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【8−9世紀・奈良平安期 関東豪族居館跡】

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昨日のブログですこし触れた北関東・栃木県の「寺平遺跡」の様子。
石器時代から縄文、古墳時代、さらに奈良平安期、
さらに室町期までの「豪族」の居住施設痕跡が相次いでいる遺跡。

そのなかでもこの遺構は興味をそそられました。
約1200年前の「東国」の豪族居館の全容が見えてくる。
上の写真は発掘された中心建物「大型竪穴住居」。
8本の主柱をもつ10.8m×7.8m(84.24㎡・25坪)の特大住宅で、
ふたつの大型かまどがあったそうで、併用されていた。
ということは、多人数の食事がここでまかなわれていたことが明らかで
須恵器の杯など大量の食器が出土する。
この居館に関わる主人・家族・奉公人などの豪族集団の炊事施設。
その下の写真図は、「大型掘立柱建物」のもので、
主柱に対してその周囲にひさしの柱跡があることから、
威信をあらわす「四面ひさし」を持った建物ということ。
4間×3間の規則的建築で、12坪の平面積の「主屋」。
この遺構の中心施設だったことが推定されている。

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これらの「中心施設」を囲むように、多くの建築跡が密集配置された、
一見すると「都市的集住」形態を見せている。
なかには、酒造施設や食料保存のための「氷室」と推定される
建物跡も発掘されているのだそうです。
全体として1辺が60mの「コの字」型に建物群が配置されている。
このようなコの字型配置は、当時の「官衙」(役所)を模したものとされる。
ちょうど、これからやや時代を下った東北における
安倍氏・清原氏のような、官衙模倣の豪族居館に通じる建築意図。
仏堂とおぼしき建築跡、「支配地」での生産物のための倉庫群、
さらに周辺には奉公人の住んだと想定される竪穴住居群もある。
歴史的には、743年の「墾田永代私財法」の結果、
8−9世紀に出現した関東の富豪層の居館だということ。
ヤマト権力の地方支配施設「官衙」の建築様式を模しているのは、
「支配構造」機能としては、ごく自然なことだと思われます。
当時の経済構造を「支配」すると目的に合致した実質的形式として、
このような建築的態様が、「支配」に適していたと言えるのでしょう。

この10月29日にはこの集住的支配層建築群について
発掘結果に踏まえた発表講演会も予定されているそうです。
考古から「歴史」への中間的な「建築群遺構」という意味が感じられる。
どちらも人間社会がどのように発展してきたかを表しているし、
その間、実質的には継続的な社会構造があったのだと明瞭にわかる。
北海道に住む古建築研究愛好者としては、
まことにうらやましい史的環境があるものと思わされます。
う〜〜む、すごい興味深いですね。

【1794(寛政6)年 下野国・建築工事費】

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関東の建築と遺跡を巡っておりました。
きのうは宇都宮から30kmほどという「市貝」の歴史資料館へ。
なんと、石器時代から縄文、さらに平安初期の豪族居館遺構まで、
興味津々の「古建築」遺構が次々と発掘確認されている。
前から興味を持っていまして、探訪してみた次第。
こちらについては、十分に検証して調査記録をしておきたい。
追って、まとめたいと思っています。
この発表通りとすれば、建築の古代史・中世史のワンダーランドです。
なんですが、さらに面白いことにこの地には
江戸期の「宮大工」が在住していて、その「工事請負記録」があった。
それがまとめられて、1冊の本として刊行されていた。
写真のような形式で書き留められていて、
請負記録の表題は「下野国芳賀郡・諸国普請請合記」とあり、
「千本永野万右衛門」という屋号・名前が記載されている。
内容は、おおむね写真のような内容が綴られている。
寛政6年の建築工事請負記録として、
「長安寺客殿内陣丸柱 下陣通不残柱紅薬
とりかい申候 代金 15両(拾五両)」
「間殿村 地蔵寺本堂7間五間半四方棰木
代金 15両2分(拾五両弐分)」
というような具体的な「取引契約記録」になっている。
今から約220年ほど前の状況が明瞭に記載されているのです。
以降、80両で日光領地での「星宮社」6寸流れ造りが
受注されたりしている。8月から11月末までの4カ月の工期。
う〜〜ん、面白い(笑)。
寛政期の主な出来事を記載すると、
3年には米国商船レディ・ワシントン号が、紀伊大島に来航。
4年には、ロシア使節ラクスマン、伊勢の漂民・大黒屋光太夫を伴い
根室に来航。通商を要求。
といった、幕末の外圧状況のただなかの情勢。
寛政12年には、伊能忠敬、蝦夷地を測量する、とある。
わが家家系では6代前のご先祖さまが活躍され、5代前が生まれた頃。
では物価はどんな状況だったのか?
明治大学の先生のWEBページを覗いたりすると、1両はおおむね5万円。
そうすると、15両というのは約75万円。
80両というのは、400万円という金額に相当する。
材料はどうであったのか、普通に考えれば「施主支給」ないし、
別途調達と考えられるから、この金額が「大工手間」ではないか。
約220年前の建築工事の実相がかなり見えてくる。

