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会津・大内宿

先般、福島県での講演のとき、
ちょっと足を伸ばして、念願だった「大内宿」を見学取材してきました。
この宿場の概要は、wikipediaでの説明では以下の通りです。

南会津の山中にあり、全長約450mの往還の両側に、道に妻を向けた寄棟造の民家が建ち並ぶ。江戸時代には「半農半宿」の宿場であった[4]が、現在でもその雰囲気をよく残し、田園の中の旧街道沿いに茅葺き民家の街割りが整然と並ぶ。
大内宿本陣跡には、下郷町町並み展示館がある(地図)。民宿や土産物屋、蕎麦屋などが多数立ち並ぶ。特に蕎麦に関しては、高遠そばの名で知られており、箸の代わりにネギを用いて蕎麦を食べる風習がある。

現地での説明では、会津に入った徳川氏が
会津若松から奥州街道に早く出るために急ぐための山道があり、
その最初に泊まらなければならない場所に
宿泊施設を集中させたのが始まりなんだとか。
江戸時代の大名家というのはもちろん、政治的軍事的な組織ではありますが、
一方で経済の立脚点としての地域の米の独占による
経済共同体という側面があって、今日の大企業と似た性格があると思います。
その共同体の組織運営の必須要件に「参勤交代」があり、
江戸との交通の確保と言うこと自体が
経済行為として大きな部分を占めていたようですね。
そうした行為に奉仕する地域として、この大内宿は形成され、
山深い孤立的村落だったことから、ほぼ原形を留めた形で
現代にまで生き延びてきた特異な建築施設群です。

街並みには、馬に与える水道が確保されていて、
その左右に茅葺き屋根の宿泊施設・飲食施設が集中しています。
殿様の旅宿というものが、
どれほどの経済規模をもたらせたかは、推定できませんが、
少なくとも現存している建築群が生き延びてくるに足るだけはあったのでしょうね。
あんまり調べてはいませんが、宿泊建物は30棟以上はあった。
それらに各30人くらいの人員が宿泊していたとすれば、
1000人くらいの規模でのホテル機能を果たしていたのでしょうか?
東横インで落とすお金を基準に考えると(笑)
5000円×1000人で、5,000,000円程度。
そういった営為、殿様の大名旅行として利用されるときには
たぶん「全宿お借り上げ」だったでしょう。
で、それ以外では通常的な営業活動も行っていたに相違ありませんから、
稼働が年間で、どれくらいあったのでしょうか。
限りなく経済人としての興味がワクワクしてきます(笑)。

しかし、建築的空間としてみたとき、
この美しさ、端然とした趣の重厚さは
現代の建築群をはるかに凌駕して迫ってきます。
しかし、この会津の山奥でも、今回の福島原発事故での
風評被害で、客足は激減しているのだそうです。
むむむ、と思わされる次第です。

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