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【幕末1817年・岩手北上の武家住宅】

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時代と住宅のイメージ相関、やってみると楽しい。
この家はきちんと「棟札」がある武家住宅で、「文化14年」。
西暦では1817年に相当する建物です。
1811年には、ロシアの軍艦艦長ヴァーシリー・ゴローニンさんが、
国後島で捕らえられる(ゴローニン事件)が発生している。
例の高田屋嘉兵衛さんが、41歳の時に相互人質のようになって
一民間人でありながら日露関係を外交周繕して、平和的関係を構築した。
この高田屋嘉兵衛さんの活発な交易活動などで、
当時、瀬戸内海・尾道港は「北前船」景気で賑わっていたとされます。
幕末の攘夷派イデオローグ・頼山陽は、この時期好景気の尾道に
潜伏活動していて、尾道の有力商家・福岡屋の娘で
有名画家の平田玉蘊さんと愛人関係にあって、
そうしたゴシップが尾道の文化サロンの中心的話題だったとされる(笑)。
わが家の記録では、平戸藩主・松浦静山が記述した「甲子夜話」に
ご先祖さまの広島県・今津陣屋でのことが記述されている。
・・・っていうような時代の雰囲気の中で、
東北伊達藩の北の境界地域では、こんな住宅が建てられていた。

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藩境の伊達藩の代表者のような役割を果たしていた家だそうで、
当主は仙台の伊達家本拠、仙台城に参勤交代のように
行ったり来たりしていたということだそうです。
武家として格式優先の住宅ですが、
インテリア的には、古格な品格が端々に感じられる美しい住宅。
石場建て基礎もしっかりしていて、室内でも「敷居」は高い。
いわゆる「座敷」は清浄な床の間が鎮座して精神性優位の
武家的な空間美が追究されているようです。
1825年、この家が建って7年後には
外国船打払令(異国船打払令、異国船無二念打払令)が定められている。
この家の主である武家の人々は、そういう世情の中で、
北方のロシアに対する蝦夷地警護などで、伊達藩が動員される
そういった政治情勢が、この家の中で語られていたのでしょうか。
その「蝦夷地警護」では厳しい自然条件で、派遣武士の半数以上が
ロシアとの戦いによってではなく、
南方的住居の素寒貧な無断熱劣悪住宅性能によって脚気を発症して
死に至っていたという事態も起こっていた。
日本家屋が劣悪な性能しか持っていないこの象徴的事実は、
国防的な「弱点」として幕府によって情報遮断され、
長く歴史の闇のなかに葬られていた。
たしかに人が蝦夷地で住めないような住宅技術国家では、
国防どころではないし、ロシアに知られたらまずかっただろう。
戦後になってようやくこの事実を知らせる文書を北海道の歴史家が
東京神田の古書店で発掘して事実があきらかになった。
脚気によって死んだ東北各地の武士たちは、まさに無駄死にだった。
住宅と歴史、武家住宅という一連の状況が
こうした見学で、雑感として想起されていました。

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