
駆け足でしか歩けなかったので、この写真の建物、
「みんなの家」陸前高田について、きちんと見学することは出来ませんでした。
不勉強で、こういった動きについてあまり情報はなかった。
建築家の伊東豊雄さんが中心になって、
乾久美子(建築家)
藤本壮介(建築家)
平田晃久(建築家)
畠山直哉(写真家)
というチームが、全的被災地である陸前高田で建築した施設なのですね。
この「作品」をもって、めでたく(?)第13回ヴェネチア・ビエンナーレ建築展
国別参加部門の最優秀賞である、パヴィリオン賞(金獅子賞)を受賞したそうです。
被災地で住宅復興についての取材活動をしていると
いわゆる建築デザインについての考え方は後景になるのを避けられない。
それ以前に、生きていく実質についての問いかけが
不断に迫ってきて、考えが及ばなくなってくる。
ギリギリの与条件のなかで、まず第一に「環境要件」を満たすことが
設計者に求められる基本的な要請だと思えてくる。
きびしく凶暴でもある自然の猛威を体験した人々に
まずは、建築は安全と安心をこそ提供すべきであって、
その則を超えて、被災した立場でもない人間が、その建築を通して
「個性的」であることを主張することは、はばかられる感じがした。
多くの、ボランティア的な動きをしてきた建築関係者の内語として
このことは共有されていたように思う。
菅直人が招集した「復興国民会議」に「有名」だからということで
安藤忠雄さんが選ばれていたけれど、
まさか、震災の象徴としてのモニュメントを安藤忠雄作品として作る
そんな展開になるのでは、と思っていたら、案の定、
そうした内容の「趣意書」が出てきて、息をのんだ記憶がある。
それが実現したという話は聞いていないけれど、
そのときに、菅直人の政治家としての小ささを実感した気がした。
あの過酷災害の時に、いちばんその立場にいるべきではない人間がいたことで
その後の民主党の瓦解が決定づけられたのだと思う。
建築の賞というのは、
一体、どういったことなのだろうか?
けっして肯定的ではない、いろいろな声を聞くにつれて
どうにも持ちきれないものを感じさせられてしまいます。
Posted on 7月 26th, 2014 by 三木 奎吾
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きのうは朝1番で家を出て東京日帰り出張。
本当は2泊する予定だったのですが、本日朝から日程が入ったので
やむなく強行軍日程であります。
炎暑の東京、覚悟して向かったのですが、
確かに日射を外でまともに受ければつらいですが、
きのうはやや曇り空だったこともあって、過ごしやすく、
北海道も暑かったそうなので、思ったほどの厳しさはありませんでした。
ただ、時間ギリギリだった帰り道のモノレールに乗ったら
あちこちでピカピカと雷だらけで、強烈なスコールも。
すぐ近くでも落っこちて、猛烈な雨とともに肝を冷やさせられる。
さすがに日帰りはややきびしい日程で、帰ったらバッタン状態でありました。
さて、きのうの取材先は東大本郷で行われた
「蓄熱シンポジウム」であります。
たくさんの発表が行われたのですが、
いちばん最初に発表された国総研の三浦先生の発表から
表題のような外皮性能についての4つの要素技術がまとめられていました。
まことに簡潔でわかりやすい。
日本の木造住宅では、簡素を持って尊しとしてきた伝統からか、
蓄熱容量はほとんど顧みられなかった。
世界の多くの地域で使われた住宅建築素材は石や土だったのに対して
木では、蓄熱容量は比較にならなかった。
で、蓄熱なのですが、そのふるまいについて、
明示的に効果を特定することが、これまでなかなかできなかった。
とくに潜熱蓄熱について、その研究が進んでこなかった。
シンポジウムでは、海外での効果研究アプローチの事例検証や
建材試験センターの方から、やや専門的な解析結果なども発表されていました。
膨大な発表資料もあったのですが、
そのあたりは研究者のみなさんに解き明かしていただきたいところ。
また実践者として、北海道での潜熱蓄熱材利用、「i-Wall」の石戸谷さん、
京都の左官屋さんの息子という設計者の豊田さんの発表がありました。
こちらは、実例発表ですのでたいへんわかりやすく、
とくにはじめて聞く京都での土壁住宅のお話しは、興味津々。
今後のひとつのテーマとして、取材を続けたいと思います。
で、肝心の主催者・前真之東大准教授がなかなか姿を現さない。
