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信長はなぜ朝倉と戦ったのか

1760

「一乗谷」という地名は、日本史のなかでも超ポピュラー。
所在地は越前であり、琵琶湖周辺の近江国の浅井氏と連合して
織田信長の天下布武路線と対立して、戦ったことで有名。
では、なぜ信長はこうした勢力と戦ったのかは、
あんまり知られてはいない。
わたしもあんまり知らなかった(笑)。
というか、近視眼的な政治や軍事の出来事だけを見るのでは
時代背景や、その必然性にまでは発想が至らない。

まず、どうして朝倉と浅井は連合していたのか
について、よくわかっていない。
行ってみて始めてわかったのが、越前の海上交通が
京都が都であった時代には経済的な大動脈であったということ。
そしてそこから物資を京都に運び入れるのに
琵琶湖の湖上運送が不可欠であり、
このふたつの地域は、密接な経済的つながりを持っていたということ。
信長の政権というのは、明確に重商主義政権であり、
貿易・交易の利権に対して敏感な政権であったのでしょう。
日本の政権交代のひとつの原動力は、
重商主義と農本主義との相克だったのだろうと思います。
室町政権末期、戦国の時代は
日本各地域の生産力が飛躍的に向上した時代。
そうした生産力が、より大きな市場形成を促し、
それを政治権力として、楽市楽座政策という明確なスローガンで
実現しようと考えた本格的な軍事・政治勢力が信長だったのでしょう。
かれは京都の支配権力を握るに際して
そのもっとも肝要な政治目的として、当時の物流の大動脈であった
越前ー琵琶湖ルートの掌握を考えた。
たぶん、それまでの物流には朝倉や浅井、比叡山という旧勢力が関与し、
いわば金城湯池としてこれら地域に盤踞していた。
行ってみてはじめて、地政的な意味合いが具体的にイメージできた。
越前の一向一揆と戦って勝ち上がった武将として
朝倉家は実力で権力を掌握し、越前の港湾の支配権を握った。
この写真の「一乗谷」朝倉氏城館周辺には、「唐人町」も形成されていた
という国際交易ネットワークが大きく存在した。
そして、南下して琵琶湖の湖上輸送を使って
大消費地の京都に交易物資を運び入れていた。
その途次には、浅井氏があり、琵琶湖の大津のすぐとなりには比叡山がある。
宗教権力としての比叡山は、同時に計数管理に明るい僧侶たちが
日本の交易の実態を担ってきた伝統のままに
交易についての既得権益を持っていて、けっして手放そうとはしなかった。
こうした既得権力・アンシャンレジュームに対して
新興の重商主義国家建設志向権力である信長は正面から挑んでいった。
戦争後、琵琶湖の湖上輸送基地を管理するのに
秀吉や光秀を置き、越前には織田家筆頭の重臣である柴田勝家を据え
さらに琵琶湖を睥睨する位置に安土城を建設したのは
信長の政治経済目的を端的に表している。

越前の軍事都市・一乗谷の廃都を歩いていて
そんな強い実感を持った次第です。
面白かった。

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