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【明治「国家戦略」決断〜北海道の炭坑開発】

北海道住宅始原期の旅シリーズです。が、本日はエネルギー安保論。
北海道開拓は明治初期国家建設の核心的なプロジェクト。
有色人種は自らの国家存続すら危ういという帝国主義全盛期に
日本の独立を守り、欧米列強国と伍していくための決断を数多く行った。
その方向性のなかで北海道開拓は焦眉であり、同時に
国家としての飛躍を賭けた「投資」でもあった。
そこからなにも得られなければ、その後の日本の近代化はありえなかった。
政治権力構造としては、近代工業化を背景に明確な植民地政策を
アジア各地において剥き出しの武力でもって貫徹してくる欧米列強。
そういうなかで日本は国家戦略意思の不明確な
江戸幕府・封建による固陋たる分権的体制を革命して
それまで武家政権期に京都御所で隠棲してきた天皇を東京に移転させ
近代君主制国家のシンボルとした「開発独裁」型権力体制を構築した。
それは剥き出しの国家戦略相互の暴力的戦いであった19世紀国際社会で
国を経済発展させながら独立して生き残っていくための
機動的な意思決定可能な権力構造として、自明の選択だったといえる。

近代国家で自存していくには近代工業エネルギー戦略を持たねばならない。
このことは今日までまったく不変の国際公理。
明治初年にあってはエネルギーは石炭が最高級の資源価値を持っていた。
明治で開国開港したときに真っ先に蒸気エンジンの船のために
石炭の供給を求められたことから日本国家社会はその重要度を知らされる。
エネルギー資源こそが国家戦略のカナメであり、
その利権争奪を巡って国際は熾烈な競争を戦っている現実を知る。
九州北部で一部採炭されていたとはいえ、それは自然発生的な
暖房需要のためであり産業活用ということは考えられていなかった。
江戸幕府政権期以来、北海道には石炭エネルギーが存在することは
断片的とはいえ、確実性の高い情報があったとされている。
この資源開発のために明治国家は「お雇い外国人」として
アメリカの地質学者ベンジャミン・スミス・ライマンを招聘し委嘱する。
ライマンは、1872(明治5)年から1881(明治14)年日本に滞在し調査を行った。
近代炭鉱開発のスタートとなったのは、1879(明治12)年開鉱の
官営幌内炭鉱(三笠市)。開鉱前の1875(明治8)年~1876(明治9)年に、
黒田清隆・伊藤博文・山県有朋ら政府要人が次々と幌内を訪れ、
また石炭運搬のための幌内鉄道(小樽市手宮~三笠市幌内)が
全国3番目の鉄道として1882(明治15)年に全線開通(その2年前1880年に
明治天皇の行幸もあって手宮~札幌間が部分開通)したことからわかるように、
幌内炭鉱の開発は最重点の国家プロジェクトだった。
明治国家が国防のためを最重視して開拓し投資した北海道から
最初の「珠玉」がもたらされたといってもいい。
たぶん奈良時代の奥州産金にも似た国家的な僥倖であったに違いない。
この「自前」のエネルギーによって明治国家の産業化の礎が確立した。
このエネルギー開発によって日露戦争までの日本が運命づけられたともいえる。

日本のこの時代の「国家戦略」の明確な保持、貫徹を見ていると
近代国家、現代国家はエネルギー安保を最優先するべきだと自ずとわかる。
欧米国家ではこのことには長い歴史もあって民衆レベルも含めて
血肉のようになっているけれど、日本は急速な「追いつき追い越せ」で
きたことで、民主主義のレベルで国家意志が貫徹できてはいない。
国家戦略と聞いただけで反対するような議論があったりする。
現代の日本政治と明治国家の意思決定システム・過程とを比べたとき、
現代に不足しているなにかが見えてくるような気がする。

<写真は無関係(笑)。自然「エネルギー」河川管理ではあるけれど>

【北海道民は「新・日本人」ブレンド実験室】

東京育ちの読者のNさんと【開拓の明治を生きた個人の生き様・万華鏡】
の投稿をめぐってコメントのやり取りをさせていただいた。
SNS時代というのは、こういう深掘り「対話」が比較的容易。
どんな内容だったかというと、開拓での先住の人々と日本社会の出会いで
融合と噛み合わない部分が生じたと思うのですが、
それに絡んで、伝統的ムラ社会が存在した日本のほかの地域と比べて
そういう「繋がり」からの断絶以降生成された「北海道民性」について
「共同体がどのように形成されたかは私には全く知識がありません。」
という感想をいただいた。 そうか、であります。