どうも時空を超えた「見積り」の検証のようで、
永野万右衛門さんの顔の表情までがまざまざと浮かんでくる(笑)。
ちょっと値切り交渉までしたくなってきた次第であります(笑)。

【古代関東史への想像力】

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北海道にいると、東京にはいろいろ縁があって
また、時間距離も1時間半程度で都心にアクセス出来るので
ほとんど北海道の「となり」にある、みたいな感覚を持つ。
で、東京というところが「関東」の一部であるということを忘れやすい。
一時期、Replanの「関東版」を3回ほど発行した経緯があり、
そのとき関東全域を取材して歩いたので、
自然とその「地誌・風土性」に興味を深く持ち、
自ずと歴史にもまた、惹かれる思いを持ったので、時間と機会があると
歩いてみたくなるのであります。
今回の東北出張の合間の連休、来てみた次第。
そういうなかでも古代史を驚愕させた「稲荷山古墳」出土の「鉄剣銘文」。
この前方後円墳の被葬者ヲワケに対しての
ヤマト王権大王ワカタケルからの下賜品、鉄剣だったと書かれている。

<表側>
「辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝
其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居
其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
<訓読>
辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、
(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、
名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。」
<裏側>
「其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首
奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作
此百練利刀記吾奉事根原也
<訓読>
其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。
世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。
ワカタケル(クヮクカタキル)の大王の寺、シキの宮に在る時、
吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、
吾が奉事の根原を記す也。」

ヤマト王権から、「杖刀人の首」という位を受けていた。
この鉄剣銘文が古代における関東の状況を知らしめる契機になった。
この古墳造営は5世紀、400年代とされている。
この時期は倭の五王の時代に相当し、さかんに中国への朝貢外交が
行われていた時代。東アジアでの地域「王権」確立時期。
北方の蝦夷地では、オホーツク文化人が北方アジアからの南下移民。
この時期、この「さきたま」地域の山手側、上野(上毛野)には
あきらかに地域武権と思われる集団の成立が認められてもいる。
下野(下毛野)への支配構造も認められ、
その後定められた「官道」の配置を見ても、古代関東は利根川氾濫原の
武蔵南部・現在の東京よりも、これら台地上地域にこそ中心が
あったとみなされてきている。
ただ、そうした古代武権は、浅間山火山噴火などの影響で衰退した。
その後の歴史展開の状況と対比させながら、
これらの事象を勘案していくと、かなり独自の武権構造が推定できる。
古代関東史に、歴史ロマンを刺激され続けているのであります。

