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建築文化性と人間環境性

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最近、日本の住宅建築進化の中で
北海道が発祥になった「高断熱高気密」という建築「様式」は
どのように位置づけられていくべきなのか、考えるようになって来ました。

先日、東京で「伝統木造」ノスタルジー派とでもいえるみなさんと接してみて
その驚くほどの保守教条主義に遭遇した次第。
「吉田兼好以来・・・」という言葉が飛び交ったりして
思わず現代であることを忘れてしまうような時間を過ごしておりました。
その空間性には大いに刺激されることが多い
日本の伝統的木造住宅ですが、さりとて、現代住宅性能技術が蓄積してきている
空間の質感について
それを否定してかかる必要がどこにあるのだろうかと不思議です。
否定したいがタメに、ありもしない偶像的対象物を措定して
それがとんでもない、こういう考え方だからダメなんだと
いきり立ち、終いには施主の立場からと称して
人権的な論議を持ち出して、保守伝統の世界を守り抜くんだ、と決意表明している。
なにやら、全学連、全共闘的な雰囲気に思わず、引きずり込まれそうになっていた(笑)。
そういえば、「よし!」「ナンセンス!」っていうような掛け声が出る寸前だった。
その「つるし上げ」的な雰囲気の中で、権力側の立場的に対応しているのが
わたしたちの立場に近い高断熱高気密住宅の側の人間。
思えば遠くへ来たものだ、というような感慨に打たれていました(笑)。
というのは、10代の頃にはこういう「反対派」の側に学生運動として
自分自身がいた記憶が甦ってくるからなのですね。

でも、まぁ冷静に考えてくださいっていうところ。
高断熱高気密っていう考え方は、なによりも人間のよき居住環境を作るための
そのための技術として、進歩進化の結果、
わたしたち社会が獲得しつつあるものなのです。
人間社会が作りだしてきた住宅はいろいろにあったけれど、
それらはさまざまに進歩発展してきて現在の地平がある。
竪穴住居も、洞窟住居もあったけれど、
それらの良さももちろんあったけれど、
やはり住みにくかったり、健康問題が起こったりして
止揚されてきているのです。
その後の、貴族のための寝殿造りや、権力者たちの書院造り、
などは、むしろ、財力や権力などという「文化」を表してきたものという
側面が非常に強い。
庶民を睥睨するような、そのために格差を表現する「ための」住居だった方の要素が強い。
さらに庶民の町家住宅や農家の古民家群などもさまざまな「政治的規制」によって
今日まで受け継がれてきたもの。
歴史的なこういった経緯を踏まえて、現代の住宅建築はあり、
そのなかで人間の体内リズムに感応するようなここちよさの実現を目指して
高断熱高気密住宅が生まれてきたのだといえるでしょう。
社会規制とは別の素因から生まれてきた
人間発想の住宅技術なのだと思う次第です。
同じような考え方をして、こういう時代に冬にもここちよさを失わずに
しかも伝統的なデザインを維持する方法はなんなのかと
そういった技術研究に向かうのが正論であるべきだと考えます。

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