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金沢兼六園をみる

1787

江戸時代の大名庭園は、いろいろ見学して来ました。
岡山の後楽園、会津の御薬園、水戸の偕楽園、東京では浜離宮や清澄庭園など
そんな仕上げで有名な兼六園も見た次第。
そのなかの建築はそれなりに興味を惹くものもあったけれど、
しかし、庭園そのものについては
個人的にあんまり興味を持てませんでした。
そもそも最盛期に江戸市街の半分以上が、こうした大名庭園で占められていたという
そのことに、「なぜなのか」という視点・論点を見いだせない。
江戸というのは、新興の武家政治の首都として
諸大名が武装を解除して徳川家に忠誠を誓う参集地として造作された。
そこで各大名に用地を与えた、までは了解可能。
しかしそのかれらが、なぜ争うように庭園造作を行ったのか、
どうしても想像力が刺激されない。
歴史の本でも、「こういうのができました」とか
「日本の庭園の流れ」みたいな記述はあるけれど
その動機を解明するような意見は聞いたことがない。
まぁわたしの想像では、平和志向の高まった江戸時代初期に
各大名が、それぞれの国元での城郭建築をやめさせられて、
その財力を傾けさせるための「江戸の街づくり」の都市計画まで
負担させられて、いわば、江戸城建築のさらに派生的な
大名統制策の一環として、こういった庭園建設が奨励されたものか。
それにしてもなんとバカバカしいことに財力を傾けたことか、
と思わざるを得ない。
それに、庭園それ自体の魅力というのは、わたしには興味はないけれど
それにしても、これら各庭園に、どのような格付けがあったのか、
それがどのような意味合いを持っていたのか、などなど、
まったく理解出来ません。

ということなので、
これが天下の名園、兼六園か、という感慨も
まったく意味が不明と思ってしまう次第。
日本の歴史にとって、この庭園群はどういった意味合いがあるのか、
だれか、教えて欲しいものだと、いつも思っております。
っていうことで、本日は、怒れる中高年男ということであります(笑)。
たいへん失礼いたしました。

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