どうも事故で右手を、どうやらきのう骨折されたようで
その手当や、痛み止め注射などで体調不良だったようです。
でもまぁ、なんとか、時間は遅れましたが、
最後には元気に発表されていました。
って、パソコンもなかなか使えない状態みたいです。
げ、原稿はどうなるのか、やや懸念を持った次第。
1日も早く回復していただきたいと思います。
Posted on 7月 25th, 2014 by 三木 奎吾
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本日は東京に日帰り出張であります。
昨年も行われた「蓄熱研究会」の第2回が行われるので、もろもろ取材。
なんですが、この時期はできれば東京出張は避けたいのがホンネ。
歳とともに、暑さの方にはすっかり弱くなってきている。
北海道に住んでいられる幸せは、夏にこそある。
北海道も暑くなってきたけれど、カラッとした暑さであり、
夜間にはクールダウンする暑さ。
家にいても、空気の温度差を利用しての換気を考えれば、
快適に過ごす工夫が楽しめる。
夜間には、空気の道を考えて窓を開けて楽しんでいます。
朝方、寒いほどに室内がひんやりとすると、
この地らしい工夫の楽しさが感受されます。
子どもの頃とか、好奇心いっぱいだった若いときには
「日本の蒸暑」に深く憧れていた。
北海道に生まれ育った少年には、話に聞く高温多湿の空気感が恋しかった。
ホンの束の間、蒸暑の夏が北海道でも数日、楽しむことが出来て
「こんな空気感が、ずっと継続しているニッポンの夏」に
激しく思い焦がれる部分があったのです。
そしてその思いの中には、日本の夏の持っている生活文化の濃密さがあった。
浴衣に着替えて、ウチワを持って夕涼みする。
川縁で花火を眺めて、家に帰ってスイカを食べる、みたいな。
そういったニッポンの家族が楽しんでいる普通の生活体験が
匂い立つニッポン文化だと、子供心にそう考えていた。
暑いね、と言葉を交わしながら、
表情に「うれしいね」と書いてある会話が、北に生きる日本人の共有精神。
しかしいま、その日本の夏が年とともに凶暴さを見せていると感じる。
自然のクールダウン装置がそれとして機能しなくなってきて
炎暑がコンクリートに「蓄熱」されて
凶暴化した暑さが、襲ってきているように思われるのです。
こういった現代の環境の中で、いかにして室内環境の適性化をはかるか、
「蓄熱研究」には、そういった側面も大いに期待している次第。
さてちょっと、荷物も重たい道中であります。
ふ〜〜、がんばるぞと。
Posted on 7月 24th, 2014 by 三木 奎吾
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きのう朝に、20日朝に気仙沼の漁港で仕入れたホヤが到着。
漁師さんに教えてもらったホヤの捌きをやってみました。
会社スタッフにその旨、朝会で話したのですが、
ホヤを好きな人、と問いかけても無反応に近かった(笑)。
まぁ、きのう朝に会社にいた11人中、なんとかひとりはいました。
「食べたことある人?」と問いかけたら、
「わたし、食あたりしたことがある」という申し出がひとり。
なんでも、食べて具合が悪くなったということ。
総じて、違和感ムンムンの反応と言えるでしょうか(笑)。
やはり、北海道の人はホヤを食べるという食習慣はあんまりありませんね。
わたし自身も、東北によく行くようになって、
はじめて食べるようになったのが実態。
まぁよくわかりますね。
ということで、東北をよく理解する意味でも、これは避けて通れない(笑)。
昼に、解体ショーを実演することにしました。
で、用意していると、数人が「わたしちょっと・・・」という感じで逃亡。
おいおい、でありますが、強制もできませんね(笑)。
集まったのは、腰の引けていたカミさんを含めて6〜7人。
まずは、上の写真のホヤ上部、左右の突起のすぐ下側に横にメスを入れる。

そうすると、プシューッとホヤの体液が飛び出してくる。
おかしい。
で、今度は切り込み部分にタテに包丁を入れる。

そうすると、目に鮮やかなオレンジ色の肉質部分が
ほわん、というか、ほやっと、というか
感覚的にはかわいらしく露出してくる。
たぶん、捌いていて、愛情を感じる瞬間であります。

で、流水で内臓のような部分を除去しながら
肉身だけにしていく。


こうして捌いた肉身を適当に切って
一口大に。
