本文へジャンプ

司馬遼太郎「播磨灘物語」あとがき

1699

読書というのは、読む度にいろいろな発見がある。
司馬さんの最高傑作は何かというといろいろあると思うけれど、
播磨灘物語は、司馬さんの歴史を見る目がよくわかる作品だと思います。

で、久しぶりにたっぷりしたGW休暇時間の中で、
「あとがき〜文庫版のために〜」を読み返した次第です。
ここで、司馬さんとわが家系との接点が見いだせているのです。
とはいっても、血筋としての直接のわが家系というのは、
江戸中期にこの家に「入家」している存在なので、
まぁ、法人としての「家」伝承と言うことになります。
養子縁組という制度が人間社会の迂回装置として機能してきたことの例証です。
で、そのわが「家」系伝承では、戦国期に黒田官兵衛と秀吉の織田軍によって
播州西部・英賀で敗北しています。
なんと、宇野氏という司馬さんのご先祖もこの同じ城で戦っていたそうなのです。
現世的には主従関係と言うことになるでしょうが、
この城は、一向宗の拠点になっていた城で
たぶん現世の城主よりも未来永劫の弥陀の本願への
帰依を優先させた政治闘争方針で
信仰のがんじがらめの教条によっていわば政治的な透徹性がなく、
簡単に勢力が瓦解させられたようなのです。
ただ、こうした経緯について歴史文学者・歴史家としての司馬遼太郎は
現地調査もして、大きな文学的着想を得て
しかしそれから長い時間を経て書き上げた播磨灘物語では、
ほとんど残滓も残らないかたちで記述からは消え失せている。
で、このことで英賀城を先祖伝承として持っているだろう読者から、
自分の先祖のことが消え失せていると抗議されたそうなのです。
その経緯について、「あとがき」で
まるで「化学反応の場合、化合が成立したときに触媒が消えてしまうように」
消え去ってしまったと語っています。

こういった、残っていく作品の「あとがき」において、
どうも自分に関係すると推測できるやりとりの痕跡を発見するのは
キモの冷えるような思い。
それも司馬さんの文章には珍しく、投稿に対して怒気を含んでいる。
投稿者は、よほどの書きようをしたに違いないと思う次第。
司馬さんは、英賀城のことを書くことが気恥ずかしくなって
この作品から記述が消えてしまったと書いている。
私小説的な性向が自分にはまったくないのだという自己分析が書き添えられている。
そして「他意はない」とも書かれていた。
しかし、歴史文学者としての方法論などは非常に明瞭になっていて
司馬文学の骨格的な部分がよくわかった次第です。
人間社会での経験を経てきて、思いがけず発見できた機微だと思っています。
そういう意味で、たいへん味わいが深くなった次第。

コメントを投稿

「※誹謗中傷や、悪意のある書き込み、営利目的などのコメントを防ぐために、投稿された全てのコメントは一時的に保留されますのでご了承ください。」

You must be logged in to post a comment.