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【住宅打合せは女性心理ファースト】

フランス語で住宅は「maison」(メゾン)と言う。
フランス語では名詞に男性・女性の区分けがあることはご存知の通り。
で、住宅は「女性名詞」となっているそうです。

で、世界に冠たる「戸建て注文住宅」国であるニッポンでも
いまや「住宅」というのは女性名詞とでも言える状況ではないかと。
住宅というのは「家族のための共有空間・気積領域」の形成が主目的。
そこでの「空気感」を支配するのは基本的に女性。
仕事への女性進出というか、女性が仕事してくれないと
基本的な労働力が決定的に不足しているので、
勢い、女性たちの社会進出が盛んにはなっていますが、
しかしそういう「共働き」であっても、住宅の空間支配は
やはり女性の意志決定力が最大のものになる。
世の男性たちが長い時間を過ごす住宅の内部のしつらいについて
あれこれ強い決定力を発揮できるかどうかと考えると
どうも、男性にはこういう「くつろぎがどうあるべきか」という
テーマについての深い洞察なり,判断力は発揮されていないと思う。
考えてみれば自然なことであって、男は外の世界で「戦闘」的に生き、
女は基本的には家を守ってきたという人類的経験が長い。
衣食住のすべてにわたって、女性の方がはるかにすぐれた感受性を持っている。
男は家に帰ればその女性に産んでもらってもいないのに
ごく自然に「母さん」と呼ぶことが多いように思う。
それは母性に対しての帰依が人間社会の安定に資するという常識の故。
住宅というのはそれらすべての要素の複合体なので、
女性的感受性が支配することになると納得できます。

こう考えてくると、
意志決定権者としての女性的感受性に目標を絞っていくというのが、
住宅事業の要諦であるという考え方も自然。
こういう理解をベースに意見交換していくと、
実にさまざまな大きな気付きが得られてくると感じています。
やはり住宅雑誌としては、どうビジュアル表現するかは、
常に意識する最前線的なテーマ。
たとえば女性にとっては家の外観とは、「わたしがどう見られるか?」に
直結したテーマなのだ、という理解に思い至る。
こう考えるとどんどんと深みが増していくなぁと。

【暮らしのモノの魅力、直撃弾(笑)】

一昨日書いた和風古民家が必ずしもピッタリ似合う地域ではない
北海道十勝での「古民家蕎麦店」でふと見掛けた陶器。
これにどうも「ひと目ぼれ」したらしい(笑)。

みなさんはお気に入りのモノって、
どのようにそうなったか、気がつくコトってあるでしょうか。
わたしの場合はやはりこの「ひと目ぼれ」が多数派。
いろいろ考えた末に「まぁこれが妥当だ」といって選択することは
まったくといっていいくらい、ない。
仕事などでじっくり取り組んで試行錯誤の末に選択を決める
というようには日常生活ではやらない。
ほとんど一期一会、その出会いの衝撃がすべてを決定している(笑)。
人間はふだんの暮らしって、ほとんど「情緒的」に過ごしているのが
ごく当たり前なので、当然のことだと思います。
理性的な算式的判断ではない、情緒的判断というのが当然。
しかしその情緒的判断には、それまでの個人的感覚が集約もされている。
なにかの個人的嗜好の経験値というものがあって、
そこで一期一会的な出会いの時にそれが表出する。

このそばつゆのイレモノ、
素性もなにも知らないし、だからといってお店の方に
聞くまでの強い思いを抱いた、ぜひ欲しいというような
そういったまでの思いはないけれど、
カタチや、色合い、雰囲気、なにか言いたげな部分について
つい感情移入してしまうものが感じられた。
なので、カミさんにはナイショで(笑)写真を取った。
この陶器は眠っている感情を揺さぶるようであったのかも。
よくわかりませんが、陶器を写真に撮りたくなるというのは、
わたし的にはほとんど体験は少なかったけれど、
数寄になったということですね。
まぁ一期一会で特段の情報収集などまではしておりませんが。
茶の湯の茶碗へのフェッチぶりというのが日本文化の
手ざわりの部分にありますが、突然の同様体験だったのかと・・・。

