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【明治13年 小樽手宮ー札幌まで天皇を乗せた鉄道】

写真は北大のデータベースから、札幌屯田兵招魂碑前を通る弁慶号/ 武林盛一。
明治13年と日付があるが不詳とのこと。しかし翌14年には
先般触れた明治天皇の行幸があったので、
それに合わせて開通させたことが明らかだと思われます。
この「屯田兵招魂碑」は、西南戦争に参戦した屯田兵のうち、
門松経文大尉と屯田兵36名を祀る招魂社として札幌に建立された。
開拓使が開設した「偕楽園」(札幌市北区北6条西7丁目)にあったとされる。
ちょうど明治天皇が休息された「清華亭」からほど近い。
この当時には札幌駅は存在せず「停車場」が現駅舎の150m西側にあった。
明治天皇はこのような蒸気機関車に乗車されて偕楽園内という
森の中の停車場に明治14年夏の終わりに降りられたのだろう。

この鉄道は当時拓かれていた銭函から札幌までの道路も利用して
鉄路が開削されたと言われているので、
今に残る鉄道路は島義勇たちが通った道を表してもいるのでしょう。
この天皇行幸からほんの12年前には未開であったこの地に
自らの命で開拓三神を遣わされそこから開拓事業が始まったことに
この年30歳だった天皇はどのような心事であったかと思う。
すでにこの時期には有望な石炭炭田が発見されて、
日本近代化の大きなパワーとなったエネルギーも開発されていた。
それまで沿岸地域の漁業が主要収入源であった北海道経済にとって
この石炭の発見は巨大な可能性を拓くものであったと思います。
そのメドがついたことで石炭輸送を主目的に鉄道の開発もされた。
日本の権力はその後の朝鮮や台湾の経営などを見ても
新開地に非常に手厚い施策を行うけれど、北海道は石炭という
近代国家の成長パワーも発掘することができた。
投資が、具体的なリターンとして有望性が見えてきたと言えるのでしょう。
それまで財政難から札幌での本府建設工事の進捗調整などの苦労も
万事好転させるメドがついた時期だったのだと思います。
この鉄道は東海道線の開通よりも8年も前に開通したことになる。
明治国家の成功にはいくつもの要因があると思いますが、
北海道開発で石炭の発見・産業形成は巨大な貢献をしたことは間違いない。

わが家が札幌に移転して居を構えたのは、
この鉄道にほど近いところ。偕楽園の後継ともいえる北大植物園に隣接し
鉄路までは4-500mと至近距離。北大構内の自然林とあわせて
札幌市中心部というのは、たいへん緑豊かな自然環境が保全されていた。
植物園内には「エゾオオカミ」も檻の中で暮らしていて
月夜には遠くオオカミの叫び声が谺する(笑)。
大自然と明治の開拓の幸運な進展、日本と北海道は良縁だったのでしょう。

【明治13年 ロシア式ログハウス導入と挫折】


北海道住宅始原の旅、明治13年頃の黒田清隆主導の表題の件。
開拓使というのは、薩摩閥の政治的指導者・黒田清隆の個性が強い組織。
かれは、箱館戦争を終結させた明治2年5月以降いったん東京に凱旋して
結婚したあと、引き続き政治軍事的な「北方担当」であり続けた。
明治3年当時には開拓使次官・樺太担当としてロシアと現地交渉に当たった。
8月から10月まで樺太現地に滞在していたとされる。
外交的にはかれの下僚となった榎本武揚が領土交換的な決着を図るけれど、
同時にロシア風の防寒住宅工法であるログハウスを実見したようだ。
その後、北海道の開拓建築基本方針として「洋造」を決定する。
明治4年前半、自らアメリカ欧州を歴訪しケプロンなどと「教師」契約を交わし
基本的には北米の「開拓指針」を採用することになった。

