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日宋貿易と金決済

以前にも触れましたが、
平泉藤原氏の滅亡の状況分析、
ちょっと、考えていることを書き留めておきたいと思います。

日宋貿易、というと
平清盛の経済的基盤として語られる機会が多い。
事実、日本の政局を動かし続けてきたのは
関東の開拓農民たちの地生えの土地権利意識の高揚と、
一方では、大陸との伝統的な交易利権との相克、というのが基底要素だと思う。
古くは、平将門と藤原純友が同時に起こした革命、天慶の乱が
まことにまっすぐに日本の基本的構造を物語っている。

で、清盛って、
積極的にこの大陸との交易利権に関わっていたわけですが、
その時代は同時に平泉藤原氏の黄金時代にも符合している。
日本は日宋貿易において、金を決済手段としたようで、
その金は、まず間違いなく奥州産の金が宛てられていたことは疑いがない。
宋という国は、貿易や商業に強い興味を持った国家だったそうで、
なんでも金で解決していた国だそうです。
戦争にはまったく弱くて、戦争終結には金を払って解決した。
その分商業は奨励して、国を挙げて交易で稼いでいた。
そういう国で、交易港が指定されて、
日本との交易も行われていて、その元締めが清盛だった。
で、宋は西洋やアラビア圏とも商売していたが、
かれらが、貿易決済手段として金を要求したのだそうだ。
そこで、金を決済手段とした日本の側の優位性が高まった。
同じような量を出荷していた、「金売り吉次」商会は、
需要が高まることで、利益を拡大していった。
そういう経済力を持って、朝廷政権とバランスを取って
朝貢関係はあるけれど、相対的に独立していた平泉藤原政権は存立していた。
そういった藤原氏は、朝廷側や平氏政権などと深入りした関係があったに相違なく
外交的関係のバランス感覚がかれらの基本生存要件になっていた。
平泉藤原氏の滅亡要因は、
こうした世界と日本の情勢のなかに、関東の開拓農民によって
新たな政権が生まれてくるということを見通しにくかったことがあるのではないか。

平泉藤原氏の側から言えば、
好きこのんで、日本内部の政治権力争奪にからむ必然性は薄かった。
奥六郡を本願として、白河の関以北を天地として
大きな争乱要因もなく百年の平和を謳歌していたかれらにとって、
源平争乱や、頼朝・義経の兄弟ケンカなど
いい迷惑ではあっても、積極的に介入すべきことではなかった。
しかし、頼朝の側からすれば、
土地に飢えた御家人たちに配給できる広大な領土として
奥州は、まさに垂涎の存在だったのだろう。
どうも、こういった初動の認識の違いが
藤原氏のあっけない滅亡の基本原因だと思われてならない。
<写真は墓参りのあとに遭遇した戦車。逆光で見にくい>

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