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【古代関東史への想像力】

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北海道にいると、東京にはいろいろ縁があって
また、時間距離も1時間半程度で都心にアクセス出来るので
ほとんど北海道の「となり」にある、みたいな感覚を持つ。
で、東京というところが「関東」の一部であるということを忘れやすい。
一時期、Replanの「関東版」を3回ほど発行した経緯があり、
そのとき関東全域を取材して歩いたので、
自然とその「地誌・風土性」に興味を深く持ち、
自ずと歴史にもまた、惹かれる思いを持ったので、時間と機会があると
歩いてみたくなるのであります。
今回の東北出張の合間の連休、来てみた次第。
そういうなかでも古代史を驚愕させた「稲荷山古墳」出土の「鉄剣銘文」。
この前方後円墳の被葬者ヲワケに対しての
ヤマト王権大王ワカタケルからの下賜品、鉄剣だったと書かれている。

<表側>
「辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝
其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居
其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
<訓読>
辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、
(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、
名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。」
<裏側>
「其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首
奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作
此百練利刀記吾奉事根原也
<訓読>
其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。
世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。
ワカタケル(クヮクカタキル)の大王の寺、シキの宮に在る時、
吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、
吾が奉事の根原を記す也。」

ヤマト王権から、「杖刀人の首」という位を受けていた。
この鉄剣銘文が古代における関東の状況を知らしめる契機になった。
この古墳造営は5世紀、400年代とされている。
この時期は倭の五王の時代に相当し、さかんに中国への朝貢外交が
行われていた時代。東アジアでの地域「王権」確立時期。
北方の蝦夷地では、オホーツク文化人が北方アジアからの南下移民。
この時期、この「さきたま」地域の山手側、上野(上毛野)には
あきらかに地域武権と思われる集団の成立が認められてもいる。
下野(下毛野)への支配構造も認められ、
その後定められた「官道」の配置を見ても、古代関東は利根川氾濫原の
武蔵南部・現在の東京よりも、これら台地上地域にこそ中心が
あったとみなされてきている。
ただ、そうした古代武権は、浅間山火山噴火などの影響で衰退した。
その後の歴史展開の状況と対比させながら、
これらの事象を勘案していくと、かなり独自の武権構造が推定できる。
古代関東史に、歴史ロマンを刺激され続けているのであります。

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