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【145年前の札幌街区写真から立ち上る感覚】


この写真群は、北大のデータベースに登録されている資料写真。
開拓期の北海道の様子を数人のカメラマンが撮影し続けていた。
日本民族が一丸となって北地開拓に取り組んだことは、
かれらにとっても、身が震えるような思いがしただろうし、
きのうまでまったくの未開の地であった札幌が、
刻一刻と変貌していく様は、写真というツールを手にしたかれらにとって
きわめて興味深い被写体であったに違いない。

明治6年の札幌の居住戸数は634軒だったとされる。
人口にして見れば4人家族として多分2000-3000人程度。
それが現代では200万人に手が届きそうな大都市に変貌した。
完全な「計画都市」で非常に人工的に造営された地域中心都市。
きっと「平城京」とか「平安京」といった都市も
このように計画され造営されていったのではないか。
そういう民族にとっての貴重な直近の追体験が写真で伝わってくる。
見えている建物をたとえば平城京宮殿と置き換えれば想像できるものがある。
平城京建設は全国に負担が強制されたが国が貧しく産品を献納できなかった
飛騨国はその民の建設労役「飛騨の匠」として貢納した。
それが建設における技量の全国的名声を博した嚆矢とされるけれど、
そういう具体的事実に映像的にも想像力のピントが合ってくる。
3枚の写真を選択してみたけれど、
かろうじて上の写真が、右手に小さく「開拓使本庁舎」が写っていて
その遠景に「藻岩山」山体がなだらかな稜線を見せている。
たぶん開拓使仮役所、現在の北5条東1丁目付近から
やや南西方角にカメラを向けたように思える方位感覚。
この当時の「高層視覚」として、開拓使仮役所「望楼」にカメラを据えて
アングルを狙ったに違いないと思われます。


こんな145年前の時空間感覚が具体的に共有できるのは、
「歴史が浅い」北海道ならではの面白い時間トリップだと思う。
そのときのカメラマン心理までが浮き彫りになる瞬間があるのです。
わたしもご多分に漏れず、北海道には歴史がないから、
というなかば以上は「諦め」のような感覚を持ち続けていたのですが、
写真資料が遺されているこの150年時間は得がたいと思えるようになった。
この時間の中では「ひと繋がり」の歴史時空間が感覚できるので
歴史を掴み取るワングリッドとして活用出来る。
いわば時空間のひとつの尺度とでもいえるのでしょうか。
その感覚をたとえば江戸時代に平行移動させれば、見えなかったような
機微がくっきりと確かな容貌、具体的想像力として見えてくる。
「きっとこうだったにちがいない」という推定が働いてくるというか。
このなじみ深い時空間を歴史理解の「ひと目盛り」とすれば、
その2倍3倍、10倍という時間感覚も見えて来やすい。

年末挨拶で出会うみなさんからも
ときどきこういったわたしの「歴史紀行」について話題を振られる。
SNS時代というのは、個人の興味領域が共有化されて
ある面白い拡散を見せてくれるものだと実感させられる。
人間コミュニケーションにも大きな変位が起こっているのでしょうね。

【冬至 来たりなば、春遠からじ・・・ではないか(笑)】

写真はわが家のすぐ近くを流れる「発寒川」緑地から。
早朝の散歩の時間帯、午前6時過ぎの様子であります。
お利口さんで年中早寝早起き習慣がすっかり身についているせいで、
こういった景色をふだんから普通に見られている。

自然、ということについて考えることが多い。
わたしは小さいときから「遠くまで行きたい」と漠然と夢想する性向。
住んだのは記憶に残る時間からはほぼ札幌で、
一時期8−9年ほどの東京、の2地点だけですが、
行くだけなら日本中、大分県以外はほぼ歩きまわってきた。
でも結局地球の上でのことなので、ちっぽけな人間には
その地域の「奥行き」の方が知ることが多いと感じるようになった。
この写真のような光景に、いまこの瞬間として強く惹かれる。
いつもこの場所に住んでいるのに、こういう風景もあった、
というような気付きが得られる瞬間が多い。
考えてみれば、結局は生々流転、万物はゆれ動いているので
定置的であっても、瞬間瞬間で見え方はまったく変位する。
「遠くまで行く」ことは水平的なことではなく、
むしろ時間を含めた「垂直的」な感受性の問題ではないかと。
地域性はその土地の土や水を提供するけれど、
それ以上に太陽や天体や時間経過のほうが、支配的であることに
あたりまえだけれど、気付かされる。