【現代住宅がほぼ忘却した「門」の美意識】

日本の京都などの都市のなかには、
塀で囲まれた寺院などの文化的建築が多く存在する。
そこでは建築本体の空間へのアプローチとして
門や庭などの「心理的隔離」装置が一般的に存在する。
武家屋敷や明治以降の「高級住宅」などでもこういった形式が一般的。
現代ではほとんど意識されなくなってきた「家」意識の
基本骨格にこうした美意識が存在すると思います。
そのとき、門というのはいわば家の「格式」を表現した。
いまや高級住宅の建て替えで庭石などが大量に廃棄され
行き場がなくなってきていると言われるけれど、
こうした空気感としての隔絶装置自体が、顧みられなくなってきている。

しかしたまにこのような寺院建築などで、
非日常感としてのこうした美意識をときおり、忘れないように
体験することも、やはり日本人は好きなんだろうと思う。
なにかの「用になる」という意味合いではなく、
いわば心的な装置としての存在を日本人はやはり好み続けている。

写真は先日訪れた松前の古刹の門。
この寺は龍雲院という寺号ですが、
各所に龍や虎などの彫刻が施されていて、
来る者を歓迎してくれている。
やはり日本の建築は本体建造物のほかにこのような
付属的な装置が、非常に大きな意味合いを持っているのでしょうね。
というか、中国には門と内庭が重要な四合院住宅という形式が残っている。
塀で結界を作って、空気感を外界から隔絶させるというのは、
人間本然の願望なのでしょうね。
こういう立派な門をくぐるとき、やっぱりリスペクト感を持っています。

【十勝の古民家和風そば店・大正(笑)庵】


きのうはカミさんと同行で十勝へ出張。
1日早くの仕事復帰ですが、わたし自身は往復の運転ヘルパー。
ということで、カミさんが探してくれたランチ店舗がこちら。
わたしも何度か訪れていることを思い出した店でした。

北海道十勝は、開拓の歴史では民間主導型でした。
江戸期から入植の進んだ道南や、
囚人労働などで基本の開拓が行われた道央道北地域とは違って
「晩成社」という独立的な民間開拓団が日本社会から資金を募って
この地域に開拓の産声を上げていったとされている。
開拓初期からコメ生産ではなく畑作中心の農業を目指してきて
いまでもほとんど水田がない、独特の農業景観。
住宅についても早くから軸組木造よりツーバイフォー工法が定着した。
きびしい寒さから人間の暮らしを守るのに、より合理的な工法へと
地域として大きく舵を切ってきた歴史がある。
いまではツーバイフォーの方が「在来工法」とまで言われる地域。
・・・なんですが、開拓初期からそうだったのではなく、
初めはいわゆる日本社会的な木造軸組構法の建築も多く建てられた。
しかしそれは寒さの代名詞みたいな状況で、
多くはうち捨てざるを得なかったということだった。
ツーバイフォーの家が合理的ということで多数派になってきた、
ということが十勝では住宅シーンで展開してきたのですね。

しかしそうは言っても、日本人的ノスタルジーはある。
多くはないけれど、日本的古民家のたたずまいへの希求もなくはない。
そういった店舗としてこの古民家風店舗は比較的に有名なんですね。
ただし、古民家には周辺景観として田んぼの風景が似合うけれど、
十勝ではこうした店舗が、広大な畑作地域に存在している。
また広大な十勝では珍しい「段丘」を背にして林が背景になっている。
このお店は中札内から移築されていまの芽室町にあるとのこと。
お店自体は大手企業勤務の脱サラ組が起業してのもの。
2017年に店主が交代して、いまは2代目として継続しているとのこと。
十勝には新得という蕎麦の産地もあります。
コメはほとんどないけど、蕎麦はある。
こういった地域性の中でのいかにもニッポン的古民家風そば屋さん、
頑張っていって欲しいなぁと、いつも思っています。
店名の(笑)というのは、実際にそういう書き方ですので、
わたしの書きクセではありません。念のため(笑)。

【メディアのきのう・きょう・あす】

さて長かった令和はじめの連休も今日まで。
みなさん、いかがお過ごしでしょうか?
若くもないわたしども夫婦としては、あちこちの軽い遠出くらいで
ゆっくりと骨休め中心で過ごしておりました。
仕事のことは気には掛かるけれど、
しかしそれはそれと考えて、休息最優先でした。

