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主食としてのサケ

わたしたちは、どうしても主食がコメという社会の中に住んでいるので、
それ以前の社会、縄文の頃や、北海道島での160年以前の
食生活を想像する視点が持ちにくい。
コメ生産というのは、その生産様式とともに
同時に協同労働という側面があり、
また、そのためにか、社会的な階級分化が必然だったように思う。
いつ、農耕を開始するのか、
そしていつ、どのような作業を行うのか、
いつ頃刈り入れるのか、そういった生産の諸活動で
判断力が要求され、社会行動が前提になっていたように思う。
それに対して、
狩猟採集社会というのを豊かに想像する、というのは難しい。
いまでも、「自分の狩猟エリア」というものが
社会的に認識があるという北欧諸国などでは、
ありありと、そういう社会のシステムが理解できるのだろうけれど、
日本人はなかなかそうはいかない。
第一、主食はなにを食べていたんだ、ということからして
想像力がとたんに心許ない。

写真は、日曜日、走ってきた北海道宗谷地方・天塩への道すがら
見かけた家前の光景。
サケというのは、近世、江戸期以降本州資本が北海道に進出して
乱獲を繰り返した結果、すっかり姿を消してしまったけれど、
地球規模で回遊するかれら種族にとって
北海道島は、ずっと長い年代、そのふるさとの大きな存在であり続けていた。
江戸期から明治大正までの記録を見ても
その盛んな回帰遡上ぶりはすさまじいものがあった。
で、北方先住民は、このサケのたくさん獲得しやすい場所に
コロニーを形成していた痕跡が実に多い。
秋には、川という川が、サケの遡上で溢れかえっていた。
そこで一年を通した基本的な食料は量的にも、獲得できた。
しかし、コメと違って、保存性はどうだったのか、
その点が、なかなか常識が得られない。
って思っていたのですね。
まぁ、干して保存性をよくすればいいことはわかるけれど・・・
そういう思いに明確な回答が、この写真だったのですね。
サケを適当な大きさに切り落として、
このように保存食として乾燥させればいい。
実際のこういった光景を目の当たりにすると、
「ああ、そうか」と、自明のことと想像力が働き出す。
以前、北海道開拓の村の展示でも、こういう生活様式の
ジオラマを見たのですが、木を造作して
乾燥装置をたくさん作って、若干の切り方の違いはあったけれど、
サケをどんどん干していく様子が再現されていました。
遡上するサケの魚群の量と、こういう生活様式を重ね合わせれば、
狩猟採集生活の豊かさ、というものが実感できる。
もちろん、ナマ食可能な時期にはそのまま食べただろうし、
ルイベ、という冷凍切り身食文化もアイヌにはあった。
そして通常食としては、この干しサケを
鍋に入れて、ほかの食材といっしょに煮込んで食べただろう。
石狩鍋が基本食と考えれば、納得がいく。
魚のうまみ、出汁ベースの食事なので、食味も豊かだっただろう。
外は寒風と雪が暴れる季節になっても、
食生活での不足はありえない。
植物性の食料も、雪や土室という天然の冷凍冷蔵庫で
越冬生活に不安はあまりなかったと思われる。

もっと北方、アムール川河口地域では
冬期にも、犬ぞりで活発に交易すら営んでいたそうです。
冬期にも、天塩では木を運搬しやすくなることから
山から木を切り出す、というような活動もあったかも知れない。
北海道島では、700年ころから、急速に鉄器が普及しはじめるのですが、
それは、こういった自然からの
狩猟採集をより進展させるものだったのではないか。
サケの天日乾燥の実像を見て、
これなら、いくらでも生存可能だなぁ、と
実感を深めた次第です。

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