さて今週は冬至も過ぎて、ほぼことしの最終週であります。
来年に向けて準備の加速が重点になって来ます。
ひとあし早く、春への準備開始といったところ。
しかしことしの北海道札幌は根雪が遅いかも知れません。
このまま、小雪の傾向が続くのか、
しかし忘れた頃に大雪は襲ってくるものなので、スキは見せられない(笑)。

【現代世界の怪物「グローバリズム」対民主主義】

しばらく現実世界とはやや離れた過去住宅取材にブログで没頭(笑)。
それは一種の「ライフワーク」といえるので、
今後とも継続していく考えですが、現実世界も大きなうねりが。
マルクスではないけれどいま現代世界は
「グローバリズムという怪物」への対応が試されているのではないか。

日本では「現代史」というのはほとんど学校で学ばない。
それを忌避するなにかがあって、現実の現代世界の中で
日本はどう舵取りしていくべきか、という「現実論」が出てこない。
空想的理想論はなんの役にも立たないのは歴史が雄弁に物語るのに。
情動的な「正義感」論に欺されてはいけない。
ちょうど好きなNHK番組「英雄たちの選択」スピンアウト版で
「昭和の選択」と題して太平洋戦争・真珠湾攻撃に至った
山本五十六連合艦隊司令官に焦点を当てた番組があった。
これまで過去史について楽しく学ばせていただいてきたけれど、
いかにわれわれが、敗戦にまで至った状況「解析」すら忌避してきたか、
深く考えさせられてしまった。
開戦直前まで対米戦争回避論の急先鋒であったかれは
開戦に向かおうとする海軍意志決定会議で
「重油はどう確保するのか、鉄はどう調達するのか」
という至極当然の論理を展開したけれど、多数派を形成できなかった。
なぜ多数派工作出来なかったのか、という個人の資質もあるだろうけれど、
背景としては情動的な「国民世論」が強すぎた様子がわかる。
<このように番組編集されていたわけではない。わたしの見解。>
この当時はインターネットがない時代なので、情報はひたすらマスコミ、
それも新聞に局限され「扇動」された世論に引きづられる。
日露戦争では英米資本からの「戦費調達」が戦略的成功し、
奇跡的な日本海海戦での勝利という僥倖が重なって、
なんとか戦勝国の立場を形成できた。基本的には日英同盟の結果。
しかしそのような抑制的な認識は、マスコミの情動報道姿勢で
国民的には「勝ったのに、戦争利益が少ない」みたいな方向に向かった。
日本海海戦にしろ、真珠湾攻撃にしろ、
日本は短期的な局面では驚くべき成果を挙げることが出来る国家だけれど、
しかし、戦争を冷静に領導できるほどの「民主主義」世論を
社会として持つことが出来なかったのだと思う。

ひるがえって現代。いま「グローバリズム」という怪物が主役だと思える。
EUという広域通貨圏が誕生しグローバリズム支配が貫徹かと思われたけれど
それこそ「民主主義の発祥地」イギリスがブレグジットの道を選択する。
民主主義らしいプロセス重視の結果で混乱が続いたけれど、
来年早々にEUからの離脱に完全に道は整頓された。
アメリカでもトランプという既存マスコミから「バカにされた」指導者が
大統領に就任して、いま「弾劾」を左派政党・マスコミから
突きつけられているけれど、現状の冷静な分析からは来年「再選」の
可能性が高まってきているとされている。
アメリカのこの「政変」もまた、反グローバリズムの表現だろう。
現代ではグローバリズムはむしろ既得権益側に根拠を持っている。
結局、グローバリズムの負の側面、移民による治安の悪化
国民国家社会自体がシロアリに食い尽くされるような危機を忌避し、
社会が毀損することに「民主主義」が本能的に異議申し立てしている。
この異議申し立てについて、既成マスコミはむしろ反対の立場を取っている。
「バカなトランプ、ブレグジット」という印象操作。
既存メディアの「世界はひとつ」的なお花畑スタンスぶりは驚くばかり。
その功あってか、日本では消費税が8%に新聞は据え置かれた。
恥も外聞もすべてなくなっていると思える。
いい加減に、自分たちは「既得権益・絶賛応援団だ」と自白すべきだ。
まるで既得権益化したグローバリズムが正義だといわんばかり。
グローバリズムで最大の利益享受者は共産党独裁国家中国であり、
相対的割安通貨ユーロを手に世界での経済利得を得たドイツの両者だろう。
よくみれば、大状況はふたたび世界大戦的緊張局面に向かっている。
北朝鮮の危機も非常に高まっている状況だと思う。
既成メディアは日本人から冷静な国際判断力を奪わないで欲しい。
民主的な国家体制、海洋国家英米との日本の基軸的同盟関係への試練は、
深く現在進行しているのではないかと危惧されます。