そのまま頬張るのが磯の風味も口中に広がって
いちばんおいしいけれど、
保存も考えて、あらかじめ用意の酢の物に入れました。
スタッフに聞いたら、捌いてすぐのホヤを食べると
ほぼすっかりファンになるようです。
ということで、本日は、編集長お料理シェフ篇でした。
Posted on 7月 23rd, 2014 by 三木 奎吾
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久しぶりに、というか、1年半ぶりくらいでの
岩手県住田町訪問でしたが、
びっくりさせられたのが、「新庁舎」が立派に完成寸前だったこと。
旧庁舎はとなりにありましたが、古式ゆかしい
「町役場」という言葉そのままのたたずまいで、
しかし、そういうなかでつつましく地域の生き残りを必死に願っているさまが
訪問する人に伝わってきている建物でした。
何回か、その旧庁舎に伺ったことがある人間からすると
場違いなほどにステキなモダンデザインと美しい木の町にふさわしい外観。
気仙杉と気仙大工の里らしく、豊かな木質感がデザインされていて
こんな背景の中で美しいフォルムを見せている。
住田町は、東日本大震災勃発後すぐに
町内で生産される木材を使って木造での応急仮設住宅づくりに立ち上がった。
隣接する大船渡市・陸前高田市とは「気仙」地域の共同体でもあり、
住田がまず助けなければ、という使命感が
町を突き動かした動機だったのだと思います。
すぐに出来上がった木造応急仮設住宅は、いまでも熟成すら感じさせる
街並み景観をもたらしていて、
プレハブ仮設住宅のみすぼらしさからはまったく異次元。
その後、福島県での木造応急仮設住宅の動きに大きな起動力を与えました。
いま、復興住宅も町内に建設され、
気仙地域らしいたたずまいの街並みが構成されている。
東日本大震災を契機として、露わになった現実の中で
未来に繋がっていく大きな芽も育っているのだと思わされる。
建物としてはおおむね出来上がっているけれど
まだ使用されていないようなのですが、
現代に、気仙大工の心意気が力強く蘇ったような気がします。
Posted on 7月 22nd, 2014 by 三木 奎吾
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19-20日の二日間、約1年ぶりに陸前高田から石巻まで視察しました。
折から、22日からの天皇行幸を控えて、
随所にその予兆を感じながらの2日間でありました。
今回は盛岡で、東北フォーラムや北海道のソトダン21というグループなど、
全国の住宅技術研究団体4団体による合同交流例会。
その日程が19日前半まで組まれていて
午後2時過ぎ頃に終了後、北海道のソトダン21メンバーと同行しての道行き。
東北在住のメンバーを案内役にして、
住宅復興、地域復興の現状を見て回った次第です。
ルートは住田町でモデル的な住宅を見学後、陸前高田の状況視察、
そこから南下して気仙沼。1泊して、さらに南三陸、女川、十三浜、
最後は石巻の現状を視察するという岩手〜宮城地域であります。
22日から天皇陛下は、1泊目南三陸、2泊目気仙沼と宿泊されます。
そのうち、2泊目に当たる気仙沼では、陛下の宿泊先と同じホテルに投宿。
途中各地で警備に当たる警察関係の車両が目に付きました。
震災後、3年半近く経って、世間の話題が沈静化しつつあるこの時期に
国民統合の象徴としての陛下の行幸は、
再度、スポットを当てることに繋がるかも知れません。
そうした成果を期待したいと念じます。
ただ、各地ではそのお迎えの準備などで緊張も高まっていました。
今回の視察でいかにも象徴的だったのが
写真の陸前高田の「ベルトコンベアー」の巨姿であります。
全的な津波被害を受けて、平野部ほぼ全域に、
周辺山地の土を掘削してこのベルトコンベアーで集積地に移動させるのです。
人類史上でも、そうは類例がないような事業が
忽然として出現していました。
多くのみなさんから疑問や否定的な反応が見られているようです。
そうした見方も理解は出来る部分がありますが、
現代の人命尊重と民主主義という社会の体制の中で、
そのとどのつまりの震災対応策として、
このような形になること自体は、やむを得ない部分があろうかと思います。
しかしこれは大変な自然改造であり、破壊であることは疑いがない。
陸前高田の市長さんは、決断に当たって大きな覚悟は持たれたでしょう。