わたしは最近はほとんど「新聞」を読むことがなくなった。
たまにホテルで手に取ったり、コンビニなどで夕刊紙やスポーツ紙を
購入することもたまにはあるけれど、
いわゆる日刊紙を購入したりすることはなくなった。
たぶんインターネットポータル、わたしの場合はyahooトップページで
まとめサイト的に表示されるニュース程度で十分で、
それ以上の情報も、そこからのリンク先でのweb情報で十分になった。
物理的な印刷物としての新聞に、魅力がなくなってしまった。
このことはもちろん雑誌についてもいえることではあるのですが、
雑誌の場合には、ある専門性・嗜好性が強く存在するので、
より本来的な意味で「メディア性」があると思っています。
日刊総合新聞については、いったんその「習慣性」が消失すると
再度、惹き付けられる魅力というものが乏しい。
webに置き換わった、というよりも「情報」というものの即時性が
紙の新聞ではwebに太刀打ちできなくなったということ。
しかし令和の改元を伝える「号外」はその「記録性」で
多くの人から欲求された、ということは暗示的なのでしょう。
日々の「変化」を知るメディアとしての役割はいまは紙ではなくなった。
このことはやはり不可逆的な社会変化だと。
そういうことを深く分析して、メディアの今後を模索するしかないでしょうね。

しかし変化というのは、急激にやってくるのだということも
こうしたことでここまで思い知らされることになるとは、
正直に、生きている間にあるとは思えなかった(笑)。
大学を出て就職はマスコミ関係を志望していて、結果としては広告の仕事に
生きる方向を定めたのですが、
そういう人間として、メディアというものがこうなるとは、
まさかという思いがきわめて強い。
現状は変化の大波はだいぶ落ち着いてきたと思うけれど、
まだまだ、環境の大変化はあり得ると心得ておかねばならないでしょうね。
写真は仙台市博物館で目にしていた江戸期仙台市外中心地・芭蕉の辻の
「高札」の復元構造物。
江戸では「瓦版」などの新聞メディアの萌芽のようなものがあったけれど、
こういう藩の支配する地域では、上からのお達し情報が主体のようでしたが・・・。
伊達藩の「地方都市」では真実の政治情報流通などはどうだったか、
そういうことも知りたくなっておりました。
やはり人間社会の行く末は、過去・現在への深い洞察からしか
想像することもできないのだろうと思う次第。

【仙台平野中央「遠見塚古墳」探訪】


わが社仙台オフィスから東南方向約5kmくらいにこの古墳があります。
1kmくらいには「陸奧国分寺」もあり、遺跡がいろいろにある。
札幌や北海道では感じられない古代からの消息が空気に馴染んでいる。
この古墳は4世紀末の築造とされていますから、
これよりさらに南の名取市にある「雷神山古墳」と並んで、
この地域が比較的に早い段階から開発の進んだ地域ということが知れる。
以下、Wikipediaの「古墳時代」記述抜粋。
〜古墳時代は3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの約400年間を指す。
中でも3世紀半ば過ぎ〜6世紀末まで前方後円墳が北は東北地方南部から
南は九州地方南部まで造り続けられ、前方後円墳の時代と呼ばれる。
西暦266年から413年にかけて中国の歴史文献における倭国の記述がなく
詳細を把握できないため「空白の4世紀」とも呼ばれている。
日本国家の成立を考察すれば、倭国のヤマト王権が拡大し、
王権が強化統一されていった時代と考えられている。〜

下の写真は昭和20年代の古墳の状況。
空撮写真ですが、みごとに古墳全体が耕作地になっています。
古墳の被葬者はこの地域を支配した豪族であることは明白ですが、
1600年も経過すれば、世の中というのはこうなるのでしょうね(笑)。
さすがにその後、ここが古墳であることに気付いて
上の写真のように発掘調査が行われている。
遠景に道路が見えているのは、いまの国道4号線バイパス道路でしょう。
現在はこの周辺は公園になっていて、丘状の古墳に上れる。
「仙台平野のほぼ中央、広瀬川北岸の自然堤防に立地する。
全長110m・後円部直径63m。埋葬施設は2基確認され、両方とも大木を
二つにくり抜いた「割竹型木棺」。古墳の規模に比べて副葬品は少なく,
管玉1点、ガラス小玉4点、竹製黒漆塗り堅櫛17点。」
というのが、発掘調査結果とされています。