【JIA東北「芋煮会」 in 山形】

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東北に来るようになって何回か、芋煮会は参加してきました。
北海道ではあんまり取れない「サトイモ」が主役なので、
食習慣がまったくなくて、その独特の食文化に惹かれ続けています。
やはり圧倒的に野趣があるし、うまい(笑)。
河原で石を積み上げてかまどを手作りしての鍋料理。
やはり中心は山形県ですが、東北各県で行われる「地元の味」。
きのうは表題のような会であります。
3連休ですが、札幌に帰還しないこともあって、参加してきました。
でも本場の山形で食べるのははじめてかも。
会場は「日本一の芋煮会」会場の山形市馬見ヶ崎河川敷(双月橋付近)。
この時期には、河原周辺は駐車もOKになるようです。
またなんといっても、ふだんは火気使用での料理などは
自然保護の観点からは許可されないだろうと思うのですが、
そこはやはり芋煮の本場、盛大に堂々とやっています。
こういう雰囲気の豪快さが食欲を一掃高めてくれるのでしょう。

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なんでも、山形では芋煮のためにスーパーなどで、
食材セットを買うと、芋煮用のコンロというか、特製かまどが
無料で貸し出ししてくれるのだそうです。<2枚目の写真>
各県ごとに地元の味を工夫しての出品で、
毎年競っているのだそうですが、ここ数年は山形の圧勝。
ということで、今回は山形は別格にしてそれ以外の各県対抗(笑)。
こういう「鍋料理」には目のないわたしには、それぞれ面白くて
あちこち食べていましたが、やっぱり味噌味の方がやさしい感じ。
わたしも料理好きなので、作っている間も楽しかった。
なんといっても出汁の取り方も各県それぞれだし、
食材の処理の仕方も各県で違いがある。
コンニャクに前もって菜箸でつつきまくってから手でちぎったり、
味付けの「隠し味」など面白さもたっぷりありました。
そのあとの予定もあったので、早めに引き上げざるを得なかったのですが、
まことに後ろ髪引かれる愉しいいっときを過ごさせていただきました。
ありがとうございました。
今度は北海道でも輸入して食文化拡散させたくなった。
でも薪の火力は煙い(笑)。それが河原を渡る風の方向が変わるので
どこにいても目に飛び込んでくるし、
身体中に燻煙臭が直撃してくる(笑)、最高に大好きなんですが、
本日、ホテルにてジャケットは洗濯に出しておきました(笑)。

【畳の原型、寝ワラのいごこち】

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畳って、ほんとうに日本人に似合った床材だと思います。
人類の中でこういう床材は、日本人しか完成させなかったオリジナル。
そのいかにも生物起源的な質感、肌ざわりは、
日本人の精神感受性の相当の部分を形成してきたと思う。
なんですが、どうもその起源については定説がないのでしょうか。

わたしの想像では、上の写真のように土間に寝ワラを敷いて
寝具として使っていたのが、起源のように思われてならない。
先般の古民家の歴史探訪みたいなシリーズで
民家の発展は、竪穴から土壁へと変遷したと思われるのですが、
いずれにせよ、「土間」が基本の床であったことは疑いがない。
石器時代から縄文時代にいたって、定住が開始して、
基本的に竪穴での居住生活が始まった。
そこではもちろん基本は土間だったに違いない。
でもそこでは雨の日など、湿気対策が不可欠だったに違いない。
その周辺環境では、葦とかの植物を乾燥させて使っていたと思う。
で、その後、稲などの栽培が基本ライフスタイルになって
弥生が開始したと同時に、下の写真のように稲ワラが大量生産された。
それを土間に敷き込んで寝具としたことは自然な流れ。
こういった繊維系寝具の時代が基本的に存在し、
そこから主に「湿気対策」が考えられた結果、
徐々に土間から板の間に床が変化していった。
そのときに、板の間での寝具として、稲ワラを造作加工して、
カーペット状のムシロが生まれてきて、
それを寝具として使ったけれど、使わないときは部屋の隅に「たたんだ」。
それが直接の原型になって、徐々に肉厚になって
現在の畳という日本独自の床材になっていったのではないか。