【古代北海道へ進出の海民 生業と大型住居】

北海道住宅始原への旅、スピンアウト6-7世紀の竪穴住居、きのうからの続篇。
蝦夷地と言われた北海道島では、やがてアイヌ文化に収斂したけれど、
その過程ではいろいろな民族的混淆があった。
大きな動きとして「オホーツク文化人」の人々の進出痕跡が色濃く残っている。
かれらは北東アジアから「南下」した人々で海生生物狩猟が主たる生業。
で、これまで北海道の古代史探究から以下のような推測を強くしております。

かれらは北海道東部海岸部を中心に、宗谷半島を回り込んで日本海側の北部、
礼文島や利尻島、さらに南下して奥尻島まで居住痕跡がある。
きのうみたように大型海生動物、クジラ捕獲まで生業としていた。
既存の居住者である(のちの)アイヌ民族とはまったく社会を異にしていた。
しかし交易の対照としては、日本社会との直接交易を目指していた。
かれら側からは大鷲の羽根や海豹の毛皮などの貴族向け「威信材」が
交易品として珍重されたと王朝側の記録がある。
(鷲羽根は男性貴族の階級象徴として矢の装飾に利用され、
海豹(アザラシ)の毛皮は女性貴族の装身具になったという。)
いまでも流氷とともに発見されるオジロワシですが、
この最高級の羽根を持つ鳥類は当時から道東知床や根室地域が主産地であり、
その地域はオホーツク文化の人々がほぼ独占占拠していた。
やや時代を下って平泉藤原氏の交易ネットワークでこうした産品が
ヤマト国家社会に「安定的に」もたらされるようになる状況がある。
一方でかれらが希望したヤマト側の交易品はまずは鉄製品だったとされる。
狩猟の生業維持拡大のために最適な「鋭利器」として鉄器を強く求めた。
阿倍比羅夫はアイヌ社会との伝統的交易「外交」関係を優先して
また、アイヌ社会側も対オホーツク文化圏との緊張関係の中で
ヤマト国家側の海軍的武力を「利用」したと推定できる。
日本書紀記述の阿倍比羅夫の条は、こういった勢力関係を表現していると思う。
北海道島の「歴史」においてこのオホーツク文化の「海民」の動向は
かなり大きなインパクトを持ったものだったといえるのではないか。
上のイラストは昨日も紹介した
海に生きたオホーツク人ー総合研究博物館データベースー東京大学オホーツク氷民文化・海に生きたオホーツク人<高橋健> からのもので、
かれらの後のオホーツク海岸域の住民であるアイヌ生業を表したもの。
『蝦夷山海名産図会』にみるアイヌのオヒョウ漁。ノトロ(網走の能取)浜。
(松浦武四郎(秋葉実翻刻・編)『松浦武四郎選集二』北海道出版企画センター図23、
1997より)〜とあるとおり、江戸末期の探検家・松浦武四郎の筆。
オホーツクの海民はアイヌの社会にクマ祭祀などを遺して
同化して消滅していったとされているのですが、
オヒョウのような最大4m超の大型魚類の漁撈技術痕跡をとどめたようです。