だけれど、そうして出来てきた北米的な建築群に対して
必ずしも住宅建築性能的には満足はしていなかったのだという。
そこで実見してそのいごこちを体感していたログハウスに強くこだわり、
明治11年8月と12月、開拓使営繕の技術者・小林芳五郎などを随行させ
本格的にロシアログハウス技術の実証実験、導入を図った。
のちの総理大臣の軍事政治中枢人物が、自ら建築性能について
強いテーマ意識を持ち続けている。いかにも明治革命政権らしい。
「札幌沿革史」には黒田清隆自身が屋根を葺いたという記録も残っている(笑)。
高価な鉄釘に換えて安価な竹釘を使うことにしようと下僚と相談していて
いきなり開拓使直営工事の「工業局製造場」の屋根3坪ほどを
自ら屋根に上がって施工してしまったと驚きの声が記録に残されている。
諸外国アメリカやロシアで住宅建築を実見してきて、
近代的建築についての知識は専門家をもはるかに超えていたのだろう。
このあたり自ら1級建築士に任じた田中角栄をも彷彿とさせるものがある。
イマドキの政治家では福田康夫首相が辛うじて「200年住宅」を政策として唱え
住宅に興味を持ったが、黒田は自ら建築技術の取得に動くキャラを持っていた。
かれのDNAが、地方政府となった北海道の行政にもはるかに遺伝して
今日の全国的にきわめて特異な高断熱高気密住宅運動になったともいえる。

で、明治12年から13年にかけて写真のログハウス建築が札幌に建てられた。
規格大量生産の「篠津太・雑木丸太積屯田兵屋」18棟を含めて
全部で24棟のログハウス建築が建てられた。
しかし試みの着想はよかったけれど、現実には失敗に終わった・・・。
コスト面では在来的な工法である琴似屯田兵屋群と比べて3倍近かった。
また当初はロシアから招いた職人に施行させたけれど、暖炉積みなどで
「まっすぐなところが少しもない」ようなことだったとされる。
このあたりロシア人の不器用さを当時の世評は言っているけれど、
日本とロシアの許容範囲の違いであるのか、あるいはわざと技能の劣る
アバウト技術者を派遣してきたものか、機微に属することもあり不明。
さらに当然できるログ材同士の間の空隙はロシアでは「コケ」が埋めて
年を経ていくと石のようになるけれど、
彼我の風土性の違いなのか、日本では材自体の乾燥収縮の大きさに対して
その空隙を埋めるタイプのコケが存在しないのか隙間が埋まらなかった。
日本の木は収縮乾燥度合いが彼の地よりも激しくコケも種が違う可能性が高い。
またロシアでは乾燥した土地柄か、木材をそのまま地面に積みあげるけれど、
日本ではそうすると地面からの湿気を吸い上げて腐朽する。
住宅はその土地柄、風土性への適合性がきわめて重要な要素を占める。
こうした「実証」の結果「はなはだ不適当」の烙印が押されてしまった。
黒田清隆さん、意欲はよかったけれど、惜しかったですね(笑)。

<写真は「藻岩学校」と「雨竜通露国風丸太組家屋」〜北大DBより>

【初春の富士 北斎「富嶽三十六景・常州牛堀」 】

あけましておめでとうございます。
北海道という、住宅ではやや特異な位置を占める地域発の
住宅雑誌+WEBのReplanを編集発行。
ブログでは雑誌やWEBマガジンとは違う視点で住宅の周辺的話題を中心に、
歴史的住宅を深掘りしたり個人的な興味分野も自由に書き続けております。
雑誌の開始から32年、ブログを始めてからでも15年経過しました。
ブログはいま「北海道住宅始原の旅」シリーズを継続中。
高断熱高気密への動きがスタートアップしたのは、明治にまで遡る。
開拓と同時に「住宅革新」がどう始まったかを掘り下げています。
150年程度ですが、北海道としては「温故知新」であります。
ぜひ、過去記事などもご覧ください。

