
政府は、「骨太の方針」的な諮問会議で
人口問題と日本の成長可能性について相当に突っ込んだ論議をしたようだ。
その内容の一端が、たとえば
人口減少していくと若い女性の数が極端に少なくなって
消滅危機に瀕する自治体の数が急増する。
東京でも豊島区が、なんていうアナウンスが流れたりした。
まぁだれが政権を担っていても、この問題が最重要テーマであることは
明らかだから、当然だけれど、
いまの安倍政権は必要ポイントには対応しているといえる。
ただただ目先のポピュリズムで大騒ぎしていた民主党政権とは
視座において、まったく違い続けている。
いま世界で「高齢化社会」をいちばん最初に迎えているのは
日本社会なので、われわれは世界の最先端で問題に向き合っている。
この問題と社会の発展とを、どのように調和させられるかどうか、は
人類社会の発展にとって、きわめて重要だと思う。
この局面で、国家運営として、経済社会として、
きちんとした対応ができるのかどうか、
世界全体が固唾をのんで注目せざるを得ない。
人口が減少していくことは必然であり、データが示すようになるのだろう。
資本主義的な社会変化に対応して、
人口が減少するように人類のDNAはセットされていたのだと思う。
出産・子育てという、お金に換算できない営為は
すべてをお金とコストパフォーマンスに置き換えて判断する
資本主義社会では、むしろ「損になる」とDNAは命じているのだと思う。
だから、先進国では一様に少子化が進展しているのだろう。
しかし一方で、資本主義は人類に巨大な豊かさや便利さを産んだ。
発展するという方向で未来を見通して
次の時代を構想すれば、こうした少子化などの、
マイナスなことがらは否定されるのではなく「止揚」されるのだろう。
だから、わたしたちの主要なテーマは表題のように
「人口減少でも豊かな社会は可能か?」ということになるべきだ。
考えてみれば、先進国・ヨーロッパ諸国はおしなべて
人口減少に遭遇し、アメリカもいわゆるアングロサクソンでみれば人口減少。
アジアでも韓国の人口減少の急角度ぶりは日本をはるかに凌駕する。
ひとりっ子政策をとってきた中国も事情は同じ。
そのように考えれば、これら国家社会がすべて衰退し滅亡すると考える方がおかしい。
そうならないための人類的な知恵を、
わたしたち、日本人は最初に考える機会に遭遇していると
真っ正面から取り組んでいくべきなのだ。
こういった国家レベルでの論議の内容が
徐々に詳らかになり、それを咀嚼した官僚機構・大学研究機関からの
対応策、方針に注目していきたいし、
また、わたしたちレベルでも、大いに知恵を絞っていきたいと思う次第。
Posted on 6月 3rd, 2014 by 三木 奎吾
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表題のようなことを最近、深く感じるようになった。
どうも日本型社会が、人口減少問題に直面してから以降、
社会の次のありようを明確に描けていないように思う。
資本主義的な社会発展という人間社会の現状の大きな枠から
それを超えるような枠組みの胎動がまだ見えていない。
そういうなかで、「次の時代像」というものの出口が見えてきていない。
人口の問題は、そのようになっていくことは明確なんだろうけれど、
人口減少というのは、人間社会が現状の社会構造に対して
ふつうに反応、対応した結果だろうから、
むやみに改変したりはできないことがらのように思う。
人間も労働力も減少して、しかもこの社会が発展するような
そういった方向は、いったいどこにあるのか。
明治維新のときには、若者たちがカンタンに動かせたほどに権力機構は
ほころびきっていて、武士階級という小さな世界を
大騒ぎして揺り動かせば良かったのだろうけれど、
現代世界では、そういう社会変革はなにを変えれば良いのかが
明瞭になっていない。
あの時代には、欧米列強という黒船が明確な姿をとって立ち現れて
それを見てキャッチアップするなりすれば済んだ。
結局は、資本主義発展が世界的に進行するなかで、
それを受け入れていけば良かったのだから、
まぁ、いまになってみれば話は明確だ。
それに対して、現代は、なにが革新されなければならないか、
必ずしも明瞭にはなっていない。
資本主義発展の向かうべき方向に未来があるとすれば、
それは「市場の形成」というようなことを見通せば、とはなるけれど、
国家という存在は、どうなっていくのか、ということと合わせて考えれば
やはり未来の形は見通しがたい。
たぶん、そんな状況の中にわたしたちのいまの社会全体はある。
そういう不可視のなか、
少しでも未来を予測して、なにごとかに向かっていかねばならない。
要は、資本主義がどうなっていくか、ということなのだと思う。
資本主義もやはり歴史的なものとして、
止揚されていく存在であるのか、
現代国家という概念もまた歴史的な存在であり、
この両者が、どのような未来になっていくのか、
減少した人口社会で、こういった未来での存続可能性対応が可能かどうか、
わたしの主要領域である住宅では、どのような変化が
起こり得るのか、