そうしたかれらオホーツク文化人の竪穴住居。
〜上写真は道東標津カリカリウス遺跡復元住居。中図は12.6「北海道古代集落遺跡」
セミナーでの東京大学・熊木俊朗先生発表の図表類から。下写真は同日配布の
パンフから竪穴室内外周壁面の土留め兼用の板壁と「ベッド」部の炭化痕跡。〜
きのうも触れましたが、たいへん大型でたぶん1つの「漁船」乗組員を
一単位とした「住居」と想像できる5−6家族同居の大型住居。
このように「家族関係」で結ばれることで船上でのハンティング・漁撈での
共同作業がより円滑に「一心同体」的に可能になったのではといわれる。
大型だけれど囲炉裏はひとつだけで、煮炊きは共同していたのでしょう。
狩猟の結果のクマ主体の「骨塚」が室内に祭壇のように定置される。
森の精霊とされるクマへの独特の「民族的リスペクト」が込められているのか。
炉の周りの床面には粘土が塗り固められて居住性が高められている。
現代住宅とはまったく違う文化組成だけれど、その家づくりには
実にさまざまな生業文化が積層されていると感じられる。
その暮らしぶり、生き様がマジマジと伝わってくるかのようだと思います。

【6-7世紀北海道海民・竪穴掘削の「鯨骨スコップ」】


さて「北海道住宅始原期への旅」ですが、本日は
日本国家が本格進出して札幌に開拓使本庁を設置した明治初期から
一気に1200年遡って「古代集落遺跡群」セミナー資料からの論考。
北海道では11-12世紀アイヌ期に竪穴から平地住宅・チセに変わりますが
やはりそれ以前の竪穴住居について、強い興味を持っています。
というのは、いったいどうやって「穴を掘ったか」に興味がある。
写真下は6-7世紀の特異な存在である海民・オホーツク文化の遺跡
「カリカリウス遺跡」に建てられた復元住居内部。
こちらの竪穴は現代寒冷地の「凍結深度」並みで、なんと1mもの深さ。
「オホーツク文化」では竪穴が大型で5−6家族が同居と言われるので、
もちろん共同作業の人数も多いのだけれど、それにしても
1mも掘るのはなかなかの重労働だと思えるのです。
その上、かれらの家では地中壁に「割り板」が建て並べられている。
木を切り倒すのには伝統的石器・石斧などが用いられたでしょうが、
割板を造作するのは、それも手間暇の掛かる作業だろうし、
それをタテに土中に埋め打ち込んでいく作業もある。
さらに、この竪穴では真ん中の土間部分・囲炉裏を囲むように
板敷きの「ベッド」が周囲に造作されているのです。
さらに架構の木材を建てたり、組み上げたりしなければならない。
それに今度は樹皮で外装していく作業もあった。入口は高くしているので
上るにも降りるにも「ハシゴ」や階段の造作も不可欠だった。
囲炉裏周囲の床面は、粘土で平滑に塗り固められている。
相当の作業と技術がこの竪穴には動員されていたといえるのですね。
まず、竪穴掘削作業の労苦はかなりの重労働だったことが確実。

その掘削「道具」は当然、スコップ状のものが使われたでしょうが、
竪穴遺跡から木製の出土例はあるようですが、木製だとどうしても
掘りにくいし、炭化して残らないケースも多い。
で、北海道オホーツク文化遺跡(根室)から上の写真のスコップが出土。
土と接して掘削する本体部分ですが、これに木で持ち手を結合させれば
現代人もふつうに考える「スコップ」道具になる。
それがなんと骨角器。それも大型の「鯨の骨」だというのです。


ということで、かれらの生業・ライフスタイルへの想像力が俄然盛り上がる。
この写真はこれも骨角器の「針入れ」。(根室の6-7世紀の遺跡出土)
獣骨を切ったイレモノに繊細な線刻画が施されている。
この線刻画には鯨と思われる海生動物に「銛」が打ち込まれ、
それを船に乗った人間たちが櫂でこいで追跡し、船上から
さらにいま、鯨にトドメを刺そうと銛を構えている構図が描かれている。
大型の海生動物のハンティングがかれらの生業だったのです。
鯨の骨はこのような海生生物漁撈の結果得られた産物。
海に生きたオホーツク人ー総合研究博物館データベースー東京大学
オホーツク氷民文化・海に生きたオホーツク人<高橋健>の記述ではさらに、
「海での活動には欠かせない船について。北方民族の用いる船としては丸木船の他に板張船、板綴船、皮船、樹皮船などがある。これまでのところオホーツク文化の船そのものが遺跡から出土した例はないが、船を模したと考えられる製品がいくつかある。(それらの分析から)船首が棒状に立ちあがることから板綴船もしくは板張船だと考えられている」〜という記載がある。
こうしたダイナミックな生業と造船技術をかれらの社会は持っていた。
とくに「板綴船もしくは板張船」ということから前述の住居での板の加工も
技術的にはまったく同一だといえるでしょう。
人類史的に「家大工」に先行する「船大工」技術の相関を強く示唆する。
しかし、かれらオホーツク人社会にとってはさらに強力な先進技術ツール
「鉄器」の交易入手は、やはり喉から手が出るほど希求したとされる。
この線刻画自体、貴重な鉄製ナイフで描かれているのです。
結果、北海道島の先住民族(のちのアイヌ)と日本社会との交易に干渉し
直接日本との交易を求めたのではないかと想像される。
それが658年前後の阿倍比羅夫の遠征で軍事外交的に敗退し、撤収した。