そのことがどのような歴史的審判を受けるかは、
時間の経過を見ていかなければならない。
ベルトコンベアー設置稼働だけで120億円の巨費がかかるそうで、
一時的な利用だけのためにそうした巨費が投じられることに
大きな批判があるそうです。
しかし、「奇跡の一本松」だけがセンチメンタリズムの象徴になったとしても
地域としての陸前高田が力強く蘇ることにもならない。
行政府がなさねばならないことには、
批判を覚悟して勇気を持ってかからなければならないこともある。
そのとき不人気だとしても、社会のために必要なことを為すのが
政治の役割だというのも、厳粛な事実だと思います。
さて、このような光景が天皇陛下の行幸とともに
全国に情報発信されて、国民各層からどのような反応が出てくるか、
注目していかなければならないと思っています。
Posted on 7月 21st, 2014 by 三木 奎吾
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おにけんばい、と読むのだけれど、
岩手県北上地方に伝わる民族舞踊であります。
きのう、盛岡南方の紫波町での住宅関係団体の会合で
余興として行われていました。
Wikkipediaでは、
念仏踊りに分類。正式には念仏剣舞のひとつであるが、
威嚇的な鬼のような面(仏の化身)をつけ勇壮に踊るところから、
明治後期以降(1897年(明治30年)頃)に「鬼剣舞」と呼称されるようになったとみられる。
(→ 下記、鬼剣舞伝承系統 – 岩崎系譜 – 御免町鬼剣舞の項参照)
かつては男性が演じることがほとんどであったが、
最近では女性の演じ手も増えている。
この踊りの独特の歩行に、修験道の鎮魂の呪術のひとつ
「反閇(へんばい)」がある。陰陽道で用いられる呪術的歩行のひとつで、
「大地を踏み悪魔を踏み鎮め、場の気を整えて清浄にする目的で行われる舞い」の要素と、
念仏によって御霊や怨霊を往生させて災厄を防ぐ
浄土教由来の信仰的要素が見られる。
というような出自を持っているとされます。
中世のころから行われてきているものには違いがないけれど、
いかにも、土俗的で体技に日本人的な特徴がよく表現されている。
能の本を読んでいたら、こうした体の使い方に
こうした芸能の楽しみが存在するという。
いろいろな伝統芸能があるけれど、
北海道の出自のわれわれには、
まことにうらやましい豊かさを見せつけられる思いです。
すばらしい。
Posted on 7月 20th, 2014 by 三木 奎吾
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江戸時代の大名庭園は、いろいろ見学して来ました。
岡山の後楽園、会津の御薬園、水戸の偕楽園、東京では浜離宮や清澄庭園など
そんな仕上げで有名な兼六園も見た次第。
そのなかの建築はそれなりに興味を惹くものもあったけれど、
しかし、庭園そのものについては
個人的にあんまり興味を持てませんでした。
そもそも最盛期に江戸市街の半分以上が、こうした大名庭園で占められていたという
そのことに、「なぜなのか」という視点・論点を見いだせない。
江戸というのは、新興の武家政治の首都として
諸大名が武装を解除して徳川家に忠誠を誓う参集地として造作された。
そこで各大名に用地を与えた、までは了解可能。
しかしそのかれらが、なぜ争うように庭園造作を行ったのか、
どうしても想像力が刺激されない。
歴史の本でも、「こういうのができました」とか
「日本の庭園の流れ」みたいな記述はあるけれど
その動機を解明するような意見は聞いたことがない。
まぁわたしの想像では、平和志向の高まった江戸時代初期に
各大名が、それぞれの国元での城郭建築をやめさせられて、
その財力を傾けさせるための「江戸の街づくり」の都市計画まで
負担させられて、いわば、江戸城建築のさらに派生的な
大名統制策の一環として、こういった庭園建設が奨励されたものか。
それにしてもなんとバカバカしいことに財力を傾けたことか、
と思わざるを得ない。
それに、庭園それ自体の魅力というのは、わたしには興味はないけれど
それにしても、これら各庭園に、どのような格付けがあったのか、
それがどのような意味合いを持っていたのか、などなど、
まったく理解出来ません。
ということなので、
これが天下の名園、兼六園か、という感慨も
まったく意味が不明と思ってしまう次第。