ということですが、本日は元日ということで、
以前も好評だった「富士山」からといたします。
俗に「一富士二鷹三茄子」と言われる初夢の縁起ナンバーワン。
初夢に見るものの中で、縁起のよいとされているものを順に挙げた句ですね。
この絵は表題の通りですが、東京国立博物館で「北斎展」をやったとき、
・・・っていまから15年前の2005年の秋に見学して
たいへん感動致しました。で、ご存知の通り北斎のこの絵は「版画」なので、
展覧会記念で、版画原板から枚数(確か100枚)限定で特注受付されていた。
同じものはそれだけあるとはいえ現代技術で再現させたホンモノ北斎絵画。
なんですが、わたし的にはこの構図とテーマの船上生活者、
その「ほぼ住宅」という船での暮らしぶりが揺さぶられた(笑)。
とくにコメを研いだとぎ汁を船から水面に流したところ、
その音に驚いたシラサギが飛び立って行ったという風情のピンナップ。
牛堀(茨城県潮来市)は、霞ケ浦南端の水郷。
鹿島神宮や銚子などへ向かう航路として多くの船が行き交っていた。
この描かれた船はどのような存在であったのか、
屋根が掛けられ中に座布団とおぼしきものも見える様子からは
「屋形船」と目されますが、そうすると観光船的な生業だったものか、
北斎は各地の「生業」への視線が強く感じられる絵が多い。
よく大木を製材する「木挽き」の様子が描かれたりしている。
画業者として、同じ「職人」へのリスペクトをそこに見る思い。
江戸期の人々の「生き様」がありありと描かれていて楽しい。
これから朝食を摂るために米を研いでいる様を絵に反映させるのは、
風俗画画家としての目線の確かさを強く感じさせる。
米を炊けるということは、船に煮炊き装置があるのでしょう。
燃料は管理しやすい「炭」だっただろう、じゃあ燃料費は高かった、など
いらぬ心配までさせられてしまう(笑)。北斎の世界。
また北斎の代表作である「神奈川沖の大波」とも通ずる構図が特徴的。
画題の庶民生活ぶりと構図の「劇的感」との対照に非常に惹かれた次第です。

ことしも毎日更新を心がけたいと思います。
なにとぞ、ご愛読のほどよろしくお願いします。

【生き方といのち 北海道先住民の家焼き風習】


日本社会では家は「永続」的な概念が強い。
「一所懸命」というコトバが示すとおり、家族がその私有の拡大を
長い年月を掛けて追究する社会を作ってきた。
親から子、孫へと資産を受け継がせることが正義。
家は家系の永続基盤の財であるという認識が強くあり、
歴史的に放火の罪業の重さは「放火殺人」と殺人と並列だった。
一所懸命への最大の暴虐だと考えられてきた。

一方、上の写真は東京国立博物館所蔵の「蝦夷島奇観」(1810年)から。
北海道の先住の人々の「住宅の風習」のひとつに
死者の家を焼くというものがあると、先日の古代住宅セミナー発表。
先住の人々には「火」に個人やその血統属性が認識されていて
夫婦であっても、その炉の火については不可侵性があったとされる。
炉や、擦文文化期までの「かまど」の火は、その「主人」だけが管理し
夫婦であっても別の火を使い続けていた可能性があるといわれる。
夫が先に亡くなったとき、妻が夫の火を世話することはできなかった。
火は血統の純粋性を表徴するものであって、同一血統だけが受け継げて
それ以外の血統はそれを受け継げなかったとされるのだ。
火を管理している人間が死んでその火を受け継ぐ人がいないとき、
その「火の葬儀」として、家そのものを焼却させたのだと。
下の写真は「擦文文化」期の竪穴住居跡ですが、
発見される竪穴の実に3割がこの写真のように建材が炭化している。
これは、死者の葬儀と「火の葬儀」も同時に行った痕跡。
住宅は、その死者と火に強く付属するものであって、
焼却して家もまた「葬儀」されたのだというのですね。
「火の血脈」は、婚姻関係からすらも個人を引き離し
より大きな「血統組織」に帰属させていた。資産というものが
「家族」の私有ではなく、血統組織社会共有のものと認識されていた。
それがいわゆる「部族社会」であり、「私有」概念が育たなかったのだ。
このことが耕地をはじめとした財の拡大発展を阻んできたとされる。