まぁ、あまりにも基本的で普遍的なものなので、
その起源について証し立てるものもないワケなので
これだという説の証明は不可能だと思いますが、
常識的に考えれば、このような発展形態が自然なのではないでしょうか?
寝ワラにくるまれて気持ちよさそうなヤギさんを見ていて
こんな妄想をたくましくしておりました。
出張が長くなるので、こういう「安息」が羨ましくもあった(笑)。

【幕末1817年・岩手北上の武家住宅】

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時代と住宅のイメージ相関、やってみると楽しい。
この家はきちんと「棟札」がある武家住宅で、「文化14年」。
西暦では1817年に相当する建物です。
1811年には、ロシアの軍艦艦長ヴァーシリー・ゴローニンさんが、
国後島で捕らえられる(ゴローニン事件)が発生している。
例の高田屋嘉兵衛さんが、41歳の時に相互人質のようになって
一民間人でありながら日露関係を外交周繕して、平和的関係を構築した。
この高田屋嘉兵衛さんの活発な交易活動などで、
当時、瀬戸内海・尾道港は「北前船」景気で賑わっていたとされます。
幕末の攘夷派イデオローグ・頼山陽は、この時期好景気の尾道に
潜伏活動していて、尾道の有力商家・福岡屋の娘で
有名画家の平田玉蘊さんと愛人関係にあって、
そうしたゴシップが尾道の文化サロンの中心的話題だったとされる(笑)。
わが家の記録では、平戸藩主・松浦静山が記述した「甲子夜話」に
ご先祖さまの広島県・今津陣屋でのことが記述されている。
・・・っていうような時代の雰囲気の中で、
東北伊達藩の北の境界地域では、こんな住宅が建てられていた。

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藩境の伊達藩の代表者のような役割を果たしていた家だそうで、
当主は仙台の伊達家本拠、仙台城に参勤交代のように
行ったり来たりしていたということだそうです。
武家として格式優先の住宅ですが、
インテリア的には、古格な品格が端々に感じられる美しい住宅。
石場建て基礎もしっかりしていて、室内でも「敷居」は高い。
いわゆる「座敷」は清浄な床の間が鎮座して精神性優位の
武家的な空間美が追究されているようです。
1825年、この家が建って7年後には
外国船打払令(異国船打払令、異国船無二念打払令)が定められている。
この家の主である武家の人々は、そういう世情の中で、
北方のロシアに対する蝦夷地警護などで、伊達藩が動員される
そういった政治情勢が、この家の中で語られていたのでしょうか。
その「蝦夷地警護」では厳しい自然条件で、派遣武士の半数以上が
ロシアとの戦いによってではなく、
南方的住居の素寒貧な無断熱劣悪住宅性能によって脚気を発症して
死に至っていたという事態も起こっていた。
日本家屋が劣悪な性能しか持っていないこの象徴的事実は、
国防的な「弱点」として幕府によって情報遮断され、
長く歴史の闇のなかに葬られていた。
たしかに人が蝦夷地で住めないような住宅技術国家では、
国防どころではないし、ロシアに知られたらまずかっただろう。
戦後になってようやくこの事実を知らせる文書を北海道の歴史家が
東京神田の古書店で発掘して事実があきらかになった。
脚気によって死んだ東北各地の武士たちは、まさに無駄死にだった。
住宅と歴史、武家住宅という一連の状況が
こうした見学で、雑感として想起されていました。

