示しているのはきのうの「6000年前の石狩湾」の平面図表現。
いまの道央地域、石狩低地帯の6000年前の姿。
この状況から現代見ている石狩平野状況まで推移してきた。
普段の生活認識では、石狩平野地域での「高低差」というのは
なかなか感覚しにくいのですが、しかし先人たちにとって
こういう高低差というのは決定的だっただろうと思います。
まずは海からの高さがあることで、安定的な陸上生活が可能になる。
その基本ポイントで見る習慣が現代人から失われているのかも。
しかし、最近の気候変動・水害被害などは、そうしたことへの
気付きをわたしたちに再度求めてきているのかも知れない。
この図で気付くのは、この石狩低地帯・古石狩湾地域での
「江別」地域の位置です。
この地域は明治以降、2つの札幌地域での展開に続いて
屯田兵村が3番目に展開した、明治期にも重要と目された地域に当たる。
石狩川は北から南下し、この周辺から西に大きく流れを変える。
その流域に対してやや高台に位置する舌状の「突き出し」地形。
考古的に遺跡群が、この古石狩湾とのウォーターフロントで
たくさん存在し続けている。この海ではクジラ生息まで確認される。
また歴史年代8世紀には日本社会中央と関係の強い「古墳」も造営された。
近現代の地理認識からいえば、交易といえば日本の西海岸地域、
日本海側地域との交流が自然と思われるのですが、
この古墳から出土する遺物からは、青森県東部地域との連関が浮かぶ。
むしろ八戸周辺の文化との交流が感じられるという。
この図の南側、太平洋側・苫小牧方面との「交易路」が想像されるワケ。
遺物からは地元人か、あるいは青森県東部地域の「出先」であるか、
どちらともと類推できるとされている。
そもそも石狩川自体、ずっと南流していたのが本来で、苫小牧方面
太平洋に流れていたという説も強いのです。

縄文の世13,000年前ころからこの列島には人が定住してきたので、
6000年前のこの図の地形当時も相互での交流はあったでしょう。
なにしろ、この図の右上側「東蝦夷」オホーツク側の「白滝」から
「黒曜石」がたくさん本州島各地に「出荷」されている事実がある。
江別地域の舌状台地はこのような位置にあったのですが、
明治以降、日本国家はこうした先史からの流れを知ってか知らずか、
古石狩湾地形上でもやや同質性の感じられる札幌地域に
北海道開拓の首府を構想し、旺盛に北辺経営に乗り出していった・・・。

【6000年前は海だった北海道石狩平野】


写真は北海道の石狩湾の上空から南東・ニッポン方向を見下ろした様子。
上の図が今から6000年前で、下が現在の様子。

わたしのブログでは数回、こうした「過去地形」を考えてきています。
最近の「気候変動」の原因についてそれをCO2の問題と
教条的に決めつけるのには単純には同意できません。
むしろそれ以上に、過去から繰り返されてきた地球気候全体としての
温暖化、寒冷化のサイクルということが大きいだろうと思っています。
そのことを明確に証明しているのがこのような「大地の変容」。
以前にも、関東や関西の大地の姿が歴史年代でも変化していると書きました。
直近では大阪平野が実は、河内湖、さらにそれ以前は瀬戸内海とつながった
内海であって「浪速」という地名自体がその事実を痕跡として伝えている
事実などに注目していました。
大阪の場合、このことが「神話」とされてきた神武東征に
どうも深く関わっている可能性があるとも思われる。
日本史としてはたいへん重要な背景に大地の変容が関わっている。
で、そういう考古的事実発掘を、ここ最近取り組み始めた
「北海道住宅始原の旅」の随伴事実として掘り起こしている。
昨日、以前から気に掛けていた石狩〜江別周辺の歴史探究めぐり。
たくさんオモシロい発見もありました。
やっぱり実際に目で見て現地で体感するのは貴重な機会。
このジオラマ鳥瞰図にはいたくリアリティを刺激された。
石狩平野が日本海と太平洋とつながる大きな「運河」地帯だった
そういうことは知識があったのですが、
それをもっとリアリティたっぷりのビジュアルで感覚できた。

