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かりんとう専門店

きのうは取材先が2軒。
都内でしたが、その内の一軒は西武新宿線「鷺宮」駅の近く。
レンタカーは本日は使わず、電車での移動としました。
はじめて降りてみる駅でしたが、
詳細な案内図のお陰で、迷うことなく現地へ・・・、
なんですが、約束時間には少し早く到着。
ということで、駅前を散策しておりました。
そうはいっても、大変こじんまりした私鉄沿線駅なので、
目立つようなものもないしなぁ、と思っていたら、
写真右側のような、ついひきこまれるお店が目に飛び込んできました。
「かりん糖」というように書かれている。
「ん」の字が、やや「人」という字にも読めそうなのですが、
まぁ、それはご愛敬ということで、
普通に、「かりん糖」ではあると認識できる。
でも、「かりん糖」ばかり扱っている、
というのも一般的に、にわかに常識には掛かってこない。
「???」という心理に駆られまして、
ついお店に入って見ました。
で、写真の左側のように、全館かりんとうだらけ、というディスプレー。
それも、あるわあるわ、種類が半端ではない。
ざっとひと目、100種類以上くらいは陳列されていました。
安いものは、製造中に割れてしまった半端品詰め合わせ100円から、
150g439円なんていうのもある。
きんぴらごぼう、なんてのもある。
かりんとうなのに、塩味なんてのもある。
まさにかりんとう、満干全席という状態なんですね。
まぁ、狭い店で、店員さんが応接していただけたので、
ほんの少々、お付き合いで購入しましたが、
<その後、帰りの空港待合いでぽりぽりと完食(笑)>
それぞれ、試食もオッケーというサービス精神ぶり。
あれこれと、オススメいただくまま、試し食べさせていただきました。
それぞれが面白く個性的で、あきがこない。
お店には、コンセプトを表現したビジネスマンガ本もパンフのように
置かれていまして、それもいただいてきた次第。
旭製菓という会社なんだそうで、
社長は、3代目という守下武彦さん。
「隠れ河原のかりん糖」という謎めいたネーミングで売り出しているそうです。
まぁ、東京では、隠れたブームなのではないかと
推測できた次第であります。
まぁ、恐れ入ったこだわり、というか、
なんというか、すごい、というしか、ありませんでした。

カーナビくん居眠り事件

今回の出張ではレンタカーで移動しています。
取材ではやはり、あちこちと動き回るので、
土地勘と、時間見積もりの感覚を養うには
クルマでの移動感覚が必要な部分なのですね。
それとやはり、一般の住宅のありようを直に把握するためには
地上で移動しながら、数多くの「情報」を感受するのが
取材の基本的なフィールドワークに繋がってくるのです。
ということなのですが、
きのうは前日の横浜を起点にして
東京都内に向かいました。
目的地の最初は中野区富士見町で、カーナビはそれまで絶好調だったので、
まぁ、大丈夫だろう、と気楽に思っていたのですが、
用賀を抜けて首都高速に入って
ずっと地下に入ってしまってから、
遠心分離器のようなぐるぐる回転道路(笑)を回っているウチに
どうも、カーナビくん、
GPS機能が居眠りをはじめた様子(汗)。
「おい、肝心なところで・・・」
っていう次第であります。
初台南というどうも「これは渋谷区だよなぁ」ってような出口で
どうすればいいのか、困った、と思っているまもなく
遠心分離装置から、どうも違う方向に吐き出された。
「まぁしょがない」と
腹を決めたのはいいけれど、次の出口がなかなか見えてこない。
やや時間があって、ようやく出てきたのは
目白のあたり。
で、ようやく目覚めたカーナビくんを設定し直して、
目的地を再確認したら、あと7kmほど。
それも事前に確認したような道路のような気がしてきまして、
なんとか、目的地までは、約5分の遅れで到着いたしました。
ふ〜〜〜やれやれ、であります。
慣れてきたと、思う心が油断に繋がる、ですね。
その後も、豊島区内の住宅地に突入したあたりでは、
2mもない道幅の道路で、左右に電柱があって、
左折も出来ない道、というのに出くわしたり(笑)、
まぁなかなか、経験できない体験を致しました。
あんまりたくさんしたくはないのですが、
何事も経験であります。
甘んじて状況に身をまかせ、一所懸命、立って半畳寝て一畳の心(?)で
土地と人間の状況をつぶさに体験し、取材できたわけです。
そう考えると「やったぜ」というようでもあります。
でもこういう状況の上で、時間を守って移動する必要があるわけで、
やはり、敵もさる者でありますね。
<写真は横浜港にて>

