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人間の表現・創作活動って

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よくワイセツが論議になる局面で、
芸術とワイセツのキワ、みたいなことが話題になって、
●●はワイセツだけれど、●●は芸術だ、というような仕分け方を裁判官は
しなければならない局面に出くわす。
そういった度に、判断を迫られるひとは大変だなぁと思わされます。
人間社会なので、そういう判断をすべきときも場合もあるので、
なるべく常識的で、一般社会の安寧が維持されるような判断を下さねばならない。
そもそも万人が納得できる解があるとは思えない。
なんだけれども、ワイセツは別の人に論議は譲って(笑)
じゃぁ、芸術とそれ以外の「表現」「創作」って、
それを仕分けるものなんて、あるのだろうか?
っていうのが、年来のわたしの深い疑問であります。
で、芸術がより高位の存在で、道具的に作られたものは、より低位なのか?
そういった仕分けって、おかしくないか?っていう次第。
この疑問、ずっと持ち続けていて、
やはりただ単に、「多くのひとがそう思っている」ということにしか、
その人数の多寡にしか、仕分けの基準はないと思わざるをえないのです。
で、もっと言えば、「多くの人」は、「人が言っているから」そう思っているに過ぎない。

写真は東京国立博物館に置かれている遮光土偶。
これなんか、典型的で、
創作された縄文の当時は、いまのわれわれとは違う価値観の中で、
止むにやまれぬ制作動機があって創られ、そして偶然の果てしない結果、
現代世界によって「発掘」されて、
「作者不詳」のままに、また、どういう表現であるかもナゾのままに
「国宝」になっている。
考古学的な知見をお借りすると
どうもひとの誕生に対する「祈り」が外化されたものと言われ、
人間が最大の資産であり、生産の最大要因であった縄文に於いての
社会的動機をあらわしているというように言われている。
しかし、こうした土偶制作は、
たぶん社会の中で独特の職掌として認定された制作者がいたのだろうけれど、
その当時の社会構成から言えば、
とくに「優れた」人物かどうか、定かではないし、
その社会の中で「抜きんでた」存在であるという保証もない。
しかし、出来上がって現代に蘇ったこの土偶は、
どんな「芸術的創造物」をも超えた力強いメッセージを
わたしたちのこころに直接訴求してくる。

ことしの「芸術祭」に「あまちゃん」がノミネートするそうです。
芸術祭の審査委員というのが、どんなひとかによって
価値観は大きく違うので、どうなるかは不明だけれど
少なくとも社会へのインパクトは巨大であったと思うので、
芸術として賞を得るのもいいのではないか、と思います。
わたし自身も、ある賞に於いて「審査員」というのをやったことがありますが、
結局、その審査員の価値観によって大きく結果は違う。
しかし「多くの人」は、その結果だけで、ものの良し悪しを判断する。
まことに難しいと思いますね。

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