現代の住宅とはなんだろうか。
永続的な使用という意味合いは、核家族化の進展で薄れてきた。
生業も「受け継ぐ」という概念は希薄化する一方。
それに対して一方で「個人主義」という意識は強まっている。
家は個人の生き方、ライフスタイルの最大の「表現」。
住宅金融公庫システムという未曾有の「家を建てやすい制度」が機能し
人口減少が必ずしも住宅建設の減少とはならない可能性もある。
今進行しているのは、現代での生き方の大きな変化なのだと思う。
先住の人々の「火=いのち」「家=生き方」という考えもまた
なにか本質的なことの示唆に富んでいると思う。

【天皇巡幸路 in 明治14年・東北北海道】


きょうはどっちかというと、歴史断片篇。
近現代史というのは日本ではホント、きちんと教育されていないと実感。
明治にどっぷりとハマり込んで開拓使の建築事跡の掘り起こしを
最近の大きなテーマにしているけれど、高々150年前のことなので、
資料などはたくさん遺されていて客観事実はけっこう正確に掘り起こせる。
その事実から、現在に直接つながる昔人の思いが蘇ってくる。
とくに住宅を基本フィールドとしているので、
建築に遺されたよすがから、当時の人が何を考えていたかが再現できる。
いまはちょうど明治14年の時点での札幌の状況を
遺された「清華亭」建築を題材にして、この当時の札幌の
最大のインパクトを遺したであろう象徴的な出来事である
「明治天皇行幸」のことに思いを巡らせている。
建築は定置的なものであり、その空間から空気感を想像できる。

明治天皇の御代とは、日本が近代君主制国家となっていった時代。
現行憲法でも天皇は「国民統合の象徴」と位置づけられているけれど、
その骨格は明治に作られた基本政体だといえる。
逆に言うと明治帝のキャラがこのことに色濃く反映もしている。
それまでの武家政権とは違う時代なのだと民に諭す意味で
江戸時代260数年間、歴代帝は京都御所からほとんど外出しなかったが
明治帝は都合6回も大規模な「行幸」を行われた天皇。
六大巡幸は、明治5年(1872)の九州・西国、同9年の東北・北海道、
同11年の北陸・東海道、同13年の甲州・東山道、
同14年の山形・秋田・北海道、同18年の山口・広島・岡山の合計6回。
この明治14年7月30日から10月11日まででも実に73日間も行幸された。
上の図を見ていると、時代感覚が共振してくるような思い。
旅の行路として同時に鉄道事業開始が関連付けられるのではないかと思う。
日本最初の鉄道である横浜—新橋の鉄道にも開業前の明治5年7月に
乗車されている。このときも九州・西国の行幸時に利用された。
この明治14年の時も、青森から小樽に船で渡ってそこから新設された
鉄道を利用して札幌に移動されている。
しかし基本は馬を使っての移動だったとされる。
明治9年東北巡幸で明治帝は愛馬・金華山号を召されている。
少年期16歳で即位されこの明治14年で30歳という若さの帝であり
乗馬された彫像も遺されているので、自ら手綱を握られていたようだ。
その姿に民が接することで国民国家教化の意味もあったのでしょう。
新時代の君主として若さにあふれた明治帝が発散するキャラは、
多くの国民に明治という時代の空気を決定づけたことは、想像に難くない。

折からイギリスのブレグジット、アメリカのトランプ政権、
EUの低迷と、グローバリズムが衰退し世界で「国家」志向が強まる現代。
坂の上に雲をみつけそれを追った明治という時代が
発信してくる「国家」イメージが、興味深く甦ってくる。