まことにむずかしい時代を、生き延びていかねばならない。
どうもそんな回答の出ない
無明を歩かなければならないと思わされております。
<写真は港湾施設の乏しかった時代の北前船交易の荷揚げ風景>
Posted on 6月 2nd, 2014 by 三木 奎吾
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日常ふとしたことで、目が点になるような瞬間がある。
きのう、朝日のまぶしさのなかでオレンジ系のくだものを食べていて
柑橘類らしい美しさにふと目が行って
なつかしい美にこころが満たされるような気分になった。
よく「はじめて何々を食べたときの感動」と言いますが、
それよりももっと始原的なことで、
はじめて柑橘類を目にしたときの新鮮な驚きのようなことに気付いた。
そうです、柑橘類はなによりもまず、美しい。
写真は、朝日を果肉が裏側から照らし出して
背景光、バックライト状態でみた感じなのですが、
自分のなかの柑橘類の視覚的イメージの根源に近いように思った。
人類ではじめて柑橘系に触れた人間は、さぞかし、感動したことでしょうね。
いや、柑橘類は太古のアフリカの大地で
人間として枝分かれする以前から、類人猿のさらにもっと前の時代から
わたしたち生物は、食し続けていたに違いない。
そういったDNAに完全に刷り込まれた生物的感情っていうものがあるに相違ない。
アースカラーに彩られた世界で
こういった柑橘類の色彩はまことにあでやかそのもの。
それと甘味・酸味が伴って、
動物たちの官能を刺激し続けてきたに相違ない。
写真のような薄皮のついた状態から、
徐々に皮をきれい剥いでいくプロセスで
さらになまめかしいオレンジ色の色彩が強まっていくとき、
われわれのイキモノの祖先たちは、さぞかし胸震えるような
感受性のさざ波を感じていた。
どうもこうした種類の感動に目覚めてきたように思います(笑)。
たぶん、永平寺の食についての考え方を学んだ機会以来、
根源的な、食べる、ということの意味合いに
考えが及ぶようになったからなのでしょう。
「いのちをいただく」という考え方に
深くいやされるような思いがして、
それ以来、ごく日常的なこと、ごく自然なことに
よろこびはあまねく存在していると気付かされたように思うのです。
そういった心持ちを持てば、食材がもつさまざまな魅力に気付いてくる。
柑橘類がもっているこの魅力を、
すべて味わう、というように思えるようになって来た。
そういった意味で、禅の考えを学ぶと、広がりが得られるのでしょうね。
まことに現世利益的で恥ずかしいのですが、
くいしんぼうの自分にしてみると
食がそのまま修行であるという考え方は
まっすぐに受け入れられる思想だと感じております。
しみじみと、この柑橘類の美しさに
打たれていた次第です。
Posted on 6月 1st, 2014 by 三木 奎吾
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ここんところ、あちこち出張が続いて
ややお疲れモードにつき、さらに遠出してみようと(笑)
オホーツクに向けて早朝に出発いたしました。
気の向くまま、中高年夫婦ふたりの気まま旅であります。
「そういえば、この時期といえば芝エビだよな」
「え、それは違う、北海シマエビでしょ」
「なんかちがうなぁ・・・、そだ、シバザクラだよ、滝ノ上!」
ということで、まったく計画性のかけらもないノリです(笑)。
しかし、中高年、朝はとにかく強い。
4時に出発予定でしたが、なにゃかや、やっているウチに4時半を過ぎた。
朝早くても、北海道の夏は日が早い。
もうクルマの往来が激しい。
とはいっても、高速に乗って一路、オホーツク海側まで。
目的地の滝ノ上のシバザクラ公園のオープンは7時ということで
到着は、7時半前。
今週が満開、ということでしたが、やや終わりの印象。
でも何回か来たなかでは、一番の豊作に近い咲きっぷり。
シバザクラは比較的、全国と咲く時期が似ているのでしょうか。
本州でもつい最近、見ていた記憶があります。
ということで、気ままにその後もあちこち。
その後、オホーツク紋別の流氷の下を見ることができる
オホーツクタワーで、かわいいクリオネのダンスを飽きずに鑑賞。
まったくかわいいのですが、映像ではそのかわいいクリオネが
他の微小生物を補食する様を見ることもできます。
イキモノの世界、どんな小さい世界にも
弱肉強食の掟が厳然とある。
いい学習であります。
で、その後、そのタワーで見た観光案内で
上藻別駅逓という施設を発見。
カンが働いて、行ってみた次第であります。
駅逓というのは、北海道開拓の時代に、各地700箇所と言われるそうですが、
国家の通信・交通・宿泊施設の役割を担ったもの。
公共施設として建てられたもので、まぁ郵便局と似たようなものだった。
・・・、で、ものすごく勉強になった見学でしたが、
それはまた、後日書きます。
で、シバザクラと並び称される上湧別のチューリップ群生を見学。
こちらも盛りはやや過ぎておりましたが、
それでも迫力のある大群生であります。
さてさて、のんびり無計画な旅、どうなっていくかなぁ??