横濱媽祖廟

【よこはままそびょう】と読むのだそうですが、
横浜中華街にある建物のひとつであります。
当用漢字にはありません。
WEBサイトには、

『媽祖』は北宋時代(960年-1127年)に福建省の林氏の娘として生まれました。生まれてから一ヶ月、声も泣き声もあげない林氏の娘は、林黙娘(りんもうにゃん)と名付けられました。小さい頃から才知に長け、16歳で神から教えと銅製のお札を授けられたといわれています。神通力をつかい、雲に乗って島を巡回し、お札の力で悪や災いを退け、人々の病を癒す彼女を『通玄の霊女」と尊敬の意を込めて呼ぶようになりました。 28歳の9月9日に修行を追え、天に召された後も、赤い衣装をまとって海上を舞い、難民を救助する姿が見られたので人々は廟を建て、護国救民の神様として祀るようになりました。 その力は国中に広まり、歴代の皇帝も『天妃』「天后』『天上聖母』などの名を贈り敬意を表しました。 『媽祖』は航海の安全を護る海の神としてのみならず、自然災害や疫病、戦争、盗賊から人々を護る女神として、現在でも中国大陸や台湾はもとより華僑が住む世界各地で信仰されています。 ■ご利益  家内安全・商売繁盛・心願成就・開運成就・身体健全・社運隆昌・交通安全・旅行安全・厄難削除・合格成就・安産祈願・息災延命・良縁成就・無病息災・除災招福

っていうような記述があります。
どうも、道教的な民間信仰の対象建築物のようなのですが、
きのうから関東に来ておりまして、
取材やら、情報収集と言うことであります。
横浜といえば、中華街と言うことで食事に来た次第。
で、なにげに、こういう建築に出会ったのですね。
わたしの建築探偵団気質がむくむくと沸き起こった次第です。
っていうのは、軒の出の端部、その梁が放射線状に構成されていたんですね。
アジア世界では、こういう建築の屋根は
反り返らせて、建築デザインとするのが多い。
そのやり方で、2つの手法があり、
梁材が放射線状に出てくるタイプの建築物に興味を持っているのです。
まことにマイナーな趣味なんですが、
どうもこれって、アジア世界での「霊廟」建築の手法なのではないかと
最近、想いつづけていまして、
そのひとつのヒントとして、この建物の屋根端部に目が行ったのです。
どうも、こういった想像に符合するような事例ではないかと。

なんですが、
それにしても建物全体のおどろおどろしいまでの
極彩色ぶりには、完全に降参するしかありませんね(笑)。
まことにわかりやすい現世利益追求というような姿勢が明瞭ではないかと。
江戸期の日光東照宮とか、伊達氏の遺構とか、
やはり出自的には、中国のこういった世界観が下敷きなんでしょうね。
雑踏の賑わいの中で、
しげしげと唖然の心境に、たたずんでおりました。

日本的神聖空間

仏壇・神棚・床の間
どうも最近、北海道で建てられる住宅には
ほとんどみられない室内空間の典型であります。
2日連続で書いている北海道西海岸・小平町にある
「花田家番屋」の様子であります。
この建物は、職住一体の建物であり、
親方の住居部分と、働いているひとたちの住居部分が
ひとつの棟に一体になっています。
真ん中に「にわ」と呼ばれる土間があって、
そこを仕切部分として、左右に分かれているのですね。
こういった居住形式って、
たとえば、ヨーロッパには存在するのでしょうか?
というか、日本の中でも、
とくに北海道でのこうした漁業経営者にだけ見られる形式なのかも知れません。