日本及び日本人を永く追究した作家の故・司馬遼太郎さんも
「北海道からどんな人間が出てくるのか深く興味がある」という言葉を遺した。
北海道にいる人間は、このことは自分たちの社会のことなので
客観的に対象把握することはたしかに難しいし、
他の地域の人からは、このように「想像を超える」部分もあるのでしょう。
これはやはりわたしたち北海道人が自ら省みて考察する以外ない。
けれどもこれは北海道と「日本社会」共同での結果でもあるので、
因果関係の探索には、相当の省察が必要なことは自明。
いまわたしが取り組んでいる「北海道住宅始原期の探究」もそのなかの
「住」という大きな一部を構成もしているかも知れない。
たぶん北海道が日本社会のなかで占めている現在の位置・結果から
その成果物を通して考察することが「北海道らしさ」探究には必須。
住でいえば日本的な通風優先的住宅伝統にはきれいさっぱりとお別れして
まずはしっかりと外気と遮断された空間を確保した。
その手法を開発しその環境に慣れ室内気候をコントロール出来てから、
外界とのあらたな感受性を考えはじめていると思う。
っていうか、まだまだ人口密度がまばらなので、
そうやって獲得された「制御された空間」から視線としての外界を見ても
まだまだ自然は豊かに存在し続けているということ。
「朝日とともに目覚める」
「豊穣に落ちてゆく夕陽をゆったり眺めて暮らす」
みたいな暮らし方がまったく自然に獲得できる状況がある。
札幌のように都市化が進んでいる地域でも、まだ自然は力強く潜んでいる。

そういう自分が関わっている領域での足下をしっかり確認しながら、
「北海道人」という共通風土性、人間類型としての特徴もまた、
明瞭に浮かび上がってきている部分はあると思う。
「こだわりのなさ」というのも、ひとつの特徴であるかも知れない。
150年ほどの時間積層なのに、コトバも方言が育ってもいる。
またそれこそ日本各地からの「地方性のブレンド」であることは明らかで、
その意味では東京と同一の組成ではある。
日本の他の地方のなかでいちばん近いのはどうも東京ではないかと思う。
東京のブレンド組成を密集型ではなく超・分散型に配置するとこうなるみたいな。
また北海道の中でも色合いにはグラデーションがある。・・・
そんな気付きを持って少しずつ探究してみたい。

<写真は日本最初の自然公園・札幌「偕楽園」。造園された木でない自然林>

【本年初「社長食堂」 かに+ラム+たこ「しゃぶ」祭】

今週は仙台からスタッフも合流して年頭の全社会議・研修。
3日間の締めくくりには「社長食堂」であります。
前回の「マグロまつり」時点で「かに食いたい!」の希望が寄せられた。
まぁカニ料理にもいろいろあるし、素材ばっかりに目が行ってしまうのも
「社長食堂」の目指す「手づくり感」からは趣旨がややズレる(笑)。
創意と工夫でチャレンジする手づくりがいちばん楽しいのであります。