石狩平野はそこで人生を長く過ごしてきたのに、
その地形全体についてあんまり考えたことはなかった。
このジオラマ図では石狩低地帯といわれる全体像が浮かび上がる。
遠い記憶で小学校時代に「泥炭地」という表現を繰り返し
授業で耳にしたけれど、それはこの図のような考古事実が反映している。
6000年前というのは、縄文も後期になる時期であり、
三内丸山などは十分に射程に入ってくる時代だと思います。
江戸期でも「東蝦夷地・西蝦夷地」という区分があるけれど、
この図のようにそもそも地形的に分かれていたと知れば
想像力がもっと飛躍できると思います。
もともと北海道では和人の進出前の記録に乏しいので、
いきなり考古の時代に遡って遺跡群が残されている。
その地形的背景理解としてこのジオラマは、大きな気付きになる。
文化の日の1日、大きな収穫が得られた気分であります。

<ジオラマ図は石狩市教育委員会2016.8.31・志賀健司氏資料より>

【許認可電波メディアでの五輪マラソン札幌ディスり】

いまの時代は転換点なのだとつくづく思わされる。
これまで情報の庶民的「ホンネ」領域をほぼ独占的に担っていたテレビが
インターネット上の「炎上」にさらされることが常態化してきた。

11月1日放送された「ミヤネ屋」という昼間の情報バラエティで、
東京オリンピックマラソンの東京から札幌への会場変更が
話題として取り上げられ、そのなかで司会者の宮根某という人物が
どういう心理からなのか、いかにも上から目線で、
勝手に予測した札幌のマラソンコースをディスりまくったそうです。
娘から送られてきたリンクで動画を確認させてもらった。
「放送するアナウンサーは、青い空、白い雲くらいしか言えない」
「最寄り駅から40分もかかる、ありえない。年寄りや子どもも応援したいだろうに」
「東京だったら、東京タワーですとかランドマークを連呼できるけど、
こんなところでは、なんもアナウンスできない」
その上マラソン選手経験者に「それで、札幌にしたら日本選手に有利か?」
と質問し「そうとはいえない」と答えられたら、
それならまったく意味がないというようなコメントまで発していた。
本来競技は公平であるべきで日本に有利不利はあってはいけないコメント。
・・・いずれにせよ、決まってもいないコースを勝手に酷評していたとのこと。
「全国放送」なので当然札幌北海道でも放送された。
きのう夫婦で買い物などに出掛けている途中に札幌在住の娘からLINEで
怒りまくりのコメントが送られてきていた。
一応札幌には190万、北海道では550万人口がある。
これって地方地域への反感助長ではないか? なんとも悲しい。

わたしは東京・横浜圏に学生時代から8年以上住んでいたので
それなりの地域感情というものもわきまえているつもりだけれど、
8月初旬の猛暑について地域として誰もが体感的に理解している。
そのなかでの過酷なマラソンレースは相当危険だということは一般常識。
このことは、そういう判断基準が第1であるべきだろう。
競技を管理するIOCはアスリートファーストの結論を下したということ。
札幌はこのことにどういった意味でも関与はしていない。
本来「全国メディア」であれば、IOCに対して意見を言うのならわかるが、
それがなぜ、たまたま名前が挙げられた同じ日本の地方地域を
ディスる方向に向かうのかが理解出来ない。
こういう地域へのディスり放送が、当該放送局自前で得た権利でもない
国民全体の所有権である電波の、単なる「許認可」放送局でなされている。
まぁ、誰でも口が滑ることはあるので許せないというものでもないけれど、
わたしも娘の怒りがよく理解出来た次第です。

【ラグビーWC大団円 五輪マラソン札幌開催へ】

さて長かったラグビーワールドカップもきょうが決勝戦とのこと。
日本中に誇らしげな「にわか」ファンの渦を巻き起こしての大団円です。
なにが何だかよくわからないけど、相撲の立ち会いのぶつかり合いの迫力と
独特のチーム一丸球技のオモシロさ、さらに国別対抗というわかりやすさ、
その上、終わったあとの「ノーサイド」の清々しさと、
まさに「にわか」的盛り上がりには事欠きませんでしたね。
ちょうど、韓国との外交あつれきが盛んな時期に重なったことで、
そういった国際意識のモヤモヤした部分がストレス発散されていた。
国同士がいがみ合うのはある部分仕方のない「サガ」ではあるけれど、
同時にお互いをリスペクトすることの大切さを
再度確認させてくれたイベントだったと思います。
決勝戦は日本に勝ち上がった南アフリカと、イングランド戦。
にわか、としては日本戦のように血が騒ぎすぎず、
純粋にスポーツとして楽しませてもらいたい(笑)。
両国チームの熱いファイトを期待したいと思います。