【気候変動と経済環境「変動」への対応】

昨年の冬にはフロリダで30数年ぶりという大雪があった一方で
日本では夏の高温の凶暴化、台風による被害の大型化など
「気候変動」がかなり顕著になってきている実感。
この気候変動について、歴史年代で日本国土の地形が
大きく変動してきている事実についてわたしもなんどか書いてきた。
北海道の、わたしが住んでいる札幌を含めた「石狩低地帯」は
6000年前には確実に「古石狩湾」という海だったということや、
大阪平野もつい2,000年前くらいまで大きく地形が違っていた事実など。
それは「気候変動」が過去何度も繰り返されたことを証明している。
この気候変動と人類痕跡について、先日もニュースがあった。
イスラエルにある古代の防波堤は、文明が海面上昇から
身を守ろうとしたことを示す最も古い証拠だというもの。
いまから7000年前の石器時代にイスラエルの海岸フロントにあった集落は
最終氷河期の終わりに氷河が解け、海に飲み込まれた。
現在の海岸線は、当時よりもずっと高い所にある。
その「海面上昇」という歴史事実に対して住民たちは堤防を築くことで
環境激変と戦ったのだという。しかし結果的には
苦闘を続けるだけの経済的価値はなくなり、適応もしくは避難という、
非常に難しい決断を迫られた末に彼らは村を捨てなければならなかった。
記事はこのことと、オランダ、ニューオーリンズ、ベネチアでの
今現在の壮大な人類の海面上昇・気候変動との格闘に触れていた。

一方で現代世界では、CO2排出削減に積極的な国の成長率停滞に対し
中国とアメリカなど、それを無視・軽視してきた国が
大きな経済発展を遂げてきた不都合な事実も浮かび上がってきた。
悲しいかな、結局経済力の大小で世界での発言力は変動する。
さらに北極海の氷結面積の減少があらたな「世界的経済環境」を
作り出しつつあるとされている。北極海交通の利権発生。
アメリカによるグリーンランドの「購入」提起とか、
中国とロシアの新たな領土紛争の可能性の高まりなど、
いくつかの世界レベルので「パラダイムシフト」の前兆もみられる。
先年、中国の李克強首相は訪日の最後になぜ北海道に来たのか。
貿易による物流環境がより短距離化して地球の経済的地政学が変わる。
どうも北極海の「温暖化」に適合させて世界の経済環境は変動を見せつつある。
石器時代の人々も結局はムダな努力と悟って堤防の維持をやめ
あらたな環境での「適合」を選択したのだけれど、
現代人も、単純な捉え方から脱して柔軟な戦略思考を求められている。
来年はオリンピック開催年ですが、マラソン会場問題が象徴するように
気候変動問題への「戦略的対応」が大きなテーマになるのではないか。

【明治日本 ガラスによる住宅意匠・性能革命】


さて明治14年の「清華亭」追撃であります。
とくにわたし的に和室の障子に嵌め込まれたガラスに惹かれた。
ガラスは建材として江戸期まで日本では発達することはなく、
明治の開国以降、異人館建築で開口部の建材の主役として
最重要な意匠要素になっていることに
日本の建築界は突然の大洪水・ラッシュのように出会った。
日本の木造建築では縁という外部とのあいまいな結界が「開口部」
とはいえたけれど、むしろ「中間領域」と言った方が正しかった。
もっと言えば明確な内外の感覚に乏しい建築だった。
障子や雨戸という建具レイヤーで「仕切っていく」という感覚。
窓、という明瞭な概念は乏しく、あっても宗教施設での装置くらい。
無双窓にしても、外部への視線装置という概念よりも
内外の「空気的連続性」の開放、遮断という二者択一装置に近い。
そこに「透明な壁」であるガラス建材が突如出現した。
ガラス窓によって外部景観を切り取るという西欧近代の概念に
初めて出会い目覚めたと言えるだろう。
ガラスは透明で視線が透過できることはもちろんだけれど、
もうひとつ、不十分ではあれ「気密」という概念をも建築にもたらした。
木と土と紙、一部石という構成の建材に対する化学組成の新素材として
空気を遮断できる「性能」を持っていた。
価格が高価であるにもかかわらず、合理的な選択をする北海道民には
どんな奥地の住宅でもガラス窓が採用されていた。
一時期の日本のガラスマーケットの先導地域が北海道だったとされる。
このブログでも和風建築に大胆にガラスを入れた「ガラス邸」という
建築を明治4年段階で札幌の一般大衆に「モデルハウス」として
開拓使が公開しガラス建具に驚く大衆の反応ぶりを書いたりした。
それから約10年後、この清華亭では洋室で「ベイウィンドウ」
という出窓からの3面開口というデザインが導入され、
さらに和室でも縁の最外側にほぼ全面ガラスの引き戸建具が入れられ、
縁の内側、畳の空間との障子建具でも、紙とガラスの組み合わせが
意匠として取り入れられている。
とくに上の写真の、外側の透明な雨戸と絵画のような障子という
まことにユニークな取り合わせが実現されている。
・・・しかしこういうデザイン感覚はあっという間に
たぶん、ニッポン人に広く一般的に受容されたのではないか。
明治という西欧文明の旺盛な導入とその咀嚼の巧みさを感じる。
そしてなお、このような建具の桟とガラスでの意匠性は
やはり日本人的な美感の伝統の方を強く感じさせるのではないか。


