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美しい雲、空気感から

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ことしは明確な「梅雨明け」は、東北北部であったのかどうか、
盛夏を過ぎてもなお、暴れ回るような天候が各地で続いていますね。
北海道で本格的な入道雲、それもくっきりとした男性的なお姿を見ることは
あんまりないのですが、雨の合間に
西日も受けた神々しいお姿を一瞬、目にさせていただきました。

「風たちぬ」という宮崎駿さんの最新作が話題です。
不勉強でわたしはまだ観ていないのですが、
内田樹さんのブログを読んでいたら、その感想文が掲載されていて、
その内容に痛く、同感させられました。
戦前までの日本社会がゆったりと持っていた自然との共感の時空間について
それを「映画としてしか表現できない世界」として
宮崎さんは描きたかったに違いない、という論旨でした。
このこと、宮崎さんの作品には一貫して描かれていることで
内語として同意していた部分だったのです。
それをくっきりと内田さんは言葉にしたと思いました。
現代がなくしたものは数多いと思いますが、
風土、という言葉が表現する、風の質感、空気の手触りのようなもの、
そういうかけがえのないものを愛でるこころが、
わたしたちの日常生活から激しく脱落していっている実感はすごく共感する。
農薬を使わず、人手をかけて美しく管理され続けてきた田畑の生み出す清浄感。
その土から、豊かな水分が強い陽射しの中、空気に吸い込まれていって
そこに重いけれど、軽さもある風が吹き渡っていく。
それを敏感な感受性でみんなが受け止めて、共有認識としていた。
そんな豊穣な世界観を、わたしたちは確実に失ってしまったのだと思うのです。

網野善彦さんの著作を読むと
日本人は過去、いくつかの精神世界の大転換を経験しているそうです。
とくに大きな転換は、中世から近世、戦国初期からの転換のようです。
そこでは、大きな要素として貨幣が日常生活レベルで使われはじめての意識転換が
大きい要素として語られていました。
それまでの「交易」から「商売」に大転換した,ということなのかも知れません。
人間の暮らしを貨幣ですべて表現することに同意した、みたいな。
14〜15世紀にかけて、
「日本人は変わった」という歴史認識を網野さんは指摘しているのです。
その大転換以上の大きな変化が起きているのが、いちばん直近の戦後以降のようです。
どうも、はじめに書いたようなことがその実質であるとすると、
なんと巨大な欠落をわたしたちは経験することになるのか、
深く、思いを致さざるを得ないと思います。
しかしまだ、こんな写真のような「機縁」は存在するのではないか。
人間世界はどんどんバーチャル化・「頭の中だけ化」が進行しているけれど、
自然は、なにかを垣間見せてくれているのではないでしょうか?

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