で、親方の居住部分も、
ハレの空間と日常の空間の2つに
大きく機能が別れておりました。
中庭を介して、奥には私的な空間、
表側には、より特別な空間として、
このような空間がしつらえられているのです。
建物の中に、神聖な場所があるというのは
どちらかといえば、人間にとって根源的であって、
そういう空間がさして見えなくなってきている、というほうが
きわめて特殊な事態である、というように言えると思います。
床の間というのは、
日本的な家格表現装置のように機能しているもので、
これは、和室の付帯施設というような意味合いと考えれば、
合理性判断では、必ずしも存在は問われないでしょうが、
神棚や、仏間については、
やはり民族的アイデンティティに属することのようにも思われる。
たぶん、この部分を持たないのは、アジア世界では珍しい。
考えてみると、ヨーロッパやアメリカの住宅でも
こういった装置空間は、あまりないとも言える。
信仰の対象の違いと言うことなのだろうか。
で、このように神と仏が共存しているというのも、
日本的価値観を表現していますね。
ディスプレーとして、神棚に対して
捧げものがにぎにぎしく飾り立てられており、
なかには、みごとな魚体の飾り物までありました。
漁業者としての現世利益を願う切なる思いがこめられています。
まぁ、そういった精神性を端的に表現しているので、
直接、日本人的感受性として、伝わってくるものがある。
逆に言うと、今現在建てられ続けている住宅建築で、
こういった空間を持たない建物は、
後世、どのようにその変化を建築的に語るべきなのか、
あるいはそういう内容が、伝わっていくものかどうか、
ちょっと不思議な気持ちで、見ておりました。
でもやっぱり、こういう空間、わかりやすくていい。
家を存続させていかなければ、というプレッシャーというようにも
家長的立場の人には思われるでしょうね。
気楽な末っ子であるわたしのような人間には、
一種の、クールさを持って眺めることが出来るのでしょうか。

大型木造建築のいごこちのよさ

エゴグラムという自己分析手法を
住宅建築にも応用して、ストレス解析し、
より居心地のいい空間を作ろうという考え方を進めている方がいました。
お話を聞くと、新築したばかりなのに
すぐにリフォームをする人が多い、という経験則から、
これはどういうことなんだろうか、
っていうように考えはじめて、
家族間のストレスと建築の関係を問い直してみたのだそうです。
大変、面白い着眼点であり、
いいヒントになったと思うのですが、
やはり建築の空間には、そういったいごこちの考え方、
そういう部分を分析していく必要があると思います。
みんな気付いてはいるけれど、
なかなかそういう分析手法が確立していない。
とくに、住宅建築物と、そこに住む人の暮らしぶりにミスマッチがあると、
家族関係が極端に悪化するとか、
場合によっては離婚とかまで発展する場合もあるという。
ただ、じゃぁ、どうすれば解決できるのか、といえば、
解決法と、処方箋は万能ではないはずなので、
即断は出来ない。

そんなことなんですが、
きのうも触れた花田家番屋の内部であります。
多くの出稼ぎの人たち、ヤン衆と呼ばれた人たちに提供された空間です。
巨大な空間なので、一度には紹介しきれないのですが、
写真は、4つある囲炉裏のひとつから、
台所方向を見た様子です。
天井には、縦横に組み上げられた梁と柱に支えられた大空間が広がり、
まことに豪快な空間です。
ここは食事を取ったり、暖を取ったりという空間ですね。
決定的に不足しているのは、個室的な間仕切り。
個人的な閉鎖性は担保することはできない。
しかし、なんといっても、大型木造建築の持つおおらかさは
なんとも言えない開放感に似た、いごこちのよさを提供してくれる。
江戸期の長屋のここちよさを持った空間性ではないかと思います。
長屋は、けっこう老若男女の集住形態であり
それなりの個人的閉鎖性も確保されていながら、
社会性があって、八つぁん、クマさん的な人間関係も成立していた。
その暮らし方を、北方に持ってきたら、
まず大きな架構で大きくくるんで、
内部に、集住の要素をたっぷりと詰め込んだ、という感覚。
人間が暮らすということのなかに
こういう種類のいごこちというのも
あり、なんではないかというように思われてくる。
まぁ、これにしっかりした個室空間が確保されるという必要はあるだろうけれど。
そしてその個室に
カギを掛けなくてもすむような社会的生活モラルが機能すれば、
こういった集住形態というのも面白いかも知れない。
ただし、構造はやはり、木造でなければならないと思う。
建築は、RCによって、無味乾燥な空間ばかりになってしまった。
すくなくとも人間のこころがやすらぐ空間では、
木の質感がもっともふさわしいというのは自明だと感じます。

花田家番屋

この建物の存在を知ってから、
もう20年近くになります。
この建物の調査活動から、再建復元工事の状況なども
北海道内の建築設計関係者などから
よく聞き知っていた建物です。
現在は国の重要文化財に指定されており、
お隣には、「道の駅・おびら」もそっくりな雰囲気で建てられています。