それぞれの和洋の開口部を外から見るとこんな見え方になる。
洋の方は、その形状が驚きを与えるだろうけれど、
和の方は「奥行き」を強く感じさせられる。
たぶん「レイヤー」の感覚が働いて、重層感が伝わるように思う。
もちろん「気密性」ということでは雲泥の開きとは言えるのだけれど、
こういう外部との関係の取り方というのは、
日本人の基本的志向性としては共感を持てる。
現代では、ガラス窓の断熱性気密性が進化してより大型化し、
欧米でも、むしろこうした視線開放感重視に向かってきている。

北海道の住宅は、このふたつの開口部空間性の間で
行きつ戻りつを試行錯誤してきたようにも思えるのですね。

【地元産材が彩る和洋混淆の調和「清華亭」】




きのうの続き、明治13年建築の開拓使建築の華「清華亭」。
この建物は周囲を偕楽園庭園が囲み、さらに造園設計としてドイツ系米人
ルイス・ベーマーが和洋調和した庭園を造作したとされます。
かれは札幌地域名産とされた「りんご栽培」なども手掛けたそうです。
お雇い外国人たちというのは、実に深くこの地の開拓に関わっている。
わたしたち北海道人には日本中のDNAのブレンドが見られるけれど、
同時に日常的なメンタリティ・価値判断にインターナショナル性もある。
ちょうど時代が明治に遭遇したこともあって、
他地域とはかなり文化や趣向組成に違いが出たものでしょうか?

和洋混淆という住宅のスタイルは、
積極的に「洋造」を取り入れる大方針から、
実際の実施段階に立ち至って、やはり日本人としての美意識も反映させる、
そういった日本らしい「文明の咀嚼」を追体験する営為。
この清華亭に至って、明確な貴賓使用を前提とした施設でもあり
和の空間でも洋の空間でも本格的な意匠を施しながら調和させている。
構造材にはトドマツや一部にアカマツ、造作材として
ヤチダモ・カンバ・セン・カツラなど地元産材だけで構成されている。
開拓の初期には秋田能代から北東北の木材がもたらされたのですが、
この時期明治13年段階では、開拓使での製材が進捗していた。
さらに暖炉煙突や土台石、玄関土間、外部敷石などに札幌軟石。
開拓使として地域の産業育成、地場産業の振興を施政方針とし、
天覧に供するこの建物で、その施政方針を「直答」したかったのでしょう。
天皇はこの和室から縁に立たれ、庭園の景観に満足したとされる。
そこにも和と洋のブレンドが表現されていた。
・・・という逸話からは、やはり洋の間よりも和の間に
天皇自身の自然な「くつろぎ」空間嗜好性もあったと思える。
これらの構造材などは径の大きな材が使われ丁寧な施工がされて、
140年ほどを経ても基本構造はしっかりしている。
<この建築は数奇な運命をたどり、1961年に札幌市有形文化財指定、
1978年に復元工事がされて往時の華やぎを取り戻した>
主要な居室は15畳の和室と、建物外観を特徴付ける円形の出窓、
ベイウィンドウを持った16畳相当の洋室の2室。
こちらの洋室にはシャンデリア。吊り元には円形飾りメダイオンが付き、
桔梗模様が彫り込まれている。和を意識した意匠。