ということで到達したメニューは「かに+ラム+たこ「しゃぶ」祭り」企画。
ちょうど東北からスタッフも社長食堂初参加で合流するし、
北海道らしいメニューということで、あれもこれもとなった次第。
とはいえ基本はかにしゃぶがメインであります。
かにしゃぶはわたし個人的にいちばん好きなカニの食べ方。
毛ガニやタラバかにもいいけれど、どうしても素材任せになってしまう。
かにしゃぶならば素材の旨みと最後のシメの「雑炊」まで
楽しくコース食を構成できる。
そのうえ「しゃぶ」なので、ケンカしない「タコ」とは味の同居もできる。
たぶん東北スタッフはタコシャブ、食べたことがない。
で、いっぺんに20人で楽しむ食事で鍋は4コ用意するので
1つは「ラムシャブ」にして見た次第。
北海道はジンギスカンもいいのですが、ラムシャブのうま味も抜群。
で、カニは6kg、ラムは3kg、タコは大足で2本を用意。
かにしゃぶは「ポーション」という持ち手に殻の付いたむき身タイプ。
タコといっしょに例の札幌中央市場の魚屋さんで仕入れ、
おとなりの地元の有名肉店「大金畜産」にてラムも事前に購入。
きのうは朝3時半から解凍〜調理に取りかかりました。
まずは出汁は昆布たっぷり+カツオ節でたっぷり4鍋分以上。
白菜は大玉1コ、豆腐は木綿豆腐6コ、ネギ12-3本、シラタキたっぷり適量。
エノキは7袋を丹念にジミジミとバラし作業(泣)。
ご飯は雑炊用に3合半炊きましたが、ラムシャブはめっちゃご飯を食べたくなるので
別途に5合炊きも、開始早々に消え去っておりました(笑)。
しゃぶしゃぶ用の薄手の「おもち」も適量用意。
大根おろしはしゃぶ料理には欠かせないので大1本を完全すりおろし。
その薬味も「紅葉下ろし」ほか各種用意し、調味のぽん酢も
贈答でいただくヤツなど多数、お好みで十種類くらい用意。
鍋はスタッフに協力してもらってコンロを含めて4コ用意。
・・・っていうような「段取り仕事」がしゃぶしゃぶ料理であります。
あとは、お好み次第で談論風発しながら食べまくりモード全開(笑)。

スタッフに聞いたら、東北の2人を含め
この全しゃぶ料理が「初体験」というスタッフも多数いました。
とくに「タコしゃぶ」「ラムしゃぶ」は北海道の新名物なのかも。
どっちも「なんぼでも食べられる」(笑)とのこと。
・・・ということで今年も「社長食堂」ひきつづき頑張ります。
食べられないのに取引先から話題で聞かれることも多くなってきたとのこと。
そういう意味ではわが社の「売り物」になっているかも知れません(笑)。
いよいよ腕によりを掛け取り組んでいきたいと思います(キッパリ)。

【住まいのディテール「好み」の真剣勝負】


写真はきのうもご紹介のヒノデザインさんの玄関周りディテール。
こちらのドアノブは以前の事務所のものから継続使用していて
もう数十年使い続けているということ。
独特の姿カタチ、手ざわり感を感じさせて、
いかにも「手を触れたくなる」ような気分にしてくれる。
下の写真は玄関を印象的に見せている「飾り棚」。
店舗などでときどきみかけるように思いますが、
ガラスの吊り元あたりにLED照明が仕込まれていて
まことに印象的な「表情」を演出している。

外観的には、当社スタッフいわくきわめて「男前」の建築。
そのイントロでこういった手ざわり感を担うものたちは、
いわば「前奏曲」を奏でているような存在なのだと思います。
外観自体はきわめて男性的な「建築の意思」を感じるのだけれど、
こちらはいきなり「肌感覚」で攻め込まれる(笑)印象を与えてくる。
住宅デザインって結局は「たたずまい」や「雰囲気・空気感」なのだと思います。
全体として空間性という3次元体験をどのような「印象」に収斂させられるか。
で、やはりいつも使うディテールの印象って格別。
それがここちよいか、不快かはかなり決定的。
たぶん理性的な領域よりも感情的な領域での選択なのでしょう。
一方で建築的意志の部分は、理性的に環境と対話することに主眼がある。
その場所、地域でどのように人間が存在し続けるかの探究。
その両方が相助け合って、ある建築が完結していくものなのでしょう。
この「感情」に訴求する部分って、コトバでは表現しにくい。
やはり写真とかで「一気に刷り込まれる」ように受け取るしかない。
その旋律感に同期、好意的に受容できるのかどうか、
たぶん個人個人でその受け止め方には大きな違いがあるでしょう。
ものすごく好きになるとか、なんとなくスキになる、みたいに違いが出る。
もちろん「絶対ムリ」という不幸なこともあり得る。
その好きになり方でも、どっちの方が「永続的かどうか」はなんとも言えない。
ものすごく好きになったのにあるきっかけで断絶することもあるし
むしろ逆にジワジワと好み感が染み通っていくようなこともある。
きっとそのひとの「世界観」そのものと言えるかも知れない。

建て主や住まい手の側としては、そういう自分の好みとか
世界観というようなことについて、選択が必要になる。
そして一度決定したことについては、責任を持つ勇気も必要なのでしょうね。