国の国宝とか、重要文化財っていうのは
創建時からの年代によって順番が決まっているのだそうで、
国宝になるには、最低で150年以上のものでないと指定されないそうです。
北海道には、そういうことで建築物の国宝は
まだ存在していません。
国宝は、縄文期の「中空土偶」だけなんですね。
建築物では、当然、赤煉瓦の北海道庁庁舎と、時計台の可能性は
高いものがあると思いますが、
わたしが死ぬまでに、指定されるかどうか、だろうと思います。
そういったなかでも、
この「花田家番屋」は、明治30年代というものですが、
北海道西部海岸地域のニシン漁を中心とする
漁業の最盛期を歴史的に証言する建築物として
そのスケールの大きさだけで考えても、きわめて一級の建築だと思います。
延べ床面積は、900平米を超える大型木造建築。
間口が40m近く、奥行き23m近くというスケール。
その空間を支えるのに、柱・梁が縦横に組み上げられている様は、
豪快な、明治の男たちの心意気を表現するかのようです。
まさに男性的な空間であって、
北海道らしい建築と言うことでは、木造では
時計台を超えて、ナンバーワンなのではないかと思っています。
久しぶりに見に行ったわけですが、
カメラを向け始めたら、
ここもいい、あそこもいい、っていうように
無限にアングルが出てきて、
飽きることがありません。
親方の空間の座敷部分もいいのですが、
やはり、ヤン衆のための大空間がまことにすばらしい。
所在地は留萌市から、海岸沿いに国道を北上すること30分ほどの
小平町ですが、
いつ見ても、その広大さに圧倒されます。
木造の札幌ドーム、っていったら大袈裟ですが、
この建物だけで、300人くらいの収容人員があったということなので、
桁外れの、大型建造物であったのです。
中にたたずんでいると、自然と視線は眼前の日本海に向かいます。
この大型建築から、海に立ち向かった男たちの思いが
感じられてくるような空間ですね。
機会があれば、ぜひごらんください。

狩猟採集生活の社会

天塩川河口地域っていうのは、
同じ北海道にいながら、一度も見に行ったことがありませんでした。
まぁ、稚内には2回くらい行っているけれど、
いつも内陸側を通過していたか、
あるいは通過したとしても、ほとんど記憶していないか。
そんな印象の確かでない地域でした。
で、最近、調べていることの調査地点として欠かせないので、
日曜日、早朝に起きて見学してきました。
いやぁ、北海道も広いということですね。
こんな地形の場所があったんだと
あらためて発見させられた次第です。
天塩川というのは、最後の河口付近では、
大きな汽水湖のような様相を呈していて
ちょうど、青森県津軽半島西部の十三湊にそっくりなんです。
実際に、天塩はシジミの産地として著名と言うことで、
共通点は多い。
本州島最北端西部と、北海道島最北端西部に、きわめて似た地域があるのですね。
天塩、という地名はテシウという古地名への当て字ということで、
アイヌ期はもちろんでしょうが、
それより以前の、檫文時代の住居痕跡がたくさん残されている。
汽水湖状の地形は、相当延々と繋がっており、
天塩町の北、幌延町にはオトンルイという遺跡があって、
ここには800軒もの竪穴遺跡が残り、さらに
リアス状地形が段丘地形に展開しているそうで、
生活状況としては、一軒にそれぞれ移動用の船付き場があるような
そういった暮らしぶりが見られると言うことだそうです。
十三湊は、日本海交易の北方拠点として
中世には大変な賑わいぶりを見せていたということですが、
この天塩も、まったく同様の地勢的な位置にあるということが言えます。
基本食料としては、秋になれば海と川を満たして遡上するサケが
考えられ、狩猟採集時代の人間居住条件としては
きわめて優良な環境であったと思われます。
そして、この北方にはサハリンがあり、
交易の拠点としても、古代にまで連なってくる歴史が想像できる。
縄文時代の生活適地は、むしろ北方日本であったとする説が多いのですが、
さもありなんという、そういう認識を持つことが出来ます。
ただ、狩猟採集の社会では文字記録を持たない。
そういう意味で、痕跡はなかなか体系化しにくいと思いますが、
日本に編入されてからの歴史は確かに少ないけれど、
一方で、大陸やサハリンとの関係は
日本社会の比でないレベルで活発だったに違いないと思います。
そういった想像力を刺激させる光景でした。