【世界宗教・仏教受容 日本史の面白さ】

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ことしはじめて「高野山」に参詣して、一種の邂逅を得ています。
直接、訪れてみたいと思ったのは、わが家の宗旨が
真言宗であることで、父母の菩提を弔うなかで、
もとの居住地の近隣の菩提寺の住職さんといろいろ話すうち、
その開祖である空海さんに興味が深くなったことがあります。
で、その上で司馬遼太郎さんの「空海の風景」を電子書籍で読んで
大いにその事跡と、日本人と仏教、国家形成と仏教について
深い興味、探究心を持たされたことによります。
長編の小説や本というのは年に数作を読むのが紙の書籍では
やっとというのがこれまででしたが、電子書籍の出現はわたしにとって、
「読書革命」をもたらせてくれた。
電子書籍だと、紙の呪縛を離れて、文体自体がさまざまなデバイス間で
繋がりながら、集中的に読書を進めることが出来る。
このことは実に大きいことだと深く認識させられています。
とくに出張などの移動交通手段のなかで過ごす時間が多いと、
この「デバイス間移動読書」というのは、実に魅力的な時間を作ってくれる。
司馬さんの「空海の風景」はやや難解そうで、紙の本も持っていたけれど
どうにも時間配分が考えられずに読破できなかったのです。
こういった電子書籍読書体験の結果、知的好奇心は
大いに拡大してきたと思っています。
おっと、やや余談になってしまった(笑)。
で、高野山を初めとして根来寺や法隆寺なども巡り歩いた。
やはり関西圏を巡り歩けば、否応なく「仏教」という世界宗教が近しい。

仏教という宗教は、世界宗教になったのに、
その誕生の地・インドでは早くに廃れ、その最大の受容先であった、
中国でも繰り返された「仏教弾圧」があり、直近の「王朝」である、
共産党支配のなかで、徹底的にその文化が破壊され、
今日の世界では、ほぼ日本が中心的な位置を占めているとされる。
中国は歴史に一貫して「中華思想」が支配してきた国なので
その専制権力にとって、そのさらに上位概念としての「世界宗教」というのは
生き延びがたかったということなのでしょう。
なんでも自分が優越していると歴史的に言い続けている中華思想には
まったく迷惑させられるのは、これもアジア世界の特徴。
その「中華権力」の盛衰で、周辺国の悩みも増えたり減ったりした。
であるのに、なぜ、同じく「小中華」を志向した日本では
仏教は生き延び続けたのか、そのことが大きなテーマとして
だんだん膨らんできたのであります。

司馬遼太郎さんは産経新聞勤務時代、仏教文化担当者だったそうで、
その知的積層はやはりハンパないものを感じさせてくれる。
日本人の精神史の中でこの世界宗教との関係が
一番基底的な部分を形成してきたことは疑いがない。
このテーマは想像が膨らんで実に楽しい。
でもまぁ、これは「たゆとう」がごとくで、実体は見えがたく、
しかしそういう見えがたさが、また魅力的だと思わされます。

<写真は根来寺と高野山・金剛峯寺にて>

【北海道・東北・東京のエリア感覚】

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きのうから札幌から仙台に移動しております。
会社としては中小零細企業ながら2拠点での活動をしております。
わたし自身は札幌で高校まで育って、
その後大学生活は東京で過ごし、そのまま東京で広告業に就職。
都合、8年間くらいの東京暮らし経験があります。
その後、札幌に左遷含みの「転勤」チャンスを得た(笑)。
まぁ就職時点からこの転勤は計画が明かされていたので、
順調な仕事人生行路ということもできました。
でもまぁ、父親からの「遺言」もあって、数年後お世話になった会社を
退職させていただき、故郷札幌で独立した。
その後、縁あって東北にも拠点を開拓しました。
東北に出店するというのは、かなりの冒険とも言えたのですが、
いろいろな機縁があって、その流れに乗りだしたという感じでしょうか。
そこから十数年が経過してきております。
仙台に拠点を作った当時は、ほとんど仙台が中心的活動エリア。
なんだかんだ言っても結局は人間の顔を見て
気心を知り合って仕事というのは進んでいくモノ。
郷に入らば、郷に従えというようなコトバ通りなのだと思います。
最近は、大体現地にこういった「人間関係」は任せるようにしていますが、
やはり、ときどきはその地の空気感を感じておく必要がある。