この古墳時代は文献資料が乏しく、
5世紀になってようやく、倭の五王が中国史書に登場する。
ヤマト王権がゆるやかに各地の豪族との合従連衡で
国家の基盤を固めようとしていた時期とされる。
上野の豪族、毛野氏などとヤマト王権との関係などをみると、
ヤマト側の「威信材供与」が各地豪族をつなぎ止めていたとされる。
副葬品の少なさは、東北南部は王権から遠く離れていたからなのか。
この仙台平野での水田耕作開始から300年程度は経過している。
こうした地域の開発独裁権力が、この地域一帯を支配して
ゆるやかにヤマト王権との関係を築いていたのでしょう。
より南に位置する雷神山古墳勢力と連合的権力形成と想定される。
日本武尊(ヤマトタケル)は4世紀から7世紀ごろの数人のヤマトの
英雄を統合した架空の人物という説があるけれど、
遠見塚古墳勢力など各地豪族との合従連衡を持ちかけて回っていた?
副葬品の少なさは、ほかにたくさん贈与して品切れした(笑)。
まだ埋葬施設調査がされていない雷神山の方は手厚くなっているかも。
埋葬形式が「前方後円墳」に全国的に統一されていくのには
こうした合従連衡と情報の一円化が進行したことを表現している。
まだまだ詳らかにはなっていない、遠見塚古墳の研究発展を期待したい。

【北海道の稀有な皇室関連建築「龍雲閣」保存】



この時期、いまの新ひだか町、静内では有名なサクラ並木「二十間道路」の
開花に合わせて「龍雲閣」が一般公開されます。
この建物は明治41(1909)年に貴賓舎として着手され翌明治42年に竣工した。
現在110年ほどの歴史を刻む北海道では稀有な皇室ゆかりの木造御殿古建築。
当時は日露戦争直後であり、軍馬生産が盛んになっていた時代。
その生産を強化する国家意志目的を明確にするために
頻繁に来場する皇族をはじめとした貴賓の客舎として建てられた。
皇族の来館が相次ぎ、大正・昭和の2代の天皇は皇太子時代に
この建物に宿泊されたし、現・上皇も夫婦で平成18(2006)年に臨場され、
さらに秋篠宮も夫婦で平成26(2014)年に来られています。
なんと新築当時、当時の韓国皇太子も伊藤博文の随従で宿泊したとのこと。
伊藤博文はその直後、凶弾に倒れ絶筆となった漢詩の書も残っている。
北海道日高地方が日本の「馬生産」の中心になっていったのには、
軍馬生産以来の日本としての「国家意志」が働いたことを示している。
そういった歴史経緯を明瞭に物語る建築だと思います。
ただまだ歴史が浅く史跡とか文化財指定といった要件には合致していない。

こういった経緯も知っているので時々、このサクラ見物時期には
訪問させていただいています。数回ブログでも書いています。
・・・だったのですが、きのう訪問してみて
これまで感じたことのなかった細部の傷みが目に付いた。
構造材木材の割れや、端部での漆喰壁の割れも発見した。
たぶん北海道で続いた地震による建物の劣化とも思われた。
そんなことで、ボランティアの説明員の方と会話を交わした次第。
そこで現在のこの建物の「保存」がどうなっているのか、
いくつかの情報を受け取らされた次第です。わたしども北海道人としては、
この建物は素性の明らかな皇室ゆかりの建築であり
次代にしっかりと伝承していかなければならない責務はあるけれど、
お話を聞けば聞くほどに不安な気持ちになってきた。
現在この建物の所有は、独立行政法人家畜改良センターだけれど、
農水省の管轄の法人であって独立性が薄い存在。
この建物の維持管理、さらに積極的な「活用」という意識はまったく希薄。
地域ボランティアが有志活動されているのが保存活動の「主体」という現実。
行政機構の縦割り体質の中で、保存活動は埒があかないとのこと。
数年前、屋根の銅板の一部が吹き飛んだけれど、
この「持ち主」には「予算がない」のでやむなく地元でカンパを募り
数百万円の補修費用を用立てた、とされている。
その経緯から原設計図面参照を申し入れても、この法人は所有すらしていない。
そこで宮内庁に掛け合って膨大な資料から地元ボランティアが探し出した。
軍馬産業という出自目的は戦後体制下の敬遠領域であり、省庁たらい回しという
無責任体制の結果、現状があるということのようです。

しかし建物各所で長期保存的視点からは不安箇所が散見される。
3枚目の写真は2階の主室を支える構造部分ですが、
梁には割れが明瞭であり、また継ぎ手部分周囲にはボルト補強などの
長期的には不安な構造補強箇所が見られている。
また、天井板にはあきらかな「雨漏り」痕跡も見られている。
普段は公開されずまた使用されていないことから、
劣化は急速に進行する可能性が高い。
まずはこうした事実を多くのひとに知らせて、世論を作る必要がある。
秋篠宮がほんの5年前に来臨された建物でもあり、
北海道の歴史的地域建築資産であることは明白。
なんとか、よき保存が可能になるように知恵を集める必要がある。