日本の歴史にとって、この庭園群はどういった意味合いがあるのか、
だれか、教えて欲しいものだと、いつも思っております。
っていうことで、本日は、怒れる中高年男ということであります(笑)。
たいへん失礼いたしました。
Posted on 7月 19th, 2014 by 三木 奎吾
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写真は、新潟近郊の汽水地域の博物館で見た「葦船」。
カヌーなどに比べて大型の船が造作しやすかったことから、
環日本海地域での地域間交易に使われただろうと推定できます。
同様の環日本海地域北方の汽水湖地域・北海道オトンルイ遺跡などを見ても
古代の人々は、いくつもの船、通常使用の自家用車的なカヌーから
外洋航海用の大型船まで、自在に海の道を使って漁をしたり
交易をしたりしていたに違いないと推定されています。
その外洋航海用の大型船として、このような「葦船」が利用されたと思われる。
でも、その復元はここではじめて見た次第。
以下、カムナ葦船プロジェクト〜太古の智慧をつなぐ旅〜という
WEBサイトからの要旨抜粋。
葦船なら今も昔も同じ方法で大型の船を作ることが可能です。
ノルウェーの探検家トール・ヘイエルダール博士による、
「葦船ラー Ⅱ号」(1970)での大西洋横断、
「ティグリス号」(1978)によるティグリス川から
エジプトまでの航海をはじめ、
スペインの冒険家キティン・ムニョス氏による、
「ウル号」(1986)、「マタランギ Ⅱ号」(1999)の航海から、
葦船が大陸間の航海に十分耐えうるものであり、
古代において民族や文化交流の手段になっていたのではないか?
という可能性が既に示されています。
世界の人類学では、南北両アメリカ大陸の先住民は、
ベーリング海峡以外の移住ルートでも渡った事がほぼ確実とされ、
その多くは日本の縄文人やアイヌ民族ではないかとされています。
植物分類学では、多くの野菜や植物が古代人の移動に伴い
環太平洋各地に分布したとされています。
少なくとも10000年以上前にベネズエラ原産のサツマイモが
ニューギニアで食されていました。
また、縄文時代の土器と同じ模様のものが
中南米やポリネシアからも見つかっています。
10000年から6000年前、
縄文時代の海洋民族が
葦船で太平洋を航海したのではないかと考えられないでしょうか?
学術的な立証には、物的証拠が不可欠ですが、
残念ながら古代の葦船が発掘されることはありません。
なぜならば、植物である葦船は、その役目を終えると土に還る船だからです。
というようなことなのですね。
縄文時代人といえば、環日本海地域のみならず、
むしろ関東や東北、北海道地域が人口も優勢なワケで
そこから外洋へ、大型の葦船でアメリカ大陸を目指して船出するような
そんな人類的経験をかれらが行ったと考えるとクラクラする(笑)。
そうでなくても、
北海道が主要産地である鋭利な刃物として使われた黒曜石が
日本各地に「輸出」されている様子や、活発なものの交易実態が
証し立てられているワケで、その移動手段として
こういった葦船のようなものが役を果たしていたという想像は、蓋然性が高い。
そもそも汽水地域には、葦のような素材は普遍的に存在する。
先日も書いたように、日本列島は、海洋に対して水郷的な汽水地域が
関東などをはじめ、まさに列島を覆うように存在していたに違いない。
現代のわたしたちがすでに忘却してしまったけれど、
しかし容易に復元可能な、DNAに刷り込まれた想像力の方向性を
こんな葦船に強く感じていた次第であります。
現代のわたしたちよりも、むしろずっと自由に生きていたのではないか・・・、
ふと、重低音のようなそんな思いがよぎったりする。
Posted on 7月 18th, 2014 by 三木 奎吾
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中国での忌まわしい官許の「反日」暴力デモ、
韓国前大統領の竹島上陸、天皇謝罪要求発言以来、
経済的に台頭してきた両国による日本叩きが活発化した。
一方、70年も前のことで、ずっと「謝罪」させられ続けることに
日本の側でも屈辱感が沈殿し、「そこまで言われる筋合いはない」的な
反発の空気が大きくなって来た。
そこをとらえて、「軍国化している」という中韓の批判は、しかし受け入れがたい。
その原因は中韓による民族主義攻撃にこそある、と言いたい気分が支配的。