そんなことから、わたし的には
札幌、仙台、東京という3箇所での「空気感」を感じている。
とくに住宅のことを仕事領域にしているので、
この3箇所での「住宅についての空気感」には、やはり違いがある。
本拠はやはりそこで育った空気感そのままの札幌で、
季節感とか、住宅についての「常識」もそこが発想起点になる。
で、一方で東京も、かなりの時間が経ったとはいえ、
8年間の「居住経験」があって、そういった空気の感受性もある。
なんていうのでしょうか、肌感覚での受け止め方みたいなもの。
あることがらについての「反応」常識の「地域性」がわかる部分。
いちばんわかりやすいのは寒さとか、雪についてのこととか、
夏の暑さの質感のようなものでしょうか。
東北仙台でもここの部分はかなり分かるのですが、
東北は南北に長く、ほとんど札幌感覚の北東北と、
ほとんど東京を向いている南東北では、大きな差異もある。
南東北で感受する雪というコトバの語感は、やはり東京と親しい。
こういう違いは、その土地に建てるという住宅での感受性では
きわめて大きな部分になると思います。
むしろこのエリア的違いが大きいというのが、東北の特色とも言える。
まぁ札幌と東京という両端の範囲内という意味では
ちょうどぴったり、ハマっているというようにも言えるかも知れません。
自分の感覚をアジャストさせながら、エリア感覚をより高めたいと思います。

【北海道断熱技術認証「BIS」 講習・試験、仙台開催へ】

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さて本日から10日間程度、東北各地に出張いたします。
写真は、縄文時代の北海道と東北の「国宝」であります。
北海道の「中空土偶」と、八戸・是川遺跡の「合掌土偶」です。
わたし的には、このふたつの土偶にはきわめて近似性を感じます。
ひょっとすると制作者は同一人物ではないのかとまで感じる。
その制作ポリシー、姿勢としての強い類縁性が伝わってきます。

北海道と東北の2つのエリアをまたいで仕事しているわけですが、
地政的に北海道はひとつの広域自治体なのに対して
東北は6つの県に分かれているという違いは、当たり前なんですが大きい。
住宅行政についての地域自治体の「施策」に関しても
歴史的に分権である東北では、6つの県でそれぞれ分離している。
北海道では日本の最寒冷地広域自治体として、
住宅政策を独自に持っていて、その部署組織もしっかり確立している。
場合によっては国交省や経産省といった国の行政組織以上の
経験知を持って行政に当たっていて、地域の工務店の
技術力とか実績の把握まで、現場的な現実認識を持っている。
本来は地域として官民が協同して研究し、解決しなければならない問題、
寒冷地としての断熱技術の「公的認証制度」などが、北海道では
「地域認証」として確固としてあるのに、東北地域では存在し得ていない。
行政的なバックアップが可能になっている北海道に対して
東北各県では、対応がそれぞれに分かれざるを得ないので
地場産業である住宅企業に対しての行政支援が決定的に不足する。
結果として、地域に不可欠な製造業・住宅技術の発展が伸び悩む。

両地域にまたがって活動していると基盤的なこうした問題に気付く。
具体的には北海道では、住宅の断熱施工について
「BIS」という技術資格を地域認証として制度化してきています。
北海道では1600〜1700人ほどがこの資格を得て現在活動していますが、
この資格は東北でも強いニーズがあり、これまで300人弱の資格取得者がいた。
ところが、この資格は数年ごとに断熱技術進化に合わせ、
「更新手続き」が義務づけられ、さらに講習受講だけではなく、
「試験」まで実施して、資格制度の実質レベルが保守担保されてきている。
初めは北海道の先進技術を学ぶという強い動機はあるのだけれど、
「更新」には、北海道にわざわざ行かなければ受講できないことから、
2/3以上の方たちが、せっかくの資格を「流して」しまっている。
北海道では行政的支援があっての人数であるのに対して
東北からの応募者はまったく自発的なのに北海道の1/5程度までいた。
今後、住宅性能の「義務化」を間近に控えて、
断熱技術のより広範な拡散、取得は大きな社会的命題でしょう。
またさまざまな国の住宅施策への対応としても、大いに活用可能な資格。
ということで、この資格についての「講習・試験」を
東北・仙台で開催できないか、北海道の関係各機関に働きかけたところ、
たいへん積極的な対応をとっていただくことになりました。
来年早々1月と2月に開催が可能ということでしたので、
多くの東北の住宅技術者のみなさんに、わたし自身やスタッフなどが
ボランティア活動で、ご案内勧誘していきたいと考えています。
ご興味のある方は、わたしまでメッセージをいただければ折り返し対応します。
ぜひ、最寒冷地北海道の住宅断熱技術認証資格BIS、ゲットしてください。

