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読書とひとの「知」

1705

連休最後の昨日は、わが家の大掃除をしておりました。
中学校、高校のときの坊主が残した大量の紙類整理をしました。
それでわかることって、やはり多いものだと思わされます。
自分の大学入学時、母親が、あわただしく東京に向かったわたしの残した
多くの本や、文書類を整理してくれたことを思い起こしました。
個人的な記録や、交友のさまざまな記録を丹念に整理整頓してくれていた。
高校卒業時だから、その当時はそう多くの本を持っていたわけではないけれど、
まぁそれなりに、数十冊は本を持っていたと記憶している。
そういう本類は、大切に持って行った。
そのころは、なにを読むかが、「どんな人間になるか」ということと
ほとんど同義と思っていたように、いま、思う次第。
そしていま、坊主たちは本と言うよりも
インターネットの時代にネイティブで生きている。
新聞が、すでに若い世代でまったく購読されていないけれど、
本も、急速にひとの精神生活への影響力を落としてきている。
ことし、東大卒の学生がひとりも朝日新聞に入社しなかったそうで、
急速に知の世界でのアナログのパワーが落ちている現実がある。
それよりもSNSであったり、ソーシャルゲームであったり、
インターネットが、かれら世代の「現在」を表徴している。
東大の学生たちの進路先にそういった企業群が多く、名を連ねている。
そのように変化していくのは不可逆だろうけれど、
違うかたちの知性は、どのように形作られていくのだろうか?
そこのところがよくわからないし、見えなくなっている。

ただ、わたしの読書傾向で見ていても
いわゆる出版のメインカレントとはまったく無縁な
考古や、より興味傾向が狭まった
ロングテール的な歴史領域を扱った書物が増えてきた。
さらに博物館や歴史資料館の図録の類がやたら増えてきている。
従来、こうした著作物はあまり一般性を持っていなかったように思うけれど、
知の新たな領域として、あるジャンルを形成してきているのではないかと
そんなふうに思われます。
こういった傾向は、現代の知の領域が
インターネットの大きな影響を受けてきた結果とも思える。
いわば「入門」的な部分はインターネットで済む部分で
そうではない、イベントのような
「わざわざそこに行かないと得ることの出来ない情報」
のようなものに、希少価値が移ってきている気がする。

そんなふうに考えると、
わたしたちの時代にも、そういった部分は大きかった気がしてくる。
わたしは高校時代、学生運動の影響を受けたけれど、
そしてそのような著作物が出発点のように所有していたけれど、
それはある意味で、ニッチでロングテールな最先端を
求めていたのだとも思える。
いま、こどもたちはそんな時代に生きていて
本を買うとすれば、
ニッチでロングテールな最先端を求めているのではないか。
でも現状では、そういった書物はアナログの生産流通システムでは
生み出しようが、きわめて難しくなっている。
こんなような部分に対する解決策が、次代の知の生成物には
求められてきているように思う。
えらい、難しそうだけれど・・・。

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