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気仙川畔 逍遙

さて今朝も、印象が深かった岩手県住田町での民宿体験から。
やっぱりときどき、自分の持ち分領域とはまったく違う場所からものを考えるというのは
なかなかに有意義なものなのだなぁと気付かされております。
喰わず嫌いで、決めつけて考えるというのは「イデオロギー」的な考えで
それはそれで必要があるし、納得できるけれど、
そればかりでもバランスを欠くものだと思う。
教育問題をはじめ、多くの示唆に富んだ発言をされている内田樹さんのブログで
つい最近、日本社会での「穢れ」と「供養」についての発言があったのですが、
なるほど、「供養」というのは他者への想像力を涵養する行為なのだと思い至った次第。
現代日本社会は穢れを排除して、必死に「日常」のバランスを取っている。
しかしそれは、ただ排除しているだけで生み出されてくる必然性に対しての
真摯な分析がないのではないか、と提言されているのです。
とくに教育問題・いじめの問題での発言が多いのですが、
こういう「穢れへの排除」の論理が市民社会に徹底しつつあり、
いつなんどき、自分自身がその排除の対象にさせられるか知れないという恐怖感が
この社会を支配して来つつある、という部分に強く反応させられました。
やはり「供養」のこころで他者に対する必要があると思わされます。
供養というのは、違う視点から、あるいは別の場所から
自分たち自身を省みて、自他のその違いについて想像力を働かせる
日本的な精神機能なのだ、というように言われているのです。
たまたま、この気仙地域での体験は、
よく似たような邂逅感をもたらせてくれたのですね。

で、なんとなくそんな気分の中にいて
民泊先の農家のすぐ近くの気仙川の畔に沿って、朝、散歩してみた次第。

まことに清流であります。
あゆの生育する環境だそうで、
たいへん清浄な空気感が凜として張り詰めているような景観。
急峻な山がすとんと谷沿いの地形に落ちていて、
谷川のようになっている気仙川と接するあたりには、
水平な緑の葉っぱが傘のように水辺を覆っている場所があり、
水鳥たちが羽を休める空間を作っている。
かれらはこうした場所を好むように勝手に決めつけて思われるのは、
なにか、そういう生態系学習の記憶があったのでしょうか(笑)。
なぜか、日本の清流の景観として、典型を見せられるようです。

一方、川沿いの緑地帯には
写真のような「女郎蜘蛛」が異常に発生しているのだとか。
生態系で考えてみれば、小さな羽虫がかれらの主食でしょうから、
昨年、大震災以降ハエの大量発生があって、
それを捕食するかれらの異常発生を促しているのかも知れませんね。
まぁ、よくはわかりませんが、
因果応報を感じさせるし、また自然の復元力が働いているものなのかも知れない。
そんな風に考えることも、「供養」的な考え方なのかも知れない、
そんな風に思った次第であります。

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