明治を遡ること、さらに1200年以上前に
こんな北海道「住宅史」が浮かび上がってくる次第です。
<あしたもこのテーマで続篇予定>

【冬の散歩道の「メム」 札幌の豊かな伏流水系】


ここのところ、ワンテーマ的に明治初年の北海道住宅始原期への
過去探索を続けてきておりますが、本日はちょっと小休止。
ブログという形式の特徴として毎日適度な分量を書けるので、
ワンテーマを継続探究することはやりやすい環境条件だなぁと実感。
SNS情報交流というまったく経験したことのない人間環境も
知人のみなさんとの「共同作業」的な対話を構築できる。
きっとこうした試みはかなり多く実践されているのではと思います。

さて季節はどんどん過ぎてきて師走まっ盛り。
年末進行の出版作業も進行していた雑誌類が製本仕上がりラッシュ。
ということでやや一段落、すっかりサボっていた散歩を
思い立ってここ数日、再開しております。
わたしの散歩コースは北海道神宮境内から円山公園周辺。
リスたちは雪の少ない残りわずかなこの時期、あちこちで出没。
必ず寄り道する写真の池ではすっかり冬毛に覆われたカモたちが
なかば氷結した水面で群れている。ポーズを取ってくれた(笑)。
この池はアイヌ語のメム〜「湧き出る泉」の造形。好きな語感。
札幌という地域は、豊平川水系をはじめとした
周辺山岳に水源をもつ河川が複数扇状地を形成したエリア。
札幌市内中心部を流れる豊平川の豊富な水の一部はいったん
藻岩山突端部の軍艦岬と呼ばれるあたりで地下にもぐるために
札幌の地下には豊富な水脈がある。
北海道庁、植物園、北大構内にある池などがメムの名残り。
世界の言語でも似た語感の単語が「水」に対して与えられるとされる。
下の写真は北大構内に残るメム。豊かな水量に驚かされます。
そういえば、この近辺に開拓使の協力者・琴似又一が明治初年期の
アイヌの長として、この場所近くでコタン集落を作り定住していた。
かれらにとって命の水であったに違いない。
さらに始原期の札幌は小鳥の鳴き声が賑やかな土地だったとされる。
鳥たちにとっても緑の中にメムが点在する環境は生きやすいのでしょう。
小鳥が多い場所は大きな都市ができるという「都市伝説」も。

ときどきこういう繰り返しのフィールド学習は執筆作業にも欠かせない。
久しぶりに身体を動かすと身体機能が目覚めてくる感覚がある。
いわゆる「バランス感覚」もこういうカラダの平衡感覚が基本。

ということですが、やはりいまのテーマからか、
神宮境内の「開拓神社」の祭神名を見ると、
よく名前を書く黒田清隆、島義勇、岩村通俊などの名が刻まれている。
馴染みが深くなってきて、とても他人とは思えなくなっている(笑)。
無言の叱咤を感じる次第であります。合掌。