【神社山の家 冬期の「反射光」利用】


きのうは当社の仙台のスタッフも合流して
札幌市内の設計事務所2軒のオフィス訪問していました。
ご紹介するのは「神社山の家」と名付けられたヒノデザインアソシエイツ社屋。
Replan誌面でもご紹介したことがあるのですが、
わたし自身ははじめてお伺いしました。
写真上はメインスペースと言えるダイニングに開いた開口部。
背景になっている山地は北海道神宮の持ち物の山で
その名もズバリ「神社山」という山であります。
札幌市内から見るといくつもの連なりとして見えるので、
近接の「円山」とか「三角山」のようには馴染みはない。
しかし言われてみれば北海道神宮から続いているような位置関係にあります。
小雪傾向のことしの札幌ですが、さすがに
うっすらと雪化粧はしているので、この窓からは
白い背景になってこの家の室内にハイキーな光彩をもたらしている。

この光彩をどう考えるか、どう利用するか、
いろいろ考え方は分かれるところかと思います。
夏場には見事な緑のスクリーンを提供してくれるのですが、
冬場には寒々しい素寒貧な光の乱反射だとも言えるかも知れない。
しかもこの神社山の斜面に抱かれた住宅の場合、
ほとんど垂直っぽい「壁面」のようにこの窓からは感じられる。
冬の間、目のピント調節にとって北海道の雪景色は過酷とも思える。
頻繁に屋外と室内を行き来すると立ちくらみするようなこともある。
白い「反射板」光が冬中視界に飛び込んでくる環境って
たまにならばいいけれど、ふだんの生活シーンでは過酷でもある。
なので、いろいろな建築の仕掛けで制御したくもなる。
しかし、こちらでは窓回りの面材として白く反射率の高い素材を使って
より積極的にこの「外光」を室内に導入する仕掛け。
左右の側面、下の面材、さらには天井側のコンクリートと、
積極的に反射光として取り込まれている。
しかしよく見ると外壁の木がその中間で光を調節してくれてもいる。
・・・という空間で1時間ほど過ごさせていただいたけれど、
これがすごく「落ち着く」ことに気付かされていました。
わたしはこの窓面に対して背面していて、反対側の開口からは
北側の石狩湾方面までの眺望が遠望できていたこともあるけれど、
この白い窓面に、光環境として凶暴性は感じられなかったのですね。
むしろ、神社山のこの斜面は適度に雪の面がまばらで
笹などの緑も点在しているので、そういう光のムラが感じられて
印象を和らげてくれているように思いました。
室内にはいろいろなバウンド光も仕掛けられているけれど、
かわいらしい白熱電球の「色味」も適度にスパイスになっている。
室内照明は全照明型ではなく局所照明型でしつらえられていました。
そういえば、こちらの家ではサーチタイプの照明を山に向けてもいるとのこと。
ただし、そういうサーチライトは自然の緑に対して暴力的で
長期間浴びせ続けると植物にストレスになると使用頻度時間に配慮もしていると。
いずれにせよ、室内と外部の光環境について丹念にコントロールしている。

北海道多雪地域の住宅にとって、この冬場の雪面からの反射光を
どのように住宅として対応していくのかは、
末永く悩まされ続けるテーマだと思います(笑)。
そのテーマに楽しい対応をしている住宅ではないかと感じておりました。
日野さん、見学機会をいただきありがとうございました。
おかわりまでいただいた、コーヒーもたいへん美味しかったですよ〜。

【異常な暖冬がつづく札幌】

ことしの札幌の冬、さっぱりであります。
年末年始、ずっと長い秋のような気の抜けた冬で
ときどき降雪はあるけれど、すぐに「融けてしまう」。
経験感覚的には「秋田市くらいの冬」という感じでしょうか。
いや、秋田よりも「明るい」日射もある分過ごしやすいかも。
ラクではあるのだけれど、まぁどうせ気を抜いていたら寒波が襲ってくる。
そうやっていましめているのですが、気合いがさっぱり入らない。
要するに気温がまったく下がらないのですね。
12月にも雪が降ったと思ったら翌日には雨に変わったりする。
生まれてからこんなにキレのない冬は初めてであります。