【鍛えられる与条件 北海道の住宅設計現場】

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しばらくは古民家特集を続けてきましたが、
温故知新、昔人が必死に生きた様子がしのばれる探訪が大好きです。
住宅取材という体験ベースを想像力のよすがにした時空を超える取材。
昔人が思っただろうことがまざまざと蘇える瞬間が無性にたのしい。

さて先日、札幌の会社の近くに当社スタッフが新築していたので、
みんなで住宅見学をさせてもらってきました。
設計は大杉 崇さん。<ATELIER O2/アトリエ オオツウ
http://www.geocities.jp/oosugi_02/>
若手として10年前くらいからちょくちょくと取材するようになり
そのたびに、いろいろに進化した住宅設計を見せてもらってきました。
今の若い人らしく、物腰が柔らかく柔軟な対応力を持っていて
そういったいい面が、住宅設計にどんどんと発揮されてきています。
デザインの面ではそういうスタイルですが、
一方で住宅性能面では最近は一貫して「パッシブ換気」を採用している。
建物の断熱性能はおおむねQ値(熱損失計数)で1.3程度が標準。
土間コンクリートをピットにして新鮮外気を導入し、熱源で加温させ
その暖気がゆっくりと室内をあたため、最上階の排気口から排出される。
いわば、室内気候をデザインしてコントロールする「暖房・換気ハイブリッド」。
設計者の経験が積層されればされるほど精度が高まるパッシブな手法。
家中、見える範囲から「暖房放熱器」の類がなくなるのに、同時に
家の中からは「暑い・寒い」という感覚が一掃される環境。
北海道の設計者でも先端的にこのパッシブ手法に取り組んでいる一人。
やはり気候条件の厳しい中での設計者として、
鍛えられる与条件と克服するレベルにおいて他地域とは大きな違いがある。
で、そのような室内気候のデザインといういごこちと、
同時にその手法が産み出す「自由な空間」デザインにも探求的。
一昨年建築した自邸は地域のいろいろな住宅賞も受賞されています。
久しぶりにいろいろな対話が出来て楽しい時間でした。

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まだ建築途中だったので、全体イメージが明瞭にはなっていませんが、
4世代という大家族同居で、合計7人が住まう楽しさが伝わってきた。
子どもさんはまだ小さいこともあって、内部リビング・ダイニングに隣接して
「そとの居間」的なスペースが意匠されていた。
外部の環境や周囲からの視線環境も熟慮されていて
完成後の楽しい家族の日常生活がくっきりと見えてきます。
中でも外でも、戸建ての愉しさを満喫できる仕掛けが感じられる。
手稲山の山裾に広がる住宅地の特性を活かした「視線の抜け」が
さまざまにデザインされていて、暮らしの楽しみが仕掛けられています。
玄関まわりは「見せ場」として面白くデザインされているので、
完成後の様子を見るのが大変楽しみです。
それにしても、一軒一軒の家族の暮らしに丹念に向き合って
暮らし方をデザインするという営為の無上の愉しさがつたわってきます。
日本の戦後社会が実現した、世界的にもきわめてユニークな
「注文戸建て」の家づくりシステムは、やがて大きな歴史的価値を持つ
壮大な「プロジェクトX」なのかも知れないと、そんな思いに駆られていました。
スタッフの家と言うことで、自分自身が25年前に体験した家づくりの愉しさを
再体験させられるようで、ほほえましく見学させてもらいました。
機会があれば、完成後の写真も紹介したいと思っています。