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【1794(寛政6)年 下野国・建築工事費】

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関東の建築と遺跡を巡っておりました。
きのうは宇都宮から30kmほどという「市貝」の歴史資料館へ。
なんと、石器時代から縄文、さらに平安初期の豪族居館遺構まで、
興味津々の「古建築」遺構が次々と発掘確認されている。
前から興味を持っていまして、探訪してみた次第。
こちらについては、十分に検証して調査記録をしておきたい。
追って、まとめたいと思っています。
この発表通りとすれば、建築の古代史・中世史のワンダーランドです。
なんですが、さらに面白いことにこの地には
江戸期の「宮大工」が在住していて、その「工事請負記録」があった。
それがまとめられて、1冊の本として刊行されていた。
写真のような形式で書き留められていて、
請負記録の表題は「下野国芳賀郡・諸国普請請合記」とあり、
「千本永野万右衛門」という屋号・名前が記載されている。
内容は、おおむね写真のような内容が綴られている。
寛政6年の建築工事請負記録として、
「長安寺客殿内陣丸柱 下陣通不残柱紅薬
とりかい申候 代金 15両(拾五両)」
「間殿村 地蔵寺本堂7間五間半四方棰木
代金 15両2分(拾五両弐分)」
というような具体的な「取引契約記録」になっている。
今から約220年ほど前の状況が明瞭に記載されているのです。
以降、80両で日光領地での「星宮社」6寸流れ造りが
受注されたりしている。8月から11月末までの4カ月の工期。
う〜〜ん、面白い(笑)。
寛政期の主な出来事を記載すると、
3年には米国商船レディ・ワシントン号が、紀伊大島に来航。
4年には、ロシア使節ラクスマン、伊勢の漂民・大黒屋光太夫を伴い
根室に来航。通商を要求。
といった、幕末の外圧状況のただなかの情勢。
寛政12年には、伊能忠敬、蝦夷地を測量する、とある。
わが家家系では6代前のご先祖さまが活躍され、5代前が生まれた頃。
では物価はどんな状況だったのか?
明治大学の先生のWEBページを覗いたりすると、1両はおおむね5万円。
そうすると、15両というのは約75万円。
80両というのは、400万円という金額に相当する。
材料はどうであったのか、普通に考えれば「施主支給」ないし、
別途調達と考えられるから、この金額が「大工手間」ではないか。
約220年前の建築工事の実相がかなり見えてくる。

どうも時空を超えた「見積り」の検証のようで、
永野万右衛門さんの顔の表情までがまざまざと浮かんでくる(笑)。
ちょっと値切り交渉までしたくなってきた次第であります(笑)。

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