Posted on 5月 31st, 2014 by 三木 奎吾
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最近、日本の住宅建築進化の中で
北海道が発祥になった「高断熱高気密」という建築「様式」は
どのように位置づけられていくべきなのか、考えるようになって来ました。
先日、東京で「伝統木造」ノスタルジー派とでもいえるみなさんと接してみて
その驚くほどの保守教条主義に遭遇した次第。
「吉田兼好以来・・・」という言葉が飛び交ったりして
思わず現代であることを忘れてしまうような時間を過ごしておりました。
その空間性には大いに刺激されることが多い
日本の伝統的木造住宅ですが、さりとて、現代住宅性能技術が蓄積してきている
空間の質感について
それを否定してかかる必要がどこにあるのだろうかと不思議です。
否定したいがタメに、ありもしない偶像的対象物を措定して
それがとんでもない、こういう考え方だからダメなんだと
いきり立ち、終いには施主の立場からと称して
人権的な論議を持ち出して、保守伝統の世界を守り抜くんだ、と決意表明している。
なにやら、全学連、全共闘的な雰囲気に思わず、引きずり込まれそうになっていた(笑)。
そういえば、「よし!」「ナンセンス!」っていうような掛け声が出る寸前だった。
その「つるし上げ」的な雰囲気の中で、権力側の立場的に対応しているのが
わたしたちの立場に近い高断熱高気密住宅の側の人間。
思えば遠くへ来たものだ、というような感慨に打たれていました(笑)。
というのは、10代の頃にはこういう「反対派」の側に学生運動として
自分自身がいた記憶が甦ってくるからなのですね。
でも、まぁ冷静に考えてくださいっていうところ。
高断熱高気密っていう考え方は、なによりも人間のよき居住環境を作るための
そのための技術として、進歩進化の結果、
わたしたち社会が獲得しつつあるものなのです。
人間社会が作りだしてきた住宅はいろいろにあったけれど、
それらはさまざまに進歩発展してきて現在の地平がある。
竪穴住居も、洞窟住居もあったけれど、
それらの良さももちろんあったけれど、
やはり住みにくかったり、健康問題が起こったりして
止揚されてきているのです。
その後の、貴族のための寝殿造りや、権力者たちの書院造り、
などは、むしろ、財力や権力などという「文化」を表してきたものという
側面が非常に強い。
庶民を睥睨するような、そのために格差を表現する「ための」住居だった方の要素が強い。
さらに庶民の町家住宅や農家の古民家群などもさまざまな「政治的規制」によって
今日まで受け継がれてきたもの。
歴史的なこういった経緯を踏まえて、現代の住宅建築はあり、
そのなかで人間の体内リズムに感応するようなここちよさの実現を目指して
高断熱高気密住宅が生まれてきたのだといえるでしょう。
社会規制とは別の素因から生まれてきた
人間発想の住宅技術なのだと思う次第です。
同じような考え方をして、こういう時代に冬にもここちよさを失わずに
しかも伝統的なデザインを維持する方法はなんなのかと
そういった技術研究に向かうのが正論であるべきだと考えます。
Posted on 5月 30th, 2014 by 三木 奎吾
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前半と後半に山があって、最後にも急遽の予定も入った今回の出張。
途中、進行中の案件の管理もあったのですが、
ようやく昨日夜、帰還することが出来ました。ふ〜〜、やれやれ。
久しぶりにわが家に戻って、日常のなかで過ごせる幸せを再確認。
まぁ、わたしの場合、仙台への出張は
ほとんどセカンドハウス的な感覚で、
街中を歩くのも、札幌よりもずっと頻度が高い。
たまに札幌の街を歩くと、まったく知らない自分にびっくりもする。
札幌の街って、ほとんどビルなどの建設工事が少ないです。
仙台でゼネコン関係の方にお話しを聞く機会がありましたが、
札幌市長さんの、よく言えば「環境未来都市」的な志向があって
たとえば容積率などで他の都市と比べて、低く抑えられていて、結果
「投資回転率」が極端に悪くなっている。
人手不足の顕著になってきたこの時代性もあって