こうした気の重い国家関係に日本は現在、否応なく引き込まれている。
アジアは、歴史的にずっとこういう力関係が支配してきた世界であり、
日本はこういう関係が国民気質的にも、いやだった。
ただ、歴史的に見れば、古代の白村江敗戦からの数世紀は、
世界最強国家・唐の圧迫の中で、
「遣唐使」という名前の朝貢外交で生き延びてきたのも事実。
また陸続きである朝鮮国家は、度重なる被侵略経験から
対中国で事大主義の使徒となり、衛星国家であることに甘んじ続けてきた。
基本的に中華国家の盛衰によって国際関係は微妙に変化し続けた。
こういう東アジア3カ国の関係は、ほかのヨーロッパ世界とは
大きく異なる歴史を紡いできたのだと言える。
ヨーロッパ世界が血で血を洗うような戦争を幾度も経験する中で
「国際法」的な国家関係秩序観念を作りだしてきたような
そういった自立的な秩序は、東アジアでは育たなかった。
中華国家が常に「皇帝独裁・一党独裁」という非法治体制を続けてきたことが大きい。
あれだけの巨大国家では、法治は難しいのかも知れない現実がある。
これは日本にとって不幸であるだけでなく、
擬制的宗主国・中国にとっても大きな不幸だったのだと思う。
そして、明治以降、日本が「脱亜入欧」スローガンの元、
東アジア世界からの離陸をはかり、それが成功的に推進され
当時の「一等国」の普遍的なふるまい、植民地支配地域の獲得・拡大を
東アジア世界で行うという蛮行・愚行に至ったことは、
大きな反省教訓として、日本は肝に銘じ続ける必要はある。
そしてその被害にあった各国に対して、謝罪をすることは当然だと思う。
それが正視すべき「第2次世界大戦の戦後体制」であることは論を待たない。
しかし戦後、東西冷戦構造の中で
日本は、占領されたアメリカとの片側的な関係、属国的な関係のなかで
世界に立ち現れ、その枠内で行動し続けてきた。
東アジア世界は、東西冷戦構造の中で朝鮮半島地域が分断され
戦争も勃発し、日本はアメリカの戦略的要衝地域として
アジアでの不沈空母として、機能し続けてきた。
軍事バランスとしては外側から見れば
日本国内的には「非核3原則」遵守を謳っているけれど
アメリカは「どこに核兵器があるか、軍事機密」として公表しないのだから、
強大な軍事基地のある日本には当然核兵器はあると、
仮想敵国側は、そのように認識するだろう。したがって、
「アメリカの核兵器が存在し、米軍が駐留する」重武装でありながら
一方で日本国内的には憲法9条によって戦争を放棄する
空想的平和国家として存続し続けてきたというのが現実的理解。
戦後の日本は、突き詰めて言えば世界最強のアメリカ軍事力に守られながら
主観的には、諸国民の平和への希求によってのみ「守られる」
9条憲法を持つという、まるでホンネと建前を使い分けるかのような
「いびつな国家」であり続けた。
ようやくアメリカの一強世界支配体制が経済的に破綻を見せるようになり
米軍が今後も駐留し続けるかどうかすらも疑わしい情勢になって
その間隙を縫うように、経済力の向上した中国と韓国が
日本に対して別々の思惑で、しかし一致して反日外交を展開してきたのだ。
まことにむずかしい局面に日本の現実は置かれている。
やはり基軸は日米関係に置くのは安定保守を考えれば常識的な選択。
いまの韓国が取っているようなヤジロベエ的なスタンスは、日本にはありえない。
まさか、共産党独裁の異質な価値観の
いまの中国国家と戦略的基軸的な関係を結ぶことはありえない選択。
こうした地政学的な現状認識は、日本人はおおむね同意だと思う。
そういうなかでいかにして、中韓と平和的な関係を構築できるのか。
ことはそう簡単ではない。
しかし、そういった難しさの中で、それでも地道に努力するのが外交だろうと思う。
言うべきことはきちんと言って、しかし可能な限り冷静に平和的関係を志向する。
ふつうに考えてこのような対中韓国家戦略が、いま、妥当性がある。
どこまでも冷静に対処していくしか、日本には道はない。
しかしこれは「ふつうの国」の国民としてのよき鍛錬になるものかも知れない。
そう考えて対処するべきなのだろう。
ベトナム沖から中国の石油掘削装置が撤収したそうだ。
冷静な対応を見せてきたベトナム国家の姿勢は評価に値すると思う。
Posted on 7月 17th, 2014 by 三木 奎吾
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