北国人は冬の寒さが1年のサイクルで非常に重要な句読点。
その厳しい寒さによって気持ちもシャキッとさせられる。
こういう状況になってみると、
ふだんの年には「おいおいまたかよ」と嘆息させられる天気予報の
「あすからしばらく冬型が強まります」みたいなアナウンスに
むしろ「おお、ついにやっと来たか」と期待感を持ってしまう。
それがずっと裏切られ続けているのです。
散歩を日課としていますが、毎年であれば冬の朝には
とても外に出る気分にはなれなかったものが、
最近は軽々と外に出られる。いいのか悪いのか・・・。
ダウンなど重装備するけれど途中で汗を掻いたりする、考えられない。
これまでであれば、どんなに遅れても1月には絶対に寒波が来ていた。
それが当たり前であることが起こらないというのは、
その不在によってもたらされる災難を想像させられて怖ろしい。
よく言われるのは耕作地で土の中の微小生物の輪廻が狂うこと。
寒さによってある特定のものたちは冬に死に絶えるけれど、
それが生き延びてしまうことで、翌年に変動がしわ寄せされる。
しかし、それ以上によくないことがあるように思えます。
なにせ未体験の感覚なので、ラクだけれど不安、というところ。

気候変動ということなのか、
巨視的なレベルで「スイッチが入った」感がしてなりません。
なんとか寒さを願っている、ヘンな気分でこの冬を過ごしています。

【開拓の明治を生きた個人の生き様・万華鏡】

ブログの連載「北海道住宅始原の旅」シリーズで
高断熱高気密という住宅技術に至った歴史経緯を掘り起こしている。
一方で逆に住宅技術が歴史事象にどんな働きかけをしてきたのかと、
「行きつ戻りつ」することが不思議に新鮮です。
北海道が主要舞台となってこういう住宅革新は生まれてきた。

しかしやはり、どんな時代でも人間の中身自体はそう変わりはない。
いろいろな局面で懸命に生きた結果としての個人の事跡は印象深い。
この地の先住の人たち、たとえば琴似又一という人物を掘り起こして
取材したように感じています。先住の人たちと日本との関係は
部族社会に留まっていた社会と、近代国家にまで飛躍しようとした
明治国家社会との関係として、深く考えさせられる。
むかし左翼運動に傾倒していた時期「原始共産制」みたいな概念を
理想として夢想していたけれど、なぜそういう社会が歴史的に
発展しなかったかについて、イメージが明確化してきた。
社会の富の基本が「私有」と「共有」ということの違いではないかと。
私有は一所懸命であり「家」経済単位の進歩発展を担保するけれど、
部族社会の「共有」は富の総体の扶植という志向が弱くなる。
結果として社会「発展」という目標を持ちにくいのだと。
強い私有概念が貫徹する封建も経験しさらに近代化を志向した社会は
個々の私有欲求が社会発展の基本的エネルギーになり、
その上で「公平性」が社会制度で担保されることで総和として進歩発展する。
これが理の当然な近代国家の方向性になって今日に至っている。
明治の日本はその公理にしたがって
欧米列強に伍して立ち上がったはじめての有色人種国家だった。
そういう国家意志と出会って、先住民族である琴似又一さんは
自分自身のアイデンティティについて深く考え迷ったに違いない。
開明的な官吏たちはかれに東京留学の機会まで提供して
先住社会コミュニティ発展への気付きを扶助した事実がある。
官吏たちはともに近代国家日本を作っていこうと諭したのだと思う。
明治国家自体も、その成立に際し官軍・賊軍という緊張関係も経験し、
北海道開拓では敗者側に復元のチャンスを大いに与えてもいる。
琴似又一は幕末期の開明的な幕吏に仕え学ぶことで社会発展に目覚め、
一翼を担いたいと意思したと窺える。自らの出自コミュニティに戻り
やがて首長になったけれど、しかし部族社会ではそういう開明さが
社会進化に結実することはなく、伝統的な生活様式維持の枠内に留まり
明治国家の開拓事業の伸展「進歩」との親和協調は難しかった。
国家がないまま真空的なユートピア部族社会でこの地があり続けるなど
その後の歴史局面で考えて不可能だったに違いない。
厳しい国際情勢の中、日本が北海道島を開拓しなければ
軍事国家ロシアによって支配され、隷属させられたことは疑いがない。
江戸幕府以来、日本国家が特別に無慈悲で侵略的だったとも思えない。
いやむしろ、明治7年に開拓使大判官になった松本十郎のように
あるいは幕末期に「場所請負」制度から解放したイシカリ改革のように
先住の人々に親和的な姿勢の官吏のほうが多かったかも知れない。
ことは「社会進化」の問題に属することなのだと思う。