尊皇攘夷に似た 中国「反日民主」

中国の内政的矛盾が無視し得ない段階に差し掛かってきている。
鄧小平の改革開放路線以来、
基本的に日本型の経済戦略をとって発展し続けてきた中国だが、
江沢民は、中国の発展が基本的に日本の経済協力によって
そのインフラ整備が進み、
あたかも自民党支配の構造も、中国共産党一党独裁と
アナロジーしながら、経済発展をしてきた事実を
愛国教育の徹底によって、反日の感情を扇動して覆い隠すように仕向けてきた。
拝外感情の刷り込みは、とくに日本に対しては素地もあって
中国国内の安定のためには格好の対象になったのかも知れない。
外交的問題と言うよりは、
中国国内政治的な問題の外化という側面のほうが、
いわゆる「反日」という運動エネルギーとしては大きい。
どうもそのようなことであるということが、見えてきている。

まぁ、日本としては悩ましいけれど、
他ならぬ日本も、明治の変革期直前には
きわめて排外的な「尊皇攘夷」という思想が、
錦の御旗のように振りかざされて、
それを幕府も実行する、とさせられてきた経緯を持っている。
国内的な理由であって、対外的には薩英戦争等の経験から、
それが常識的に無理なことはわかっていた。
ただ、政権を幕府から簒奪し、
薩長連合政府を樹立するための口実として利用されたに過ぎない。
いま、中国で起こりつつある動きは
どうもそのように理解し、対処していくべき事柄のように思います。
反日という考え自体は、中国共産党権力にその淵源を持っている。
その中心は江沢民的な勢力一派だろう。
これは、江戸幕府の水戸藩・会津藩のようにも類推される。
ただ、水戸藩・会津藩ほどの純粋性はないだろうと思われる。
かれらは、権力維持のために排外主義を使ったに過ぎない。

中国民衆は、反日を仮面として装いながら、
これならば、意思表示をしてもいいのだと巧妙に気付き、
それを突破口に、民主的要求を発信しはじめている。
中国という国が、国家独占資本主義を
中国共産党一党独裁のまま、長きに亘って継続していくのか、
政治的民主化という苦しみを経験せず、
開発独裁型権力のまま、スーパーパワー国家になっていくのか、
すでに現状への不満を列記したプラカードや横断幕が出現していることを考えると、
天安門事件のような一触即発の事態も考えられる状態が近づいているのかも知れない。
巨大な国民監視社会が前提になっているのが現状だけれど、
そんな状態が永続すると考える方がやはりおかしい。
政治的民主化は、この巨大国家に本当に実現するのか、
どうもわれわれは、歴史の胸突き八丁をいま、見ているのかも知れない。

<きのうはついに札幌、初雪でした。夜は小樽にいたのですが、
小樽では、土砂降りのような雨。お酒が入ったので汽車で移動しましたが、
自宅近くの「琴似」駅に下りたら、ごらんのような雪景色。>

主食としてのサケ

わたしたちは、どうしても主食がコメという社会の中に住んでいるので、
それ以前の社会、縄文の頃や、北海道島での160年以前の
食生活を想像する視点が持ちにくい。
コメ生産というのは、その生産様式とともに
同時に協同労働という側面があり、
また、そのためにか、社会的な階級分化が必然だったように思う。
いつ、農耕を開始するのか、
そしていつ、どのような作業を行うのか、
いつ頃刈り入れるのか、そういった生産の諸活動で
判断力が要求され、社会行動が前提になっていたように思う。
それに対して、
狩猟採集社会というのを豊かに想像する、というのは難しい。
いまでも、「自分の狩猟エリア」というものが
社会的に認識があるという北欧諸国などでは、
ありありと、そういう社会のシステムが理解できるのだろうけれど、
日本人はなかなかそうはいかない。
第一、主食はなにを食べていたんだ、ということからして
想像力がとたんに心許ない。