ビル建設などの投資が、ほとんどなくなってきているのだとか。
仙台は震災復興もあって活発なので、その違いに驚く次第で、
仕事のない北海道から建設関係の人材が流入しているそうです。
また、その仙台にしても、
建築工事の単価が急上昇していて
さらにもっと建設需要の見込まれるオリンピックを控えた東京に
どんどん投資活動が集中されてきているとのこと。
日本各地を歩いていると、こういった違いが顕著に見えます。
東北のみなさんに、札幌市長さんが断固宣言した
「震災がれき」受け入れ拒否のことを
お話ししたら、みな一様に憤りを語られます。
一市民として、いまは謝罪するしかない。でも、
ほんとうに札幌市民として恥ずかしい。
一方で、それほどの準備もなく飛びついたドイツパッシブハウスの導入では、
その検証作業自体の欠如が言われてもいる。
どうもポピュラリズムの負の側面がかなり露わになってきている。
とくに震災がれき受け入れ反対という行政長としての判断については
被災地のみなさんへどのように対応すべきか、
息の長い活動、真意の説明が不可欠だと思っています。
すくなくとも一市民であるわたしは、東北のみなさんに対するとき
とても説明できないし、謝罪するしかない。
震災がれきについては原発事故のあった福島島だけではなく
岩手・宮城を含めて拒否されたのです。
このことについて、東北の人たちに筋の通ったお話しを
いま、かれはできるのでしょうか?
震災以降、このような「自分(の地域)さえ良ければそれでいい」という意見と
多少困難はあるけれど、やらねばならないことをするという意見の
ふたつの方向に日本人は別れてきたような気がする。
たぶん、あの震災がれき受け入れ拒否については
うやむやに、触れられないようにこっそりと
なかったことにしてしまいたい、ときっと考えているに違いないと思いますが、
でも、札幌の人間として、わたしは
そのことについて東北のみなさんに
一市民として謝罪し続けなければならないと考えている次第です。
<写真は無関係。昔ながらの自然塩製造の釜>
Posted on 5月 29th, 2014 by 三木 奎吾
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きのうは、仙台市で表題のイベントに参加。
案内を受けてから、本人はとっくに参加申込みをしているつもりが
またまた、申込みをしていないことが窓口に来て判明。
ふたたび大失敗であります(汗)。
どうにも最近、歳のせいでこういう失敗が目立つ。
なんなんでしょうね、やはり記憶力が少しずつ衰えてきているのかなぁ。
やや心配なんですが、まぁおかげさまで優しく対応していただけました。
総会は、年度の決算・予算承認事項などを経て
記念講演として、東京都市大学教授の岩村和夫先生の講演。
先生は、ドイツに留学されて彼の地の建築思想に触れられ、
そのまま現地で結婚され、設計事務所も開設し
なんと住宅も建てられて、現在も使われているのだとか。
そういった経験から、いわゆる「環境建築」についての
深い知見を持たれています。
国の制度設計や、国策にも関与されています。
講演では、ヨーロッパの建築と人権の歴史をタテ糸にして
建築のあるべき思想性を語られていました。
まことにすばらしい卓見と、拝聴させていただきました。
ただ、先生はちょうど運悪く鎖骨を骨折されていて
痛々しいお姿で、残念ながら懇親会ではお話を伺えませんでした。
まことに残念でした。
日本の寒冷地住宅についても、その向かうべき方向性について
たいへん多くの示唆に富んだ達識をお持ちです。
また機会があれば、ぜひご意見を伺いたいと思いました。
写真は先生の講演の様子から、であります。
その後は会員同士の意見交換会、懇親会と引き続き、
活発な交流をさせていただきました。
さまざまな立場のみなさんと、いっぺんにお会いできる機会は
たいへん貴重だと思います。
結局は人間が最大の「資産」であることは社会の基本。
人が持っている情報が、多くの情報とめぐり会うことで
さらに有益な情報へと進化していくものだと痛感いたします。
さて、出張も長くなっていまして、
本日札幌に帰還する予定なのですが、
ところが、急遽靑森にも所用が出来て、飛行機から
列車での移動に変更。
朝早くの新幹線に飛び乗って、靑森でひと仕事したあと、