【1085年前の建築大事故 陸奧国分寺七重塔に雷直撃】


平安期仙台の大きな自然災害による公共事業の大崩壊事件。
まぁ、現代で言えば東京スカイツリーがポッキリ折れたようなもの。
承平4年(934年)閏1月15日に、国分寺七重塔が雷火で失われた。
このとき塔頂の銅製飾りが落下し地中深く逆さまに突き立ったことが、
出土した現物によって明らかになったのです。
この当時は「高層建築」はこれだけだったでしょうから、
仙台平野の中心的ランドマークが一瞬で消滅してしまったということ。

わが社の仙台事務所からほど近くに、陸奧国分寺跡があります。
写真下は国分寺の復元模型で、七重塔は右側に建っていた。
最近遺跡整備が進んで旧南大門周辺に朱塗りの復元モニュメントもある。
国分寺の建設はときの権力の最大政策であり、国策そのもの。
その国分寺建築の象徴である七重塔が倒壊、焼失したというのですね。
この陸奧国分寺は陸奧国府が最初仙台市太白区に郡山官衙として開かれた際
それに近接して建てられたけれど、その後国府が多賀城に移転した。
それ自体、律令国家権力と「蝦夷」との緊張の高まりを反映していた。
なので、全国の国分寺には珍しく国府との距離がかなり離れている。
先の東日本大震災によって過去の大地震・大津波記録として
クローズアップされた貞観11年(869年)5月26日の「貞観大地震」でも、
陸奥国では大きな津波被害記録が残されている。
なんですが、それ以上に悲惨なことがそれから65年後に起こったのですね。
・・・この事実は、陸奧国分寺跡見学の時に知っていたのですが、
今回、仙台市博物館でその発掘時の写真が小さいながら展示されていた。
思わず、引き込まれてしまった次第です。
「七重塔檫管の出土状況」と題されていて、以下のような説明。
「檫管は塔の先端を飾る相輪の軸となる部分。現地表下60cmのところから、
真っ逆さまに地中に突き刺さった状態で出土した。
落下のすさまじさを今に伝えている。」という記述です。
っていうか、落雷でこの巨大な造形物は落下してから
1000年以上もそのままで放置されてきたことになる。
その後、陸奧国分寺自体、衰微していたとされるので、
その落雷出火ということが怖ろしげなることとして、禁忌化したのかも。
国府の置かれた多賀城も、貞観大地震で大きな被害も受け、
さらに10世紀半ば、というからこの落雷事件時期に廃絶したとされる。
まさにぴったり国分寺の落雷焼失と時期が重なっている。
その時期は東北地域における実権は平泉の奥州藤原氏に移っているので
この落雷焼失は、まさに歴史的エポックだった可能性が高い。
そのありありとした動乱の光景再現が、この発掘調査結果といえる。
こういった歴史事実についてもっと深く知りたいのだけれど・・・。
という思いがますます強くなってきております。

【3万年前旧石器時代・仙台平野人類痕跡】



きのう「仙台市博物館ではなく伊達氏博物館?」みたいに書いたら、
「そりゃぁあんまりでは」みたいなコメントが。
それもその通りかもとやや反省しております。
ただ、わたしとしては伊達氏がこの地を支配するまでにも、
多くの人類的痕跡があり、非常に興味深いことが多かったのですね。
旧石器時代から、縄文・弥生、古墳時代さらに奥州藤原氏関連など、
尽きない興味が湧いてやまず、その探究に期待したい思いからでした。
で、本日は旧石器の頃の展示からうかがえる歴史。