【開拓使明治6年建築・基礎に地元産石材?】


北海道住宅始原期への旅シリーズ、2日間にわたって
明治6年開拓使建築の住宅サイズ「洋造建築」を見てきたのですが、
読者のShigeru Narabeさんから「洋造弐邸も本庁分局も、基礎に石山軟石を
使っているのではないか」という指摘をいただいた。
どちらも貴賓なり外国人教師なりの宿泊利用を想定した建築であり、
また同時期に平行して初期開拓使建築の白眉といえる「開拓使本庁舎」が
建設されているので上の写真を子細に見れば、たしかに
本格的な「洋造」として基礎を石材で造作したことは蓋然性が高い。
どちらも和風建築と違って、玄関へは数段の階段を上る仕様になっている。
基礎がしっかりと積み上げられていると見える。
で、さっそく北海道内有力建築研究家〜本人希望で名は伏せます〜へ
確認の連絡を差し上げたら「史跡開拓使札幌本庁舎跡および旧北海道庁本庁舎
保存活用計画(素案)」という北海道の資料をお寄せいただいた。
そのなかにこの事案に対する回答が記述されているという指摘。
〜開拓使札幌本庁本庁舎跡発掘調査について
(開拓使札幌本庁本庁舎跡発掘調査報告1968.8より)
●発掘調査によって、
・札幌本庁本庁舎に使用された石材が従来信じられていた
「円山」産の安山岩ではなく「藻岩山麓」産出の含石英普通輝石紫蘇輝石
安山岩であることが、専門家の調査で確定した。
<円山も藻岩山ももっとも札幌市近接の山々>〜
ということで、開拓使本庁舎では木杭を多数打ち込んだ上で、
この「藻岩山麓」産出石材を基礎に使用し建築しているとの指摘。
さらにこの文献は、開拓使明治初期建築の碩学・遠藤明久先生の
調査報告であることも複数の周辺事実から裏付けられているとのこと。
・・・すごい調査活動であります。発掘した石材を細密に組成分析依頼し
産出地を詳細に特定までさせている。<ふたつの産地間距離は2-3km>
こうした事実を丹念に掘り起こした遠藤先生の探究はすごい。
このことは同時に、開拓使本庁舎建設事業に当たってその使用建材を
札幌近隣各地点を調査して活用出来るものを探っていた事実が浮上する。
まことに岩瀬隆弘を筆頭とする明治の開拓使営繕課、おそるべき仕事ぶり。
今日のように用と材の最適物資が物流条件も含め容易に得られる環境とは違い
手探りの中、資材現地調達の原則から周辺近傍を丹念に探索したのでしょう。
現地周辺での建材探索がどのように進捗したか、想像力が刺激される。

こうした探究をはじめると奥行きが深くなりすぎて困る(笑)。
札幌・北海道ではやがて、お雇い外国人地質学者ライマンの手で
暖房を革命した石狩炭田が発見され、さらに札幌石山から
「札幌軟石」も発見され地域の建築材料として利用されるようになる。
札幌軟石については、その石工はどこからやってきたのかと疑問が膨らむ。
熊本城石垣造営した石工たちが江戸〜明治期に東京などで活躍の事実もある。
さらに「建築基準法」の前身1920年制定の「市街地建築物法」の
制定のはるか50年ほど前の段階で、建築への石の基礎利用について
どういう施工基準で対応したのか、その根拠は?という疑問も湧いてくる。
ちなみに明治6年から翌年の「琴似屯田兵屋」での基礎は周辺自然石利用の
「石場建て」が採用されている。<下の写真>
その違いは単に予算的な問題だったのか?決定根拠への興味も湧いてくる。
さらに石炭炭田の発見・活用で北海道住宅で必須の「暖房」が一変する。
建築の基礎に着目するだけでも、こうした渾然一体たる革新のるつぼ。
明治の時代的沸騰が北の地で湧き起こった実相が浮かび上がってくる・・・。

【ケプロンも滞在?明治の端正デザイン「洋造弐邸」】


明治6年というのは開拓使の建築がもっとも活況を呈した1年とされる。
象徴的建築としての「開拓使本庁舎」の大工事が進捗し、
さらに「お雇い外国人」たちがどんどん入地してきて、
いかにも北米的な「洋造新都市」がその骨格を表してきた時期。
北海道開拓という大事業が小さな歯車の住宅建築とともに進展する。
そういった「遠い記憶」の実相を見続けることは、
いま令和というあらたな時代の開始にあたって明治からの遠雷。
150年のタイムスリップは、しかしまったく古さを感じない。
むしろ日本を進化させようとする明治の必死さに深く打たれる。