そこから汽車で、札幌に帰る予定。
もうひとふんばり、がんばりたいと思います。
Posted on 5月 28th, 2014 by 三木 奎吾
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住宅の取材をずっとやってきていて
はじめは、個性主張型の現代的な住宅に強く興味を持った。
住宅を持つと言うことは、現代において「個人の自由を実現する」
もっとも普遍的に可能なことがらであることは明らか。
そのかたちをできるだけ克明にあきらかにして、
ひとつの「表現領域」を構成したいと考えた。
そういった可能性への探求は、住宅雑誌のなかで建築家の仕事を
積極的に取材して、そのエッセンスを掘り起こすことに繋がった。
家を建てる個人が、さまざまなプロセス、
主に設計者と対話しながら、どんなすまいを実現するに至ったか、
その一連の過程に強く興味を抱いたのですね。
このことは、基本的なスタンスとして持っています。
しかし、取材を進めていくウチに、
「なにげない」背景として成立している住宅群にも
強く喚起されるようになってきた。
北海道・東北の住宅を取材し続けてきて
自分自身が、根がらみニッポン人であることに気付いてきて
そのことの住宅表現を確認したくなってきた、ということでしょうか。
仕事の出張などの機会をとらえて、
日本各地の民家の取材探訪・探求を続けています。
それは主に歴史的古民家がベースだけれど、
現代の暮らしを包み込んでいる住宅のありよう全般に及んでくる。
写真は、里山の農家景観であります。
里山というのは、基本的な生産手段である田畑を平面の土地に造作し、
山裾に住宅の立地を求めるというスタイル全般を言うようです。
言葉自体、近代になって成立したようです。
しかし、この人間居住形態には、
歴史的な日本人のくらしようが明瞭に表現されている。
それは、縄文期からの採集生活の宝庫である森山と
弥生以降、受容した農耕生活が、バランス良く保たれているからです。
しかも、それらの住宅が寄り添うように集まって
「集村」形式でくらしが営まれてきた。
田んぼでの生産活動には、集団的営農労働が不可欠であり、
その基本的な生活基盤を実現させている。
このような集村形式では、気候風土条件に対しても
安全安心を確保することも可能だったことも窺い知れる。
季節風などから、おたがいの家屋をお互いが守りあうという
思想が、見るからに明確に示されている。
一見整然としてはいないような各家屋が不整合に並んでいるけれど、
いろいろな自然災害のありよう、季節風の悪影響に対する防御と
考えれば、その合理的な対応として見て取れる。
しかも、建築的には住宅は規格化されていて
どの家の部材も共通化していることが見て取れる。
これは、仕入購入するときに有利に働いたに違いない。
このような意味で、こうした住宅には
日本人の歴史的な生活合理性が明瞭に示されている。
「なにげない」住宅群の、こういった合理主義に
気付き始めてから、住宅への興味がよりいっそう深まってきたと思います。
結局は、ひとであり、ひとのくらしということが、
いちばん興味深いことであることに思いが集中してきた。
そんな気分がどんどんと深まってきている次第です。
Posted on 5月 27th, 2014 by 三木 奎吾
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あ、いきなり醜い写真で、恐縮です(笑)。
恥ずかしながら、わたしの鼻先のクローズアップであります。
吹き出物の治癒に当たっていまして、けさの状況。
場所がきわめて微妙な位置なので
なかなか治癒に時間がかかっております。
小さいときに母親から、片手を鼻周辺にかぶせるように示されて
「こういう場所にできものができたら、注意しなさいよ」と
教えてもらった記憶がある。
母親から伝えられることと言うのは、本当によく憶えているものだ。
きっと、その声音に至るまで、
母親としてのDNAレベルでの「刷り込み」なんだろうと思う。
で、人生これまで、幸いにしてそういうことはなかった。
ところが、中高齢になってついに、
その記憶が甦ってくることになった。
この鼻先のできもの、約1カ月以上でしょうか?