こういった個々人の生き様、その有為転変が
さまざまに去来してくる。まことに「歴史に学ばされる」思いが深い。
<写真は竪穴住居を掘るスコップ状木製器具再現品>

【北海道観光初源 明治4年日本初の公園「偕楽園」】


北海道住宅始原への旅。明治3年から本格的にはじめられた札幌本府建設。
そのごく初期、明治4年に日本初の公園「偕楽園」は創始された。
日本にはさらに古い由来を持つ公園も多くあるが、それは旧来の名勝名跡を
公園と改称したもので、無から造成した都市公園としては偕楽園が日本最古。
明治4年段階の開拓判官は岩村通俊で明治5年には薄野遊郭も建設させている。
財政の厳しい状況の中、いきなり公園や遊郭という施設に公共投資している。
考えてみるとかなり奇観とも言えなくはない。
普通は殖産興業に投資が向かい余暇対象には向かわないのではないか。
薄野遊郭はまだしも大量動員された職方たちへの娯楽提供の側面があり
ある種、治安維持的な施策でもあっただろうから、
清濁併せ飲む的な施政として理解出来なくもない。しかし
公園の創始、それも「無から造成した都市公園」には意図を感じる。
多分に江戸期の都市造成での各大名敷地での「庭園」造成も思わせる。
名付けで水戸と同名の「偕楽園」としたことにヒントはあるのかも知れない。
判官の岩村通俊は後に北海道庁初代長官になって北海道に復帰し
「自今移住ハ貧民ヲ植エズシテ富民ヲ植エン」と金持ち優遇を打ち出すが、
かれの施策の核心にこの考えは当初からあったに違いない。
これらを北海道「観光」への投資と考えれば、筋は通っているように思われる。

そうした研究も実際に行われてきているようだ。大西律子・渡邉貴介著で
「明治以降昭和戦前までの北海道における観光的取組の展開過程に関する研究」
というものが日本観光研究学会機関紙に掲載されている。以下序文抜粋。
〜明治以降の北海道史が日本他地域とは異なる出発点と歩みであったことは、
既に良く認識され北海道発達史に関する諸研究も少なくない。
しかし残念ながら観光の分野については北海道がどのような歩みを辿り
どのような特徴が見出せるかを総括的に俯瞰した研究は皆無である。
近年北海道では従来枠組にとらわれない新たな観光のあり方の模索と
論議が盛んだがこれに示唆を与える歴史的観点のアプローチが不可欠。〜

たしかに今日北海道の主要産業として「観光」は欠かせない。
で、この「偕楽園」などへの投資について興味がより一層強くなった。
明治初年、それも開拓使本庁舎もまだ建てられていない時期に
偕楽園の造作には着手されているのだ。都市計画で「公園」的な施設の
有用性に気付いていた。札幌市街形成で「大通り」が計画配置されたことも象徴的。
前記研究でも「視察目的に来道する政府要人や皇室関係者らの接遇用に、
偕楽園、薄野遊郭、大通大花壇、豊平館および清華亭等が相次いで整備され、
観光基盤が蓄積され始める。」との記述。さらに雇い外国人たちの建言で
札幌円山など原始自然林保護が実現したことも大きい。
原始の残る「自然」そのものが究極的な価値を持つという建言は貴重だった。
また開拓使の札幌の都市建築それ自体、まさに「洋造」を意図して
カラフルにペンキ塗り意匠まで施して日本離れして度肝を抜くものだった。
そうした状況は北海道紹介刊行物『北海道移住案内』で道外に広く伝播された。
日本社会に根強く存在する「北への憧れ」心理の形成に大きな影響を与えた。
移住はすぐに考えないまでもこうした「宣伝」は観光に役立ったと思える。
さらに殖民を進めるためにも交通の整備を積極的に図った。
明治5年函館と札幌を結ぶ「札幌本道」の完成、明治8年東京函館、東京小樽の
定期船航路の就航、明治12年函館小樽定期船航路の就航などで
「観光」での北海道訪問が身近なものになっていった。
日本は江戸期以来「観光ブーム」で、その対象を求めてもいたのだろうか。