明治5年以降、洋造方針が確立して北海道の建築は
それまでの日本の伝統建築から大きく離脱を開始する。
そのときに「お雇い外国人」という存在は大きな役割を担った。
ケプロンさんは、アメリカの「農務省」の次官から極東の小島の
開拓方針の策定アドバイスを委託される立場になった。
「開拓の先人」であるアメリカと日本との長き関係において
北海道開拓は、象徴的なことがらだったのだと思う。
そうしたアメリカを中心とする外国人「教師」たちのための居館が
建設されることになる。写真の「洋造弐邸」はそのシンボル。
よくアメリカの建築のベース「パターンブック」というものが語られる。
開拓時代は建築の専門家集団に委ねることが不可能に近かった。
そこで建築のパーツを単純化し、自分でDIYでも建てられるように
工法も建材も「合理化」が社会全体で追究された。
そのなかで住宅デザインについても住宅図面集である
パターンブックが一般的に流通していた。これであなたも一流デザイナー。
それが太平洋を超えて日本の北海道に「洋造建築デザイン」として
蜃気楼のように「移植」された原動力であったと思える。
この「洋造弐邸」も、非常に均整の取れたプロポーションであり、
窓の規則性の美しさ、軒の出の「薄さ」全体としてのシャープさも
それまでの和風住宅との乖離を感じさせ、驚きであったに違いない。
お雇い外国人の中に「建築」の専門家はいなかったとされる。
かれら自身の住宅について希望条件などをおおまかにヒアリングしたか、
あるいは開拓使営繕課がはるかに「忖度」して企画住宅として提供したか、
たぶん後者。建築構法自体は日本木造様式だけれど、
ほぼパターンブック通りの端正な住宅建築に仕上げられている。
幕末から明治の開拓使営繕課や現場大工たちの技術の急速な取得ぶりに驚く。
これはたぶん鉄砲が種子島に伝来された途端に、あっという間に
堺を中心とした地域で産業が成立し世界有数の鉄砲生産国に変貌した
そういった日本社会の故事、技術素地を再見する思いがする。

ここでも2階から「煙突」状の突起物が外部にみえている。
当時、ストーブの工場生産化が創意されていたとされる。
日本で初めて制作されたストーブは、1856年の函館が始まりとされ、
イギリス船が北海道に入港する際、寒さを凌ぐために使用していた
ストーブを参考に制作されたと言われている。
当初は薪が主熱源だっただろうけれど、その後北海道で石炭が発見され、
地域には必須の暖房熱源として安価に提供された。
わが家伝承では産炭地から流れてくる河川の川原で「タダで拾ってきた」(笑)。
この「暖房革命」も北海道開拓と同時並行で日本社会に根付いていく。

【明治6年開拓使デザイン住宅「本庁分局」】

一見するとこれが明治の公共建築として建てられたことに驚かされる。
非常に装飾性が強い建築であり、開拓使の建築の中で異彩を放つ。
こうした建築はどのような色彩で彩られたのだろうか?
もしカラー写真で残っていれば、そのまま現代といわれても不思議はない。

この建物は建坪59坪・起工明治6年4月、竣工8月。総経費7,872円余。
開拓使本庁舎、洋造弐邸に次ぐ経費を要したとされる。
洋造弐邸についてはあす、触れてみたい。
この本庁分局は開拓使を訪れる「貴賓」のための宿館とされている。
開拓使が札幌で次々と建築を建てて、洋造新都市を建設していることが
多くの要人たちの注目を集めたものか。
北辺の開拓の実情、その進展具合に接したいという希望は強かっただろう。
この当時判官職にあった岩村通俊の方針に沿ったものか、
設計者として岩瀬隆弘がこうした「洋造デザイン」に関わったものか、
そういう消息を伝える情報は残されていないけれど、
このような建築写真を見れば、横浜や神戸の外人街同様の
「ハイカラな」街並みが日本人の手で造成されている状況が見て取れる。
平面図は残されていないけれど、正面立面図が残っていて
その「断面図」状の箇所には邦尺の記入があるので
洋造デザインの住宅建築を日本の職人たちが見事に実現している証しか。
窓には格子状の建具が明瞭でガラス窓が装着されている。
切り妻総2階建てのシンプルな構成に装飾的付加が施される。
まず大きなポイントは正面と建物左手から背面に装置されたベランダ。
「洋造縁側」とでも現場大工たちは呼んでいたかと想像される(笑)。
基礎を高くして玄関まで5段の階段を上がる。
日本の伝統的建築には存在しないこういう半外部空間に
どのような暮らし方・使い方イメージを持っていたか、
初源の「造作した気分」を取材したくなる。
あるいは、すでに居留地としての横浜などでこういう洋造空間を
作った大工たちが呼び集められていた可能性も高いと思う。
開拓使の営繕には岩瀬隆弘がすでに勤務しているので、
1,200人以上新規に東京から集められた職人たちの選抜要項に
こういった「洋造経験者」という項目もあっただろうと推定する。
小屋根や軒先などの端部には過剰なまでの洋風装飾性が加えられている。
注意すべきは屋根頂部に見えている「煙突」。
これは室内に暖炉か、ストーブなどの「暖房装置」が据えられたことを
明確に伝えてくれている。