一進一退を繰り返してきました。
最初は耳鼻科に行って、抗生物質を処方された。
これは、効いたのかどうかよくわからない。
ただ、原因については鼻の内側粘膜部分での損傷、化膿であることは
自分的に納得していたので、その処方薬を飲みきった。
その原因には効能はあったと思う。
でも、表面の吹き出物は、なかなか病状が良化しない。
で、たまたまほかの部位の治療のために行った皮膚科で
見とがめられて、経緯を確認されて軟膏を処方された。
それから、日に数回、根気よく処方している。
ここ数日は、とくに気をつけて処方するようにしていたら、
けさはずいぶんと良くなっている。
(これでもずいぶん、良くなったのであります〜(笑)〜)
あともうちょっと処方を継続すると、完治しそうなところまできた感じ。
で、思い出すのが母親のコトバ。
場所が場所だけに、治るのにずいぶん時間がかかるのだよ、
ということであったのか、と気付いた次第。
考えてみると、他の場所と違って
こういう場所は、まさか絆創膏も貼りにくいし、
使用頻度はまことに多いのだということが身に染みてわかる。
どうしても日に何度かは鼻をかむ。
そうすると衛生に気をつけるとすると、物理的な刺激は避けられない。
まことにデリケートなんだなと、思います。
はるかに母親のありがたさに、感謝しながら
根気よく、完治までがんばろう。
Posted on 5月 26th, 2014 by 三木 奎吾
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北前船という江戸から受け継がれてきた
日本の交易ビジネス文化に深く興味を持っています。
この図表は、そういった調査研究のひとつの資料であります。
北前船というのは、<Wikipediaより>
江戸時代から明治時代にかけて活躍した主に買積み廻船の名称。
買積み廻船とは商品を預かって運送をするのではなく、
航行する船主自体が商品を買い、
それを売買することで利益を上げる廻船のことを指す。
当初は近江商人が主導権を握っていたが、
後に船主が主体となって貿易を行うようになる。
上りでは対馬海流に抗して、北陸以北の日本海沿岸諸港から下関を経由して
瀬戸内海の大坂に向かう航路(下りはこの逆)及び、この航路を行きかう船のことである。西廻り航路の通称でも知られ、航路は後に蝦夷地(北海道・樺太)にまで延長された。
ということで、北海道ときわめてゆかりが深い。
というか、この交易は北海道の産品の移出が始まることで
より大きくなっていったビジネス。
司馬遼太郎さんの書いた「高田屋嘉兵衛」の物語などで
その当時の様子を知ることが出来ます。
しかし具体的な貸借対照表のようなものは見る機会がなかったのですが、
上のような図表を発掘(?)した次第。
弁財船と呼ばれる船は1艘で約1000両ほど建造費がかかったそうです。
でも、この1回の航海での貸借対照表を見ると
北海道に資材を持って行って販売したものの利益が60両ほどなのに対して
北海道から大坂に持ってきて得た利益は2181両以上になっている。
この経理内容からすると、
この1回の取引交易だけで、船の建造費まで償却してしまっている。
現在の貨幣価値に換算すると1億5000万円超の利益だったそうです。
こういう「交易活動」が江戸期〜明治期を通じて
活発に国内で行われてきた。
一番利益があったのは、魚肥としてのニシンだったそうです。
北海道側では、身欠ニシン生産のゴミとしての内蔵や尾ひれなどが
江戸期を通じて活発だった木綿生産の畑の肥料として
供給され続けていた。
それが大坂から畿内地域の木綿畑に広く販売された。
こうした船舶交易は、流通業ではなく、
海に浮かんだ総合商社というように言えるのだそうです。
船主、船頭には当然、船乗りとしての才能は要求されたけれど、
それ以上に、売買についての情報能力が重要視された。
そしてそれを基礎にしたビジネス交渉力が決定的だった。
確かに難破の危険とはつねに隣り合わせだっただろうけれど
身分制の桎梏の中にあった江戸期社会では、
稀有な上昇機会、いわばジャパニーズドリームとして機能した。
こうしたビジネスマンたちが、
その後の日本資本主義のベースの人材となっていった。
坂本龍馬などは、こうした「身分制度からのはみ出し」が
大きな魅力だなぁと思って海援隊などを創始したのでしょうね。
江戸期に男として生まれたら、
こんな生き方をしてみたいと思った人間はきっと多かったんでしょう。
今日に至る、日本人の北海道へのロマンの感情のもとには、
きっとこうした成功者たちの夢が反映している部分があるのだろうと思います。
生々しい数字に想念が広がった次第。
Posted on 5月 25th, 2014 by 三木 奎吾
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