このシャンデリアは蝋燭が明かりだったとのこと。
北海道で電灯が点るのは明治24(1891)年だったのです。
その間で、せっかくの大工事・開拓使本庁舎も焼失してしまった・・・。
繰り返される火災被害から近代国家としての基本的建設事業は
どうであるべきか、西欧先進文明とは石造建築文化を基礎とする
耐火性の高い「建築蓄積」であるのだと深く思い知ったに違いない。
彼我の相違を間違いなく為政者は感じたと思う。
防火の基準への偏執的固執は、近代主義国家としての基礎になった。
日本の為政方針は理の当然として定まっていったように思われる。
江戸期からの離脱とは建築としてはそのようなものだった気がします。
エネルギーを集中して新国家を建設し、欧米列強を坂の上の雲として
はるかに目指した開発国家に、電化は絶対不可欠なものだったでしょうね。

【明治14年 天皇北海道行幸と「清華亭」】


近代国家に至るにはいろいろなプロセスがあるだろうけれど、
有色人種国で日本だけがなぜ明治維新からの急激な近代化を成し遂げ得たか、
もと左翼少年であるわたしには、よく理解出来ない部分があった。
もちろんいろいろな要因があるだろうけれど、
最近ブログで明治の開拓という少年国家日本の軌跡を追体験するに付け、
明治ニッポンの国体、明治天皇の存在自体が相当大きいと気付くようになった。
明治維新混乱期、薩摩の大久保利通は古色蒼然とした京都公家政権という
旧来型「天皇制」を否定し西欧近代君主制に変貌させるべく
君主としての明治帝の意識改革・教育を志していたとされる。
公家は武家などに天皇に直答させず「奥の院」化させて
そのコミュニケーションを担当する公家だけが枢機に参画できる
武家政権以前の王朝国家はそういう体制でやってきていた。
徳川政権が崩壊し王政復古となったとき公家はその再興を画策もした。
しかし大久保たち薩長はこの若き君主を因循の京都政局から引き剥がし
列強と対等の新国家の中心たる「君主」として涵養したのだ。
最終的に江戸への天皇の移住・東京遷都で明確な国家意思を示せたけれど、
その前に大阪行幸させ「近代国家」そのものの海軍艦隊を天覧閲兵させている。
そのときの新時代への明治帝の目の輝きを見て大久保は内心深く歓喜した。
「この君ならば・・・」と感動したとされる。
易姓革命を繰り返した中国では、清国皇帝とは凶暴な征服独裁者でしかなく、
朝鮮でも国体を体現するような民心を得た君主ではなかった。
ひとり明治国家だけが、武家政権成立以来永く「君臨すれど統治せず」という
英明なる君主のありようを体現できていたといえる。
このことは日本の歴史的政体が天皇ファミリーの独裁ではなく、
ある大きな目的に向かってこの国家民族が走り出すときの「御旗」として
天皇制が大きな役割・機能を果たしてきたことを表している。
・・・そんなことが大きく認識されるようになって来た。
無私性を伝統として持つ天皇権力と士民の「勤皇」が発展原動力になったと。