このような歴史的意義を持っていた偕楽園だけれど、
残念だが現在ではその残滓をわずかに清華亭周辺に残すのみとなっている。
しかしその「観光思想」は札幌植物園や円山自然公園、中島公園など
札幌の大きな資産として残り続けていると言える。 <写真は北大DBより>

【琴似屯田兵村は薩摩「麓」在郷軍がモデルか?】



北海道住宅始原期への旅、最初の屯田兵村「琴似」配置計画篇であります。
明治6年で「開拓使本庁舎」の建築が出来上がって明治7年は反動で
ほとんど公共建築事業が休止し「経費削減」の嵐になっていた。
札幌には不景気風が吹き荒れ、逃亡が続出していたという。
開拓使人事でも明治3年来判官職にあった岩村通俊が次官・黒田清隆との
軋轢もあってか、佐賀県の県令に転任して職を去り、
後任にはそれまで辺境最前線の根室担当だった松本十郎が当てられた。
かれは明治戊辰戦役では朝敵側・庄内藩出身だったけれど、
敵将の主と考えていた黒田清隆がむしろ庄内藩救済のため尽力する様を見て
一転して黒田に心酔するに至った。その経緯から開拓使に召し抱えられた。
経緯を見ると開拓使とは「黒田清隆藩」とでも言えるのかも知れない。
戊辰戦争全般の中で薩摩・黒田清隆は武勲抜群で強い権力基盤を持っていた。
明治天皇とも年齢も近いので信任も篤かったと思える。
明治7年の緊縮策は、前任判官岩村通俊が巨額の赤字を残したので
新任の大判官・松本が緊縮策を取った、ということが実質と思える。
しかし札幌の不景気の打開策公共事業の必要もあって明治7年から8年へ
かねてからの懸案であった「屯田兵」政策が実行されることになる。
開拓だけの理由よりも防衛軍事がからめば予算捻出できやすかったのかも。
開拓開墾し自活しながら同時に国防軍でもあるという組織の構想は
江戸時代からあって、八王子千人同心のような下層武士団が
勇払地域に展開した事例はあるけれどなかなか実績は上げられなかった。
屯田兵村をどのように成功させるか、その確率の高い構想について
政府部内で意見統一がされていなかった。

当時の事情の考察で面白い研究があった。2017年国土地理協会学術研究助成で
採択された「北海道開拓における屯田兵村の成立要因に関する研究」
岐阜市立女子短期大学の生活デザイン学科・柳田良造先生が研究代表者。
この研究の一節で、琴似屯田兵村は黒田清隆の出身の薩摩独特の「麓」集落という
在郷軍事組織(郷士)がイメージとして強くあったのではないかとされている。
在郷しながら農事をふだん行い、事あれば戦場を馳駆する、
まさに屯田兵の先行形態をそこにアナロジーしていたという説です。
おお、であります。わたしは2017年に薩摩・麓集落を見学した。写真は
そのとき撮影の古写真(麓集落の戦前期軍事教練で子どもが宣誓)と空撮写真。
琴似屯田兵村は、その後の屯田兵村とはまったく違う「密居」形式であって、
間口10間×奥行き15間の150坪の給地という街割り区画であった。
麓集落ではおおむね各戸あたり260坪程度の街割りを与えている。
琴似ではそれよりも少ないのだけれど、別に開墾地を給付するので
総面積としてはより多く支給できるとしたのだと。
しかし150坪では食糧自給が基本の当時、毎日の蔬菜類耕作にも十分ではなく、
開拓開墾地は別に遠方地域に用意されていたとはいえ、
開墾作業の効率などを勘案すれば維持に相当にムリがあり
敷地面積の狭さなど北海道現場としては琴似の選定と地割り方針に異を唱えた。
現地側としては、現在の豊平区月寒などの候補地を提言したりしたが、
東京の開拓使中枢、黒田清隆側としては薩摩藩の「麓」街割りが
強く念頭にあって押し切ったのだとされているのです。
研究では薩摩と北海道琴似の気候風土の違いが混乱を生んだのではとされている。