こういう建築たちが目に見える「坂の上の雲」を札幌に現出させた。
開拓使事業報告では、こうした建築について
「皆洋式ニシテ防寒ヲ主トス」というように高らかに宣言している。
やはり明治初年のこのような建築群が、その後の独自な
北海道住宅の「進化」を決定づけたインパクトだったのだろうと思う。
この年ようやく戸数634軒を数えたけれど、
その住居はおおむね出身地の建築様式としていた札幌定住者たちは、
こういった開拓使の住宅建築への「意志」表明をどう感じていたか?
それはその後の北海道住宅がたどった道筋が証していると思う。

【乱世・影丸の絶句「遠くから来て遠くまで行くのだ」】

先日ブログを書いていて、
なにげにいただいたコメントで強く響いてきた言葉があった。
ここ3ヶ月以上明治初年の北海道住宅の始原期に取材した
「日本の住宅2.0」の原初を探る、みたいな「歴史の根掘り」作業に
集中してきている。住宅と自分との証しのようなことかもと。
それなのに時折「マグロ勝手丼」みたいなブログも書く。
そういう様子を「三木さんはどこに行こうとしているのか(笑)」
みたいなコメントをいただいてしまった。
これがひどく自分自身のなかで「不意を突かれた」部分があったのです。
そのコメントをいただいたのが、高校時代のわたしをよく知っている方。
一気に、自分の出発点のようなことにタイムスリップ。

で、この言葉「どこにいくのか」フレーズの原点マンガ読書体験。
自分にとってこれが決定的なフレーズだったことに気付いてしまった。
それが上のマンガシーンであります。
白土三平「忍者武芸帳・影丸伝」最終シーンに近い影丸の死直前の絶句。
影丸は、戦国時代の民衆蜂起、本願寺顕如などの政治勢力を存立せしめた
大きな民衆の時代への怒りのマグマを組織化して
マンガらしい超人的な働きで信長、絶対支配権力と正面から戦う
まさに1960年代の「ヒーロー」そのものを仮託したキャラ。
顕如の謀略でとらえられた影丸の処刑は信長の到着を待つことなく
影丸のさまざまな忍術の準備が整わないうちに、立会人・森蘭丸のもと
拘束即日に5頭の牛に鎖を繋いでの「五体の分解」という
残虐そのもののカタチで行われた。
その処刑直前、「無声伝心の法」で森蘭丸に伝えられたのが、
「われらは遠くから来た。そして遠くまで行くのだ」
という辞世絶句だったのです。
当時は69-70年安保闘争に向かって若者たちの心理が高揚していた。
左翼運動の主張が自分自身で本当に考えたものであるかどうかは
そう深くは考えることはなかったけれど、
しかし、生き方として「美的」であるかどうかから判断すれば
このような絶句を残して刑場の露と消えた生き様に、
マンガフィクションとはいえ、強いインパクトを受けていた。
たぶん「理よりも美」の日本人的「心性」に深く根ざしているのでしょう。
「遠くまで行くんだ」というフレーズは、当時を生きてきた人間には
臓腑のなかにしまいこまれたような感情を呼び覚ます。
この作品発表当時にはこの作品に対して「唯物史観がどうのこうの」という
作品評までが大真面目に語られていた(笑)。
その評自体は左翼的に利用する意図があきらかで嫌悪させられますが、
しかし作品へのリスペクトはいまも変わらない。

書棚の奥深くに眠っていたマンガ本から
そのシーンを50年以上経って再読したくなって引っ張り出した(笑)。