北海道住宅始原期においても、明治帝はこの土地を深く愛惜され、
常にこころを砕かれていたと思われる。
いま帝の思いは自ら遣わされた開拓三神とともに北海道神宮に鎮座する。
<この地への志をはるかに忖度され明治帝は北海道神宮祭神となられている。>
ロシアからの略奪危機に深い憂慮を持ち、この地の殖民繁栄を祈念されていた。
明治改元からの開拓使の開拓努力が一段落した明治14年に北海道行幸された。
当時のこの地の民にとって相当なインパクトがあっただろうと思う。
なにしろまだ10年ちょっとしか開拓できていない段階で
国体そのものの最高貴賓をお迎えしなければならないのだ。
遙かな後年、孫の昭和帝も敗戦後ほどなく北海道に行幸されたが、
「自分が行くことで決して北海道を見捨てはしないと伝えられる」
とお言葉を遺されたとされる。
祖父・明治帝の薫陶と思いがそのようなコトバになったと思える。
宿舎として日本初の本格的洋風ホテル「豊平館」を新築したり、
日本最初の「公園」偕楽園(水戸と同名)を現在の北7条西地域付近に整備した。
しかし開拓殖民の道半ばの時期であり、満足に休息いただく建物もない。
そこで明治13年に貴賓来臨御座所「清華亭」は偕楽園のなかに建築された。
現在の住所は札幌市北区北7条西7丁目。
天皇の視察行幸での「句読点」として整備した公園をご覧いただき
メムの豊かな湧き水にサケまでも遡上する北海道らしい自然を天覧に供した。
さらに北海道の農林産業発展のための種育施設も整備していたとされている。
明治帝にとって北海道開拓は、国家そのもののある核心部分だったに違いない。

きょうは、明治帝のことだけで筆が尽きてしまった。
明日以降、この清華亭を建築取材的な視点から見ていきたいと思います。

【零下10度前後の朝、氷結美を観劇する】

どうもことしは小雪傾向の札幌であります。
しかし寒さはこの時期の平年並みには推移しているのでしょうか。
早朝散歩時にはだいたい零下10度くらいにはなっている。
気合いを入れて出掛けますが、首回りには重厚な「襟巻き」をする。
で、口元から鼻までスッポリ覆ってしまうのですが、
歩き始めるとすぐにそのあたりが息苦しくなる。
息から水分が排出されるけれど、それがすぐに結露して
つらくなるのであります。
なので、ときどきそのあたりをずり下げて新鮮外気を呼吸する。
でも寒いのでまた上げて寒気を防ぐ、またズリ下げる、を繰り返す。
人体水分と寒気の相互作用のコントロールは、
寒冷地の冬の定番的・習慣的な生きる「戦い」であります(笑)。

そういう水分と寒気というものが面白い美感を提供もしてくれる。
写真はわたしのここ数日の散歩道、
琴似発寒川にかかる橋から川の段差部分をみたところ。
この河川では、このような高さ調整を多数行っています。
水平落差がけっこう急なので流量をコントロールする意味があるのでしょう。
ダムの放流のような箇所があちこちで見かけられます。
こういう場所では人工的な「滝」部分が水分と寒気の作用で
零下になってくると氷結の状況が独特の造形をもたらす。
水平面でも氷結平面が微妙な描画を見せてくれる。
その様がなかなか「静と動」という感じで対比的で面白い。
主役は水と寒気ということになりますが、舞台は人工的コンクリート。
それをほぼかぶりつきのような「橋」の上から毎日観劇する(笑)。
「おお、きょうは滝の凍り付きぶりが面白い」
「おお、あそこでは落水そのものが凍っているぞ」
「一方、水面はあくまで静謐に月明かり、じゃない、街灯を受けていい感じ」
みたいな歌舞伎役者の動作のようであります。
・・・まぁまるで怖いもの見たさのようではありますが。
重厚なダウンジャケットなどの防寒衣装を装着すれば、
寒さしか造形し得ない「環境美」を楽しむことができる。
たぶん住宅も同じで、高断熱高気密化することで
外気の寒さと断絶した空間から、そうした「自然のうつろい」を感受できる。
札幌では一時期、ブリザードを室内から静かにたのしむスポットが
話題になっていた。降りしきる吹雪にサーチライトを当てて
その「1/f」のゆらぎを楽しんでしまおうというスポット。
わたしも何度か、そういう景色を楽しんでおりましたが、
こういう「花鳥風月」というものは、北海道が最初に気付き楽しんでいると思う。
まだ大雪が来なくて足下は軽快で寒さだけが進行しているイマドキ、
せいぜい楽しんでおきたいと思います。
あ、でも大雪は大雪でオモシロさもたっぷりあるんですよね(笑)。