というような爽やかなスポーツニュースと並行して
東京オリンピックのマラソン競技の札幌開催という微妙さのある動き。
わたしのブログでは気候変動対応としてのバックアップシティとして
札幌を活用していただける、困ったときに役に立てるという
そういうスタンスで歓迎させていただいていた。
その後、東京の人たちのやるせなくツライ思いも伝わってきて
なんともと思っていましたがどうやら正式に「同意なき」決定のようです。
このような経緯であったことを踏まえて、
オリンピックの華の開催というこの好機を当地として無にしたくない。
全市民、オール北海道でおもてなしの心を持ってあたりたいですね。
コメの国日本が亜寒帯に近い気候地域でも大都市を成功させている
そういった国の多様性の力を世界にアピールする好機と思えます。
ほんの150年前には海岸線地域での漁業収奪しかなかった国土を
「食糧基地」と呼ばれるまでに農業振興させ、
地球上でも航空路線第4位乗客数の吸引力ある地域に、日本社会は
北海道を開発してきた、そのことを世界にアピールできるようにしたい。
日本国家が育て上げたこの地域が、いまやアジア圏からの観光でも
有数の魅力的地域に育ってきている。
五輪開催都市・東京にとっては、マイナスとも思える今次機会を
むしろ日本全体のビッグチャンスに変えられたらと念願しています。
魅力あふれる風土・景観を、ぜひアピールしてほしいものです。

【城郭と支える城下町 「首里城」再建を期待】

首里城が焼失した。

家族が移住していた経緯があって沖縄へ何度も往復していた。
首里城も数回は見学していたけれど、とくに写真には収めていなかった。
名にし負う観光地であり、回を重ねるごとにそうした気持ちが消えたのかも。
北海道のひとが道庁赤煉瓦建築をあまり写真には収めないみたいなものか。
テレビを見る習慣がほとんどなくなったので、今回のニュースは
WEBで知った。沖縄と建築という類推から建築家の伊礼智さんの
FBページでの反応なども知った次第。
建築にはさまざまな要素があるのだろうけれど、
この琉球王朝時代の象徴建築はひとびとのこころに触れていることが明瞭。
ある意味、沖縄そのもののアイデンティティという受け止め方。
わたしも一瞬、沖縄が失われたという思いを抱いた。
伊礼さんの言葉では「建て直すしかない」という意志的なフレーズが
とくに印象に残った気がしました。
首里城建築は数度の「再建築」を繰り返してきているとされる。
京都の金閣も放火による悲しい焼失を経験してきている。
建物は消えるけれど、人々の記憶は決して消えない。
令和の時代の再建築として復活を期待したい。

こういう「記憶の建築」にはそのような役割があるだろうけれど、
写真はわたしの好きな歴史民俗博物館(千葉県)「江戸橋広小路模型」。
こちらはレプリカなのに、どうもWEBでの検索でも
その名前が通っているという不思議な存在。
江戸期の経済の実態を視覚化した展示として深く驚かされるもの。
生きていた「建築群」リアリティ、江戸経済そのものみたいな。
城郭建築というのは象徴性で永続するものでしょうが、
その「城下」街というのは、きわめて流動する存在。
戦争などがあれば、その都合から最初に焼き尽くされる存在。
しかし直近の日本最後の国内戦争である戊辰戦争では
薩長もこの江戸の生きていた経済実態そのものには手を出さなかった。
いや、出せなかったというのが真実であるのかも知れない。
明治新政権の大資金源は大坂の資本家たちだった。
かれらは江戸の「経済」を無傷で得たかったに違いない。
いまこのレプリカからつたわってくる民衆的な経済実態には目を見張る。
秀吉が着目した江戸の水運優越性が人工的大都市の成功をもたらした、
その実態そのものがつたわってくるものだと思います。
よくみると、市街の中心施設として「火の見櫓」がみえる。
繰り返された江戸の火災災害から都市自身が自衛していた。
街づくり思想として先人たちからさまざまな警句を教えられる。