なんですが、わたしの想像ですが琴似は軍事的事情が優先されたのだと思う。
札幌本府所在地域、現在の札幌市中央区北5条から南4条、
東西では西7丁目から東3丁目あたりまでの「本府」中枢に対して
仮想敵ロシアから高確率で想定できる侵攻上陸ルート小樽・銭函方面からの
最重要防衛ラインに琴似は位置しているのですね。
それより北方は石狩川水系残存の地盤がよくない「泥炭地域」が広がっている。
またこの北方からの想定侵攻上陸地の石狩は浅瀬で軍艦接岸が不可能なのです。
さらに石狩川を遡って地盤の安定した上陸地点として「江別」も考えられるので
屯田兵村は札幌の2村整備の後、すぐに江別丘陵地帯に展開した。
そういったいわば軍事的対応力を屯田兵村計画展開では重視した可能性が高い。
まずは軍隊組織として「本府防衛」が最重要任務として優先されたのでは。
札幌は南は山地で囲まれているので、軍事侵攻の可能性は低い。
対してとくに陸戦での主要幹線「要衝」として琴似はきわめて重要。
そのような価値判断基準に照らして、黒田清隆自身の軍事体験も踏まえ
薩摩の在郷軍事集団の「麓」を想定して展開する方針で押し切ったと思える。

【明治6年 欧米近代衛生思想「札幌病院」建築】



行きつ戻りつの「北海道住宅始原の旅」明治6年に戻ります。
この年8月、現在の札幌市中央区北3条東2丁目に完成した病院。
人間が住むようになれば必ず病気になる。
対応した医療施設は不可欠。北海道開拓では明治2年11月に
札幌村(元村)に一舎が建てられたとある。
現在札幌村郷土資料館は札幌市東区北13条東16丁目にある。
北海道の最初の医療施設は、その周辺にあったと推定できる。
それから4年後にこの「札幌病院」は建築された。
建築に当たっては開拓使お雇い外国人である「スチャル・エルドリッチ」から
意見書が提出された。かれは当時の函館病院外科部長とある。
全17項目の「もっとも注意すべき諸件を開申する」と書かれている。
以下、長いけれど意訳して書きます。思想としての近代医学が開陳される。
1 病院の設営地は域外または都府外とすべき。
2 周囲に広く空地を余し増築の予備と大気流通に便ならしむべし。
3 高燥にして排水自在の地を選ぶこと。
4 病室は清潔なる高き1階にして堅木材で床を設け、天井壁は紙を貼って仕上げる。
5 病室は30床を列して足れること。
6 毎床1800-2000尺立方の大気を充す空隙を余すべし。
7 病室の窓は壁量に対して1/4たるべし。
8 毎室暖炉を設けるべし。
9 厨房浴室は別室に設け、病室には近づけるな。
10 食堂は歩行可能な患者のためなので厨房・薬室と一屋を設けるべき。
11 医員住所は近接させること、生徒教授のために別に講堂を設けるべき。
12 病室ごとに休息室・浴室を置き大気流通の廊下で病室と隔てること。
13 休息所は毎日開いておいて清潔を保つこと。
14 快復に近い患者のため乾燥静閑の園庭を設けいつも逍遙できるようにすること。
15 死室は必ず遠隔の処に設け、大気流通すべき大なる解剖室を設け生徒に教授すべき。
16 莧樋(地上にかけ渡して水を導く、竹や木の樋)を以て清水を引き病院中ところどころに配管すること。
17 医院(員の間違いか)1名に患者30人に限ること。多くても40人を超えないこと。
〜近代的な「衛生」概念に基づいた建言であり、開拓使も
迷うことなくこの建言通りに建築している。
平面図は上が北で一番下が診療棟。中央の左右対称棟が病室。
北側奥が食堂とコック室(厨房)の2階建て。
病室の奥に南側に看護人居室、中央に湯殿、北に便所を張り出して造作。
医学校も併設したわが国の当時最先端の大病院であった。本格的洋風建築であり
開拓使の主要建築である(遠藤明久先生「開拓使営繕事業の研究」より)。

江戸期までの古来の医療思想を離れ欧米近代を素直に受け入れようとする
謹直な明治の時代を感じさせて清々しい。