写真は、日曜日、走ってきた北海道宗谷地方・天塩への道すがら
見かけた家前の光景。
サケというのは、近世、江戸期以降本州資本が北海道に進出して
乱獲を繰り返した結果、すっかり姿を消してしまったけれど、
地球規模で回遊するかれら種族にとって
北海道島は、ずっと長い年代、そのふるさとの大きな存在であり続けていた。
江戸期から明治大正までの記録を見ても
その盛んな回帰遡上ぶりはすさまじいものがあった。
で、北方先住民は、このサケのたくさん獲得しやすい場所に
コロニーを形成していた痕跡が実に多い。
秋には、川という川が、サケの遡上で溢れかえっていた。
そこで一年を通した基本的な食料は量的にも、獲得できた。
しかし、コメと違って、保存性はどうだったのか、
その点が、なかなか常識が得られない。
って思っていたのですね。
まぁ、干して保存性をよくすればいいことはわかるけれど・・・
そういう思いに明確な回答が、この写真だったのですね。
サケを適当な大きさに切り落として、
このように保存食として乾燥させればいい。
実際のこういった光景を目の当たりにすると、
「ああ、そうか」と、自明のことと想像力が働き出す。
以前、北海道開拓の村の展示でも、こういう生活様式の
ジオラマを見たのですが、木を造作して
乾燥装置をたくさん作って、若干の切り方の違いはあったけれど、
サケをどんどん干していく様子が再現されていました。
遡上するサケの魚群の量と、こういう生活様式を重ね合わせれば、
狩猟採集生活の豊かさ、というものが実感できる。
もちろん、ナマ食可能な時期にはそのまま食べただろうし、
ルイベ、という冷凍切り身食文化もアイヌにはあった。
そして通常食としては、この干しサケを
鍋に入れて、ほかの食材といっしょに煮込んで食べただろう。
石狩鍋が基本食と考えれば、納得がいく。
魚のうまみ、出汁ベースの食事なので、食味も豊かだっただろう。
外は寒風と雪が暴れる季節になっても、
食生活での不足はありえない。
植物性の食料も、雪や土室という天然の冷凍冷蔵庫で
越冬生活に不安はあまりなかったと思われる。

もっと北方、アムール川河口地域では
冬期にも、犬ぞりで活発に交易すら営んでいたそうです。
冬期にも、天塩では木を運搬しやすくなることから
山から木を切り出す、というような活動もあったかも知れない。
北海道島では、700年ころから、急速に鉄器が普及しはじめるのですが、
それは、こういった自然からの
狩猟採集をより進展させるものだったのではないか。
サケの天日乾燥の実像を見て、
これなら、いくらでも生存可能だなぁ、と
実感を深めた次第です。

建築基準法改定審議会、竜頭蛇尾

民主党政権になって、
前国土交通大臣の前原さんが、
相次いだ着工遅延の結果、住宅着工数が激減した事態を受けて
建築基準法の抜本的な改正をめざして、審議会を立ち上げて論議してきた。
ところが、

検討会は3月、当時の前原誠司国交相(現、外務相)の指示で発足。適判の対象範囲の縮小、確認審査の法定期間の短縮、違反行為に対する罰則の引き上げの3つの課題を中心に、法改正の方向性を検討してきた。
 建築業界の委員からは「構造計算書偽造事件による建築基準法の改正が住宅着工の低迷を招いた」として、適判の対象範囲の縮小など規制緩和を求める声が根強くあった。だが、消費者保護の観点から「審査は現行のまま見直さずに罰則を強化すべきだ」などと主張する弁護士の委員らと意見の調整が付かず、取りまとめは論点整理の形にとどまった。

というような事態になったようです。
こういった審議会というもの、
わたしも、北海道という地方自治体でのものですが、
参加することがあります。
生産的なものになる場合もあるし、そうでない場合もある。
なかなか難しいのですが、
しかし、たとえば北海道では、北海道R住宅というような
新しい制度を立ち上げ、実際に市場投入し、
国からの補助金を獲得して、大きな成果を生み出したりもしている。
要は、やり方次第と言うこともあると思うのですが、
注目度が高かった今回の審議会、大変残念な結果になったようです。
消費者保護、という点がいまのところ不分明な領域になっていて
そういう部分で、生煮えな意見が出たりすると、
誰も逆らえない、というような雰囲気があるのかも知れない。
最終回の大人数、写真で見る限りでは30人以上と見られる人数の
会議の様子を見ると、
こんなに大人数では、まとまるわけもないと思われる。
国の大方針を論議するのだから、
各業界、団体への目配りは欠かせないと思われるけれど、
それにしても人数が多いと思う。
なにか、生産的な論議をするのであれば、
人数は、10人を多少上回る程度に絞るべきだと思う。
大人数になると、意見を述べる時間の合計だけでも
3分掛ける人数と見ても、30人なら一回言うだけで
休憩に入るしかない。
で、こういう審議会の人選とかは
もっぱら、国交省の官僚の専権事項なんですが、
どうも、ダメですね、こりゃぁ。

最終回というのに、馬淵国土交通大臣、
「所用で」欠席だったのだとか。
住宅政策変化の方向性、ということで、
大きな期待感も持っていたわけですが、
ついこの間、菅直人支持ということを民主党代表選挙直前に明かして
民主党内での流れを作ったことでの論功行賞で
大臣になったといわれる馬淵国土交通大臣ですが、
どうもこの、菅直人政権って、なんなのでしょうか?
あまりにも大きな失態ではないかと思われます。