この仙台平野では海岸線も歴史年代で大きく変遷したようですが、
旧石器の頃は海岸線はいまよりもずっと仙台湾にせり出していた。
広大な平野部が広がっていただろうという。
そして約3万年前頃には、蔵王が噴火しているそうで、
旧石器の遺跡からは、その前後の地層から石器が出土している。
このころのご先祖様たちは、狩猟採集で生計を立てていた。
けっこう広域に獲物を追ってハンティングしていたようです。
山形県特有の石器素材の石が仙台平野で発掘される。
で、この石はいちばんの利用途は投げ矢の先端部だった。
数本の投げ矢を持って、獲物にトドメを刺す用具。
で、こうした石器はまるで袋に入れられたような状況で出土するという。
<一番上の写真のような状況>
たぶん袋は実際に利用され、この先端部は大切に保管されたのでしょう。
寒冷期を経験した人類は、このころには「衣類」は開発していたので、
そういう繊維質利用技術は持っていたに相違ない。
袋自体は炭化して消え去っても石器は「袋に入れられた形」で遺された。
いのちを繋いでいく最大の利器に対して、
それを進化発展させる工夫や保管への細心の注意は当然でしょう。
獲物を得る目的のため、ああでもないこうでもないと工夫した。
ハンターとしての身体的能力はたぶん10代が最高で、
その年代を過ぎて生き延びていた「老人」たちは、
この道具の工夫を続けただろうと推測できる。
2枚目の写真では、そういった道具としての石器の進化が明示されている。
適当な素材の石を発見する能力、
それを用途にあわせて複雑に加工する能力、
人間の身体機能とのバランスを調整する能力、
などなど、実に多様な「道具開発力」が日々、進化していたに違いない。
これら写真を見ていて、そうした想像力が刺激され続ける。
たぶん、アタマのなかでの思惟活動では、現代にまで至る
人類の技術の基本のあらゆることが、想起されていたに違いない。
ということを思い浮かべると先人へのリスペクトが沸き立ってやみません。

【仙台市博物館は「伊達氏」博物館なの?】

ときどきその地の「博物館」を訪れるのは、習慣化しています。
でも、ふと考えると札幌市の博物館は行ったことが記憶にない(笑)。
北海道博物館にはなんども行っているし、その他の文化関連展示も見ている。
ヘンだなぁと、思って調べたら、これはないんですね。
意味不明の「札幌市博物館活動センター」というのがあるそうです。

おっと、話題がそれまくりであります(笑)。
仙台市博物館というのはモダニズム的なデザインも特徴的で
立地的にも駅周辺で宿泊するとちょうどいい散歩路にも当たるので
よく前を通りかかったり、また数回見学もしている。
しかし、どうも展示内容が「伊達家」のことに偏っているといつも感じる。
敷地自体が「仙台城」の域内に存在し、
また、この地を城下町として開いた伊達家からその家宝の類を
寄贈されたということが下敷きにあるのだろうと思われるのですが、
常設展示を見ていると、考古の世界から徐々に歴史年代に移っていって
それぞれに興味深く感じる部分が多いのだけれど、
ある時期からは「伊達家の登場」というような展示になる。
このあたりで、どうしても情緒的な「共有感」が持てなくなってしまう。
たしかに「仙台」という土地は伊達家がその根拠地として
都市開発もした経緯は十分にわかるけれど、
展示を見る側にして見ると、別に伊達家にはゆかりを感じていないし、
むしろ違和感も持っている人間も多いと思う。
わたし自身も札幌の人間であり、市内には「白石区」という
伊達藩領南部からの移住者が集団的に開墾した地域もあるので
親近感は持ってはいるけれど、さりとてその「主君」である伊達家に
たいそうな思いはどうしても持てない。
であるのに、伊達家の家系図の類がこれみよがしに掲げられて、
まるである種「王統」でもあるかのように紹介されているのを見ると
おいおい地域の天皇家かよと、どうしても拒絶感を感じてしまう。
大体、天皇家についてだってそんな家系図には深い興味は持てない。
伊達の殿様たちがどうしたこうした、という雑事に興味を維持するのはムリ。
見るこちら側の拒絶感もそうだけれど、どうも展示側にも
どういう人間がこれをどういう気持ちで見るか、
というような想像力が感じられない「拒絶感」も感じさせられる。

今回も、仙台市内に残る最古級の豪族埋葬地「遠見塚古墳」には
いろいろな意味で強く興味を抱いたのだけれど、
こういったツッコミはほとんど見られない。
たぶん、伊達家がこの地を支配した250年くらいと
ほぼ似たような期間、この地の「開拓者」としてこの古墳に埋葬された
支配豪族についての興味は湧いてくるのですが、
展示外で調べてみても、まったく手掛かりは得られなかった。
地方中心都市博物館というのは難しい立ち位置ではあると思うのですが、
もうちょっと全国民的な視点もあって欲しいと思います。
<写真はなかなか内部を